**第十二話 遥の視点**
夜の「ブルー・タイド」は、いつもより煙草の煙が濃く感じた。
カウンターの中でグラスを拭きながら、私はぼんやりと考える。
父さん。
あなたは今、どこで何をしているの?
五年前、母が死んだ夜に最後に会ったきり。
あのとき父は、瘦せて目の下に隈を作って、私に一言だけ言った。
「遥。お前は俺の血を引いているけど、俺の生き方だけは絶対に真似するな」
それ以来、電話と手紙だけ。
いつも同じ内容——「近づくな」「港には来るな」「誰にも俺の娘だと言うな」。
でも、私は知っている。
父が左利きの佐藤と呼ばれていること。
港の闇で、怖い人たちと取引していること。
そして——
「遥ちゃん、ちょっと」
店のマネージャーに呼ばれて裏口に出ると、そこに意外な人物が立っていた。
高城麗華。
父が電話で「危険な女」と言っていた、あの美しい人。
「突然ごめんなさい。あなたが遥さんね……」
彼女の声は柔らかかった。でも、目が笑っていない。
「父さんのことで来たんですか?」
「ええ。あなたのお父さんに、夫のことを相談したことがあって……」
麗華さんは淡々と話し始めた。
夫の高城健一が欲をかいて佐藤のルートを乱したこと。
自分はただ自由になりたかっただけだということ。
そして、夫から届いた手紙に「遥のところに行け」と書かれていたこと。
私は胸がざわついた。
「……父さんが、私の名前を?」
「ええ。夫はあなたのお父さんと、思ったより深い関係だったみたい。
あなたの治療費のことも、夫が一部負担していたらしいの」
知らなかった。
父がそんなことを……。
私は唇を震わせながら聞いた。
「じゃあ……高城さんは、今どこにいるんですか?
父さんが、殺したんですか?」
麗華さんは首をゆっくり横に振った。
「わからない。でも、もし夫が生きているなら……
あなたに何か、伝えようとしているのかもしれない」
その夜、店が終わった後、私は一人で山下埠頭近くのベンチに座っていた。
潮風が冷たい。
父さん、あなたは本当に「最後の仕事」をしようとしているの?
それで海外に逃げて、私を置いて行くつもりなの?
私はポケットから古い写真を取り出した。
母と父と、まだ小さかった私。三人で笑っている、唯一の家族写真。
「私……もう子供じゃないよ」
誰に言うでもなく呟いた。
すると、背後から足音がした。
振り返ると、私立探偵の水野誠と、女刑事の峰岸さんが立っていた。
「遥……話がある」
水野さんはいつもの軽い感じではなく、真剣な目で私を見ていた。
「あなたのお父さんが、ただの悪い人じゃないってことはわかってる。
でも、高城健一を巡る事件で、多くの人が傷ついてる。
何か、気づいたことや、父さんから聞いたことはないか?」
私は少し迷ってから、口を開いた。
「……一ヶ月前、父から最後の電話があったんです。
『もし俺に何かあったら、高城麗華を信じるな。
あの人には、別の目的がある』って」
水野さんと峰岸さんが顔を見合わせた。
私は続けた。
「それと……『遥、お前は自分の人生を生きろ。港の血なんか、捨ててしまえ』って、泣きそうな声で言ってました」
胸が苦しい。
父さんは、私を守ろうとして、どんどん深みに嵌まっている。
麗華さん、父さん、高城さん。
みんながそれぞれの欲望と後悔を抱えて、港の闇で絡み合っている。
私は小さく息を吸った。
「探偵さん……
私も、この事件の答えを知りたい。
父さんが、どんな男だったのか。本当のところを」
夜の波止場で、汽笛が遠くに鳴いた。
私の物語も、ここから動き始めたのかもしれない。




