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波止場の迷い犬  作者: 酒酔
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**第九話 遥という名の影**

翌朝、事務所に峰岸美咲が険しい顔で入ってきた。


「水野、佐藤の娘の件……本気で掘るの?」


「ああ。佐藤が『最後の大仕事』で海外逃亡を考えてるなら、娘が一番の弱点だ。

 辰から連絡があって、昨夜『ブルー・タイド』で遥に接触できたらしい」


午後二時。俺と美咲は桜木町から少し離れた、古びたライブハウス「ブルー・タイド」へ向かった。

昼間はカフェとして営業しており、薄暗い店内でカウンターに座る少女を見つけた。


佐藤 遥——十九歳。

細い体に黒いエプロン、肩まである髪を後ろで束ね、大きな瞳が印象的な子だった。

母親似で、佐藤の鋭い目元だけを少し受け継いでいる。


「井上遥さん……ですね?」


俺が声をかけると、遥はトレイを持つ手を止めて小さく頷いた。


「……探偵さんですか。父のことで来ましたよね」


意外と落ち着いた声。怯えはあるが、取り乱した様子はない。


美咲が隣に座り、穏やかに切り出した。


「あなたのお父さんが、今、危ない橋を渡ってる。

 高城健一という商社マンの失踪事件にも関わってる可能性が高いの。

 何か、心当たりはない?」


遥はコーヒーカップを磨く手を止め、遠い目をした。


「父とは……五年以上、ほとんど会ってません。

 母が死んだ後も、連絡だけたまに来るんです。

 『お前には近づくな』って、いつも同じことばかり」


彼女はゆっくりと語り始めた。


「小さい頃、病気で入院してたんです。

 父は必死でお金を工面してくれた……でも、それが全部、悪いことに手を染めた結果だって、後で知りました。

 母はそれが許せなくて離婚した。

 私は……父を憎めないんです。憎むより、怖いんです」


俺は煙草を我慢しながら聞いた。


「最近、父から連絡は?」


「……一週間前、夜中に電話がありました。

 『絶対に港には近づくな。誰かに聞かれても、何も知らないと言え』って。

 声が震えてました。父があんな声出すの、初めて聞きました」


美咲が核心を突いた。


「あなた、高城麗華という女性を知ってる?」


遥の指がピクリと動いた。


「……名前だけは知ってます。

 父が時々、電話で『麗華に気をつけろ』って言ってました。

 あの人は……ただの依頼人じゃないって」


俺は身を乗り出した。


「どういう意味だ?」


「詳しくは教えてくれなかったけど……

 『麗華は夫を嵌めようとしてる。俺を利用して』みたいなことを、ぼそっと。

 父は麗華を『危険な女』って評してました」


店内の空気が重くなった。


遥はエプロンの裾を握りしめ、小さな声で続けた。


「私、父に会いたいんです。

 一度でいいから、本当の気持ちを聞きたい。

 でも、会ったら……きっと父はまた『遠ざかれ』と言うんでしょうね」


美咲が優しく言った。


「遥さん、あなた自身も危ないわ。

 佐藤の部下らしき男が、あなたのことを見張ってる可能性がある」


遥は寂しげに微笑んだ。


「わかってます。でも、逃げても仕方ないんです。

 私は……港の血を引いてるんだから」


店を出た後、俺と美咲は波止場を歩いた。


「遥、意外としっかりしてるわね……でも、目が父に似てた」


「ああ。佐藤も本気で娘を守ろうとしてるんだろうな。

 それが逆に、事件を複雑にしてる」


俺は空を見上げた。


高城麗華、左利きの佐藤、そして佐藤遥。

三人の思惑が、港の底で絡み合っている。


この事件の鍵は、もしかすると「家族」という名の鎖にあるのかもしれない。

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