ep.59 午前10時のエレベーター
今回は、エッセイです。今通っている、B型事業所のことをテーマに書いてます。
悲しみはブルーの中にある。喜びはレッドの中にある。不安な気持ちを混ぜればパープルになる。
みんな誰にだって不安はある。その不安を取り除いてくれる場所。それを「居場所」と呼ぶのだろう。安心して過ごすことのできる場所。
僕は今まで孤独だった。孤独の海を泳いできた。岸壁は遥か遠く、浮島さえ見えない海の中を泳いできた。
どうしてか、人は皆、彷徨う。いずれ訳のわからない道を歩く。道は葛折になって、杣道を歩くような旅人には明確なゴールは見えない。
首肯いた先に見えたものは、そっと差し伸べる手だった。
溺れそうな僕の手をそっと握ってくれた。そうして僕を助けてくれた。
僕は孤独ではなかった。孤独なふりをしていただけだった。強がっていたのかもしれない。
「就労継続支援B型事業所にゃんこ」
ウェブサイトを検索しているとそんな文字が目に入った。
ネットサーフィンをしていた。オフショア。
陸から海(利用者)に向けて吹く風はサーファー(僕)にとって都合よかった。
ビルの一室、そこに入り口があった。スタッフが優しく迎え入れてくれた。
「こんにちは」
緊張を解すかのような優しい声で挨拶をしてくれた。
「こ、こんにちは」
緊張した声で返事する。
「どうぞ、こちらへ」
僕はパーテーションに区切られたデスクに案内された。
椅子に座ってしばらく待つ。書類を渡され、わかる部分に文字を埋めていく。
名刺をいただいた。オレンジ色の名刺には、なぜだか「優しさ」が詰まっていた。
一通り説明を聞くと、
「弁当、よければ食べて行きますか?」
と、言われ、「はい」と返事をする。
ほかほかの弁当が用意された。箸をチョップスティック! と割って、まずは野菜に箸を伸ばす。温かい。むしろ「熱い」と言っても過言ではない。美味しい。メインの魚にも箸を送る。まるで漂流者に温かい食事を食べさせてくれる村の優しい人に会えた感じがした。
弁当を食べ終えると、
「少し体験してきますか?」
と、言われ、机につく。椅子に深く腰掛け、作業の説明を聞く。
「宮下さんは好きなアイドルとかいますか?」
スタッフのKが訊いてくる。
僕は、「ルセラフィムとアイリットが好きです」と答える。
と言っても、一葉とモカが好きなだけで歌は全く知らない。
Kは優しい笑顔で、
「アレクサ、ルセラフィムかけて」
と、BGMをルセラフィムに変えてくれた。
他の利用者も、僕に優しく話しかけてくれた。
「ここかも」
僕の中で何かが動いた。
世界三大発明。火薬、羅針盤、活版印刷。
その一つ、方位磁針は確実に「にゃんこ」の方に向かいつつあった。
僕は孤独の海を彷徨っていた。暗がりの中に僕を照らすもの。それは「にゃんこ」という名の灯台だったのかもしれない。
ここで働きたい。
自分の中で「確実」に「ここだ」と断定形になっていた。
諸手続きが終わるまでは家で過ごしていた。
ようやく受給者証の認定調査が終わると、「にゃんこ」に通う通行手形が渡された。
エレベータに入り、3階のボタンを押す。
少し緊張している。僕は緊張すると、右の唇が震える。そう、確実に右の唇が若干キリリと痺れていた。
「おはようございます」
「おはようございます」
僕とスタッフがほぼ同時に挨拶をした。
今日からここが僕の「居場所」になるんだな。そう思うと、ワクワクドキドキが止まらなかった。
「宮下さん、お弁当、この中から選んでください」
「うわ、いっぱいありますね」
一覧になった弁当のリストから今日の昼に食べたいものを選ぶ。二十種類ぐらいあったが、どれもが美味しそうで、文字を辿る指が上下に明らかに迷っている。
「迷いますよね」
スタッフのNが笑う。つられて僕も歯を見せる。
「チキン南蛮宮崎風で」
ようやく決めると、
「好きなところに座ってもらっていいですよ」
の言葉に、エレベータ側の机の左に座った。
「今日は、これなんですけど……」
スタッフのNが、一つ見本を作ってくれた。
「ゆっくりでいいんで、ほんと、休憩しながらゆっくりやってください」
Nの言葉に安堵する。
「ここにいていいんだな」
自分の心に問うてみる。
「いいんだよ」
もう一人の自分が心の中で叫んでいる。
「お前の居場所はここなんだよ。ここが今日からお前がゆっくり自分のペースで生きて行ってもいい場所なんだよ」と。
作業を始めて2時間。あっという間に昼休憩の時間になった。
自分の机の前にトレイに載ったお弁当が運ばれてくる。
温かいお弁当。割り箸を割って、「1」と「7」に分かれる。つまりは割り方を失敗した。それでも気にせず、タルタルソースのかかったチキン南蛮を食べる。
歯茎で噛めるほどの柔らかさだ。
「うん、これは……美味しい」
心の中で呟いていた。ご飯も温かいし、味噌汁も温かい。
お弁当が無償で食べられるのもありがたい。
「いいところを見つけたな」
右の肩の上でもう一人の僕が言う。
「本当だな、幸せ者だよ」
左の肩の上からまた別の僕が言う。
いつもは右と左で喧嘩するくせに、今日に限っては仲良しだ。
昼休憩時間、僕はLINEを見た。友だちからメッセージが入っていた。
「新しいところはどうですか?」
その文字を見た瞬間、
「めっちゃいいところですよ」と返していた。
昼休憩が終わると、また作業が始まる。午前の続きをする。
時計の針はいつも右回り。未来に向かってくるくる回る。長い針と短い針がくるくる回る。
それまで、不規則な生活をしていた僕は、「にゃんこ」に行くようになってからは生活リズムが整えられるようになった。
朝はゆっくりだが、毎日十時に「にゃんこ」に着く。
「にゃんこ」に来てから仲間も増えた。朝、行くといつもいるメンバーがいる。一人一人の笑顔が僕を笑顔にしてくれる。笑顔が連鎖していく。
「しのぶれど 色に出でにけり わが恋は
ものや思ふと 人の問ふまで」
「にゃんこ」への気持ちを百人一首で表せばそうなるだろうか。
「隠していたけれど、顔に出てしまったようだ、僕の心は。『好きな人でもできましたか?』と人に尋ねられるまで」
かなりの異訳にはなるけれど、こんな気持ちだろうか。
もしも、「にゃんこ」が女性だとしたら、僕は確実に恋に落ちているだろう。僕のことをここまで理解して、案じて、ホッとさせてくれる存在。
悲しみはブルー。喜びはレッド。混ぜれば不安はパープルになる。
過去はブラック。未来はホワイト。だとしたら、現在はグレーになる。限りなくブラックを消してゆき、ホワイトをどんどん混ぜていって、グレーをホワイトにしていく。
誰にだって暗い過去はある。でも、未来を明るくするのは自分次第だ。
君(僕)は孤独なマラソンランナーではない。いつだって伴走してくれる「にゃんこ」のスタッフがいる。
そんなことを思いながら、今日も「3」のボタンを押す。(了)
最後までお付き合いいただきありがとうございました。




