第120話 エルの決意
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十メートルくらいの崖下でヨダレを垂らしながら吠えていた巨大熊が、ほぼ垂直の崖を巨体を揺らしながら登ってきた。
迫りくる危機に、僕たちは大混乱である。
「お、お兄様! このままだと全員、食べられてしまいます!」
いつも冷静なリゼが、恐怖のあまり珍しくうろたえていた。
僕に対する呼び方も、戦闘中のクリスから通常時のお兄様へ戻ってしまっている。
「皆、巨大熊相手に接近戦は不利だ。距離を取るためにも一旦逃げよう。クラウを先頭にエル、カルラ、リゼ、僕の順にこの場から退避。戦いやすい開けた場所へ移動しよう」
「了解! 先頭はアタシに任せてくれ。クリスが殿なら、安心して前だけに集中できる」
「お兄様、即死だけは避けてくださいね。いくら私が大聖女でも、死人を生き返らせることはできませんので」
リゼが真剣な眼差しで僕を見つめている。
「わかった。リゼは走りながら結界を維持して。前だけしっかり見てクラウ、エル、カルラ、リゼの四人を結界で守ってね」
「お兄様の結界は?」
「僕は光魔法がSになったからね。自分の結界で守るので大丈夫。さあ、時間がない! 皆、クラウに続いて!」
僕の号令で一斉に皆が走り出す。
僕は最初の時間稼ぎにと、崖を登る巨大熊に向けて適当に土魔法を撃ち下ろしてみた。
すると巨大熊が右手をブンブン振って、鋭いツメで全ての土魔法が破壊されてしまったではないか。
そして、すぐにまた崖を登り始めた。
ヤバイ、追いつかれる!
僕は慌ててその場を離れて、後ろへ走った。
しばらくすると後方に嫌な気配を感じる。
僕が振り返ると、ちょうど巨大熊が崖を登りきったところだった。
そして僕を確認すると四本足で走り出し、一直線に向かってくる。
は、速い! このままだと、すぐに追いつかれてしまう。
僕は走るのをやめて後ろへ振り返ると、巨大熊の前に土魔法で高さ二メートルくらいの壁を作った。
これで速度が落ちるはず。
するとヤツは、涼しい顔で飛び越えやがった。
マ、マジか! どんな身体能力してるんだよコイツ。
僕は慌てて土魔法で今度は高さ三メートルくらいの壁を作った。
どうだ、これは飛び越えられないだろ!
僕は再び後ろへ走り出し、巨大熊から逃げ出した。
すると後方でバラバラと壁が崩れる音がする。
慌てて後ろを振り返ると、ヤツが体当たりで壁を破壊していた。
信じがたい光景ではあるが、スピードを落とすことには成功しており、再び距離が開く。
僕は一旦走るのをやめて巨大熊に向き直り、土魔法で高さ五メートル厚さ五メートルの壁を作った。
これで飛び越えることも、破壊することもできまい。
それから僕は再び後方へ走り出した。
すると、ようやく最後尾を走るリゼに追いついた。
「リゼ、大丈夫? だいぶ息が乱れているようだけど」
「は、はひ」
息が上がってしまい、まともに返事ができていない。
武力29のリゼにとって、走りにくい山道をダッシュするのは、かなりの負担である。
「エクストラヒール!」
僕は走りながらリゼを回復させた。
「ありがとうクリス、おかげで楽になりました。巨大熊は?」
「大きな壁を作って、足止めしておいたよ。今のうちに少しでも距離を取ろう」
走りながら後ろを振り返ったリゼが、大きく目を見開いた。
「ク、クリス! 巨大熊が!」
リゼが絶叫しているので僕が後ろを振り返ると、巨大熊が五メートルの壁を登り切り、走り出したところだった。
ヤツが壁から飛び降りて山道に着地すると、ドシンと大きな音が森中に響く。
前を走るクラウ、エル、カルラの三人も驚いて後ろを振り向いた。
「クリス! 前方に開けた場所が見えてきたぞ!」
先頭を走るクラウから、嬉しい言葉が聞こえてきた。
「そこまで移動して、巨大熊を迎え撃とう!」
「了解!」
僕たちは懸命に走り抜いて、ついに戦いやすい開けた場所へ辿り着いた。
ところが、周囲を見回すと何か違和感があるのだ。
どこかで見たような地形だな。
縦横それぞれ五十メートルくらいの正方形のような地形で、高さ十メートルくらいの岩壁に囲まれていた。
そして天井は中心部分を除いて木が生い茂っており、中心部分からは日が差している。
地形の中央付近だけが日なたになっており、ポカポカと暖かそうで昼寝にはもってこいの状況だ。
「お兄様、ここって巨大熊が昼寝していた場所なのでは!?」
「そうみたいだね……」
戦いやすい開けた場所を見つけたと思っていたら、巨大熊の塒だったなんて。
次の瞬間、この閉ざされた地形の唯一の逃げ道である場所から巨大熊が現れた。
ようやく僕たちに追いついたらしい。
そして四本足で歩くのをやめて二本足で立ち上がると、両手を高く掲げてヨダレを垂らしながら吠えた。
「グオー!」
まるで勝ち誇るように吠えるその姿からは、『完全に閉じ込めた。おまえら全員喰ってやる』とでも言っているように見えた。
「で、でかいっすね。五メートル以上あるんじゃないっすか!」
カルラが巨大熊のあまりの大きさに驚愕している。
「クリス! 魔力切れまで水魔法Bのウォータースピアを打ち続けても良いかしら?」
エルが決意のこもった瞳で僕を見つめている。
「エルがそうしたいのならば僕は構わないけど、魔力切れが怖くないの?」
「怖いのだわ。でも私の魔力が残っている限り、クリスもクラウも巨大熊にトドメが刺せないでしょ?」
エルが苦笑して僕を見ている。
「そうだね。今日の目標はエルの水魔法をAにすることだから、巨大熊へトドメを刺すのがエルの役目だ」
「でも、巨大熊の強さは予想以上なのだわ。皆の安全を考えたらクリスかクラウが今すぐにでも討伐すべきだと思うの」
「たしかに安全面を考えたらエルの言うとおりかも。でも、僕とクラウでも一撃で倒すのは難しい相手だ。巨大熊がこんなにも身体能力が高いなんて予想外だったし」
「クリスがそれだけ強敵と認める魔物なら、なおさら私が邪魔になる。だからお願い、私の我が儘を聞いて欲しいのだわ」
僕が周囲を確認すると、皆が頷いて了承してくれた。
「わかった。皆で協力するから頑張ってね、エル」
「ありがとうなのだわ」
エルが美しいマリンブルーの瞳に力を込めて、仁王立ちする巨大熊を見据えたのだった。




