**第二話 女刑事と港の夜**
翌朝、事務所は昨夜の雨で湿った空気に満ちていた。
俺は二日酔いの頭を抱えながら、コーヒーの代わりに缶ビールを開けていた。
高城麗華さんと「相談料」名目で食べた中華料理の味が、まだ口の中に残っている。
「ったく、色気で仕事受けたのはいいが……本気で探す羽目になるとはな」
メモ帳に走り書きした高城健一の足取りをもう一度確認する。
港北ニュータウン方面と言っていたが、実際は横浜駅近くのビジネスホテルにチェックインした記録があった。そこから先は、ぷっつり。
そこへ——
ドン、ドン、と階段が乱暴に鳴った。
「水野! いるんでしょ! 開けるわよ!」
聞き覚えのある、キツめの声。
ドアが開く前に俺は天井を仰いだ。
入ってきたのは、紺のスーツに白シャツ、腰に警察手帳をぶら下げた女。
ショートカット気味の黒髪、鋭い目つき、身長は俺より少し低いくらい。
三十一歳、横浜港湾警察署・刑事課の峰岸美咲警部補だ。
「よお、美咲。朝から熱いね。コーヒーいる?」
「いるわけないでしょ。あなたが昨夜、高城麗華って女と中華食べに行ったって報告が入ってるわよ」
俺はビールを吹きそうになった。
「マジかよ……尾行されてたのか?」
「違うわよ。麗華さんの義理の兄がうちの署の知り合いでね。心配して相談してきたの。
で、あなたみたいな女好き探偵に依頼したって聞いて、慌てて飛んできたわけ」
峰岸は俺の机に腰を半分乗せ、腕を組んだ。
スーツのボタンが少しきつそうで、俺の視線が一瞬そこに吸い寄せられる。
「目線下げろ、変態」
「下げてねえよ! ……ちょっと自然に落ちただけだ」
「はあ? 自然に落ちる位置がそこなの?」
いつもの掛け合いが始まる。
美咲とは昔、窃盗事件で少しだけ組んだことがあり、それ以来、俺が女にだらしなくなるたびに説教される仲だった。
「で? お前がわざわざ来るってことは、ただの家出じゃないんだろ?」
峰岸はため息をつき、声を少し落とした。
「……ええ。高城健一の会社、実は最近、横浜港を通じての中国向け輸出で妙な動きがあったらしいの。
税関がマークしてるって話よ。あなたが動くなら、邪魔はしない。ただし、情報を共有しなさい」
「へえ、女刑事の応援か。珍しいね」
「応援じゃないわ。監視よ。あなたがまた女の尻を追いかけて本筋を見失う前に、釘を刺しに来たの」
俺はニヤリと笑って立ち上がった。
「わかった。じゃあ早速、行動だ。
高城が最後にいたビジネスホテルに行ってみる。お前も来るだろ?」
「当たり前でしょ。車出すから早く準備しなさい」
三十分後、峰岸の覆面パトカー(実際はただの白いセダン)に乗って横浜駅西口に向かっていた。
車内ではまたいつものやり取りが続く。
「水野、あなたさ……依頼人の女に手出してないでしょうね?」
「まだ出してないよ。『まだ』ってところがポイントだ」
「即座に逮捕するわよ」
「美咲に逮捕されるなら本望かもな」
「…………本気で言ってる顔してるから腹立つ」
ホテルに着くと、フロントの若い男は最初渋っていたが、峰岸の警察手帳を見た途端に口が軽くなった。
高城健一は三日前、夜の九時過ぎにチェックアウト。
一緒にいた男がいたという。四十代後半、背が高くて、左手に包帯を巻いていた。
「包帯……?」
俺と峰岸は顔を見合わせた。
さらに、ホテルの防犯カメラの映像(当時としては珍しい)を特別に見せてもらった。
高城がエレベーターに乗り込む瞬間、後ろから声をかけた男の横顔が一瞬映る。
峰岸が小さく息を飲んだ。
「……あいつ、港の裏社会で『左利きの佐藤』って呼ばれてる男よ。
密輸絡みで何度も捕まってるけど、いつも証拠不十分で釈放されてる厄介者」
俺は煙草に火をつけ、煙をゆっくり吐いた。
「どうやら、ただの夫婦喧嘩じゃ済まなさそうだな」
峰岸が俺の肩を軽く叩いた。珍しく真剣な目だった。
「水野、調子に乗って深入りするんじゃないわよ。
これは警察の管轄よ」
「わかってるよ。……でも依頼人は高城麗華さんだ。
俺は彼女の依頼をちゃんと果たす。それだけだ」
事務所に戻る車中で、峰岸がぼそっと言った。
「あなたって、馬鹿みたいに女好きなくせに、妙なところで真面目よね」
「職業病だよ」
夕陽が沈みかけた山下埠頭に、俺たちの車が戻ってきた頃、
港の向こうから低い汽笛が響いた。
これは、ただの失踪事件じゃない。
港の闇が、ゆっくりと動き始めていた。




