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波止場の迷い犬  作者: 酒酔
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**第一話 港の女と消えた影**

昭和六十年、梅雨の合間の蒸し暑い夕暮れ。

横浜・山下埠頭の古びた倉庫街の一角に、看板もろくにない二階建ての事務所があった。

一階は漁師相手の飲み屋が夜だけ開き、二階が俺の縄張り——私立探偵・水野誠の事務所だ。


「また犬か……」


俺は足を机に投げ出し、扇風機の弱い風に煙草の煙を煽られながらため息をついた。

机の上には「迷い犬捜索 成功報酬五千円」のメモが山積みになっている。

女房子供はいない。いるのは借金と、女の匂いに弱い性分だけだった。


ガタン、と階段が鳴った。


「すみません……水野探偵、いらっしゃいますか?」


声は低めで、少し掠れていた。

ドアを開けた瞬間、俺の脳みそは一瞬で蒸発した。


黒いワンピースに白いカーディガン。

肩までかかる濡れたような黒髪。

三十前後か。目元に疲れを湛えながら、それでも唇の端に微かな笑みを浮かべている。

港の潮風が運んでくる湿り気と、彼女の香水が混じって、事務所の埃っぽい空気を一瞬で変えた。


「水野……誠、ですけど」


俺は慌てて足を下ろし、ネクタイを直した。直したところで、昨日から同じものを締めている。


「高城 麗華と申します。突然すみません。……実は、夫が三日前から帰ってこなくて」


彼女はそう言って、膝を揃えて椅子に腰掛けた。

スカートの裾が少し捲れ、膝小僧がチラリと見えただけで、俺の理性は半分吹っ飛んだ。


「夫……ですか。失礼ですが、警察には?」


「行きました。でも『家出の可能性が高い』としか言われなくて。

 主人は商社マンで、最近中国方面の仕事が忙しかったんですが……急に『大事な話がある』と言い残して出かけたきりで」


麗華さんはハンドバッグから夫の写真を取り出した。

三十代後半、眼鏡をかけた真面目そうな男。俺とは正反対の顔立ちだ。


ここで普通の探偵なら「もう少し詳しい状況を」と冷静に切り出すところだろう。

だが俺は、彼女が身を乗り出した拍子に胸元が見えた瞬間、完全に色気に負けていた。


「わかりました。引き受けます」


「……え? まだ報酬の話もしてませんけど」


「いいんです。俺は迷い犬専門じゃありません。

 迷い夫も、迷い妻も、迷い恋人も——全部、迷い人専門です」


俺はニヤリと笑った。自分でも下手な啖呵だと思ったが、麗華さんはくすっと小さく笑った。

その笑顔がまた凶悪だった。


「探偵さん、女好きだと評判ですね」


「げっ、誰に聞いたんですか」


「昨日、近くの飲み屋で漁師さんたちに聞きました。

 『あそこの二階の水野ってのは、女の尻を追っかけてるうちに、たまに事件も解決するらしい』って」


完全に丸裸にされている。


俺は頭を掻きながら立ち上がった。


「まあ、否定はしません。

 ただ、仕事はちゃんとしますよ。特に……依頼人が高城麗華さんみたいな方だと、余計にね」


「ふふっ。口が上手いんですね」


「本気ですよ。——で、夫さんの最後の足取りは?」


ここからが本番だ。

俺はメモ帳を開き、いつもの軽薄な笑みを少しだけ引き締めた。


麗華さんの話によると、夫・高城健一は三日前、夜の八時頃に「港北ニュータウンの取引先と会う」と言い残して家を出たきり、連絡が途絶えているという。

財布とパスポートは残っていた。会社にも出社していない。


「妙ですね……パスポートが残ってるのに、海外に逃げたわけじゃなさそうですが」


「ええ。それに、主人は極度の方向音痴で、横浜の港周辺はほとんど知らないんです。

 なのに『大事な話』と言って出かけた……」


俺は窓の外を見た。

夕陽が赤く染める大桟橋の向こうに、貨物船のシルエットが浮かんでいる。


「高城さん。ひとつ、率直に聞きます」


「はい」


「夫婦仲は……どうでした?」


麗華さんは一瞬、目を伏せた。

長い睫毛が震える。


「……冷めてました。最近はほとんど、言葉も交わさなくて」


その声の響きに、俺は小さく頷いた。


掛け合いは軽く、でも事件の匂いはすでに濃い。

これはただの家出じゃない。

何か、港の底に沈んでいるような、淀んだものが絡んでいる気がした。


「わかりました。まずは夫さんの足取りを追います。

 明日から動きますが、今日……少し時間、いただけますか?」


「え?」


「いや、初回相談料の代わりに、夕飯でもどうかなと思いまして」


麗華さんは呆れたように俺を見て、それからまた小さく笑った。


「探偵さん、本当に女好きなんですね」


「職業病です」


事務所の外では、波が倉庫の壁に当たる音がしていた。

昭和の終わり、港の街で、俺の新しい厄介事が始まった。

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