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第一話 「憧れの異世界転生」

 やわらかい。


 それが最初の感想だった。


 体の下も横も上も、全方向からやわらかさが押し寄せてくる。

 適度な弾力。絶妙な温度。

 全身をまるごと受け止めてくれる包容力。


 何だこれ。

 居酒屋の休憩室のパイプ椅子とは次元が違う。

 あの座面がへこんだやつで十年仮眠してた日々を返してほしい。

 いや、返さなくていい。

 こっちのほうが圧倒的にいい。


 ……ん?


 居酒屋。パイプ椅子。


 記憶が戻ってくる。


 あの時、俺は死んだ。コンビニで。

 からあげ弁当を抱えたまま、棚の角にこめかみを突っ込んで。

 走馬灯は素材不足で上映中止。

 三十二年間の最終成績は「からあげ弁当を守り抜いた」。

 結局食べてないけど。


 で、今、ここはどこだ。


 目を開けようとした。


 開かない。


 正確には開いているが、何もわからない。

 白っぽい靄の中にぼんやりとした色の塊が浮かんでいる。

 天井っぽいもの。壁っぽいもの。光。

 全部が水彩画みたいに滲んで輪郭がない。


 視力が壊滅している。


 手を持ち上げようとした。


 もみじ饅頭みたいな手が、ぷるぷると揺れた。


 握力ゼロ。

 レジ袋どころか空気すら掴めない。


 …………………。


 おいおい。


 ……まさか、な?


 何度か瞬きをした。

 視界がぼやけているのは変わらない。

 でも見えていることは確かだ。

 もみじ饅頭の指。短い腕。

 体の下の柔らかさ。


 嘘だろ。


 これって、

 もしかして、赤ん坊。


 俺、赤ん坊に転生してる。


 一瞬、思考が止まった。


 深夜の厨房で何百話も読んだやつ。

 画面の向こうの出来事だと思っていたやつ。

 異世界転生。

 あの、ラノベで読んだやつが。


 現実に、なってる。


 三十二歳のフリーターが赤ん坊に転生した。

 タイトルをつけるなら「中華鍋しか振れないおっさん、赤ちゃんからやり直す」。

 打ち切りが見えるどころか連載会議を通らない。


 待て待て待て。

 落ち着け、状況を整理しろ。


 俺は死んだ。

 で、赤ん坊になっている。


 ……整理しても変わらないな。


 しばらく放心状態で天井を見つめていると、ぼやけた視界の中で、光が動いているのを見つけた。


 淡い球体のようなものが三つ、ゆっくりと回転しながら浮いていた。


 吊り糸なし。台座なし。

 物理法則に完全に喧嘩を売っている。


 前世三十二年間の全知識を動員しても、こんなものは1つしかない。


 居酒屋の提灯は紐で吊ってたし、コンビニの蛍光灯は天井にビス止めだ。

 だがこいつはどこにも繋がっていない。

 ただ浮いている。

 光りながら、ゆっくり回転しながら。


 ……魔法だ。


 この世界には魔法がある。


 気づいた瞬間、全力でガッツポーズした。

 実際には何も動かなかったが、気持ちの上では全力でやった。

 店長に「お前が本気出すの初めて見たわ」と言われるレベルの全力で。


 前世の俺は、画面越しにしかこういう世界を知らなかった。


 だが、俺は今「あっち側」にいる。


 口元が緩んだ。

 赤ん坊の顔面制御はほぼ不可能だが、これは勝手にそうなった。

 にへら、と間抜けな笑みが浮かんでいるのが自分でもわかる。


 母がその笑顔を見て、嬉しそうに何か言った。

 たぶん「笑った!この子笑った!」的なことだろう。

 前世の知識によれば、新生児の笑顔は大抵ただの反射であり、意識的な笑みではない。


 いや、今のは意識的に笑ったんだが。

 魔法と、ついでに弾力の正体にも気づいて興奮しただけなんだが。


 まあいい。

 母が喜んでいるならそれでいい。


 ―――


 眠い。


 三分と持たない。

 意識を保つ体力が赤ん坊にはない。

 赤ん坊の睡魔はパイプ椅子での仮眠より遥かに強烈だ。

 脳が問答無用で電源を落としにくる。


 抗えなかった。


 ―――


 何度目かの覚醒。


 部屋の外から声が聴こえた。


 複数の女性の声だ。賑やかで温かい。

 誰かが笑っている。

 何かを運んでいる気配がある。

 料理の匂いがする。何かを炊いているのかもしれない。

 村では子供が生まれると女性たちが集まるらしかった。


 温かいな、と思った。


 前世ではそういう感覚を知らなかった。

 マンションの隣の名前も知らなかったし、知ろうとも思わなかった。


 ここは違うのかもしれない。


 抱き上げられる。

 温かくて大きなものに包まれる。

 口に液体が来た。温かい。ミルクだ。


 美味い。


 前世ではコンビニの牛乳コーナーを素通りする人間だったのに、この体は本能的にミルクを求めて吸いつく。

 赤ん坊の唯一のスペック、吸引力だけは異常だ。

 

 飲みながら、上を見た。


 赤い色。鮮やかな赤。

 長い髪がぼやけた視界の中で揺れている。

 その奥に淡い瞳。

 色は判別できないが、優しい色をしていることだけはわかる。


 母親だろう。


 語りかけてくる。知らない言葉。

 でも声は穏やかで、触れたら壊れるものを扱うような丁寧さがあった。


 前世の母を思い出した。


 離婚して、一人で俺を育てて。

 大学を辞めたとき電話口で泣いた。

 あれを最後にこっちからは連絡しなくなった。

 年に一度、母の日にLINEでスタンプだけ送る。

 会話を避けるためにスタンプを使う息子。

 最悪だ、と自分でも思ってた。


 この赤い髪の人には、そういう後悔を残さないようにしよう。


 いや待て、俺は今生まれたばかりの赤ん坊だ。

 後悔とか言っている場合ではない。

 まず言葉を覚えるところから始めなければならない。


 まあいい。言葉はそのうち覚える。


 ―――


 何度目かのある覚醒で、母が俺を抱いたまま窓際に立った。


 光が増した。


 緑。


 圧倒的な緑だった。

 ぼやけた視界でも色はわかる。

 前世で見たことのない、どこまでも続く深い緑。

 森だ。

 遥か遠くに青みがかった山の稜線。

 空は透き通った青に、白い雲が筆で引いたように流れている。


 居酒屋の裏口から見えた空は、ビルに切り取られた四角い空だった。

 コンビニの窓から見えたのは向かいのマンションの壁だった。

 ここには四角がない。空が丸い。

 世界が広い。


 窓から風が来た。

 甘くて青い匂い。

 知らない植物の匂い。


 きれいだ、と素直に思った。


 前世では「きれい」と素直に思ったことが何回あったか数えられるくらいしかない。

 厨房で見た炎がきれいだと思ったことは何度かあった。

 でも空を見てきれいだと思ったのは、いつ以来だろう。


 母が何か言った。

 嬉しそうな声。

 俺が外の景色に反応したことを喜んでいるらしい。

 頬に唇が触れた。


 くすぐったい。


 そのとき、窓の外から子供の声が飛び込んできた。


 高くて元気のいい声だ。

 二つ三つ年上くらいだろうか。

 何かを叫びながら走っている。楽しそうだ。


 なんとなく、気になった。


 この村には、同じくらいの年の子がいるらしい。


 ―――


 夜。光の球が柔らかに灯っている。


 ふと、母の方を見た。

 赤い髪が揺れている。

 光の球はいつも、母が起きているときだけ灯っている気がした。

 気のせいかもしれないが。


 揺り籠の中で母の顔を眺めていると、体の奥底で何かが動いた。


 胃じゃない。空腹でもない。

 もっと深い場所。心臓の裏。骨の内側。

 名前のつけようがない場所で、何かがとくん、とくん、と脈打っている。


 熱い。


 小さくて、確かな熱。


 あの声が残していったものだ。

 コンビニの蛍光灯の下で聞いた、掠れた声。

「届けてくれ」。

 あの瞬間に胸に灯った何か。

 心臓とは別のリズムで動いている。


 中華鍋を振るとき、火の音を聴く。

 ごうごうが、しゅう、に変わる瞬間を待つ。あの感覚で胸の奥を探った。

 十年間、火を判断してきた感覚が、体の中の熱を捉えていた。


 あった。


 胸の真ん中。小さな熱。


 そこに意識を向けた。中華鍋の火加減を調節するみたいに。強すぎたら弱める、弱すぎたら足す。ちょうどいい場所を探る。


 熱が応えた。


 胸から腕へ。腕から手のひらへ。手のひらから指先へ。

 ゆっくりと、温かいものが流れていく。


 ぼっ。


 小さな音がした。


 指先に、火が灯った。


 もみじ饅頭の人差し指の先端に、豆粒ほどの橙色の炎。


 三秒だけ揺れて、消えた。


 俺は、しばらく自分の指を見つめていた。


 灯った。


 コンロでもライターでもなく、自分の指で。

 道具なし。燃料なし。意志だけで。


 三十二年間、火の前で働いてきた。

 毎日毎日、中華鍋を振って、火の音を聴いて、炎を見つめて。

 それだけが本物だと思っていた。

 でも指に火を灯せたことは一度もなかった。

 名前に「燈」があっても、俺自身は灯ったことがなかった。


 佐藤燈馬。灯火の名前。

 三十二年間、名前負けし続けた男の指に、初めて自分の火が灯った。


 もう一回。


 ぼっ。


 今度は五秒。揺り籠の内側が淡い橙色に染まった。


 嬉しい。


 からあげ弁当を掴んだとき以来の、迷いのない感情だった。

 三十二年間で感じた「嬉しい」の中で、たぶん一番強い。

 転生した最初の夜に自分の火を灯した赤ん坊が、揺り籠の中で橙色の炎を前に泣きそうになっている。


 どうかしてる。でも、確かにそうだった。


 ――


 が、喜びが薄れる前に気づいた。


 揺り籠の横の壁に、影が二つあった。


 揺り籠に乗っているのは俺だけのはずだ。

 しかし、明らかに影は二つだ。


 一つはこの体の影。

 もう一つは輪郭が少しだけ柔らかく、この体より細かった。


 まるで、誰かがすぐそこに立っているような形をしていた。


 背筋が粟立った。


 見つめた。


 瞬きした。


 消えていた。


 気のせいか。

 赤ん坊の目がまだ正確に機能していないだけか。

 でも確かに見えた。確かに、そこにあった。


 胸の奥で、何かが一度だけ大きく脈打った。


 まるで「気のせいじゃない」と言うように。


 誰だ。


 さっきまで嬉しかった気持ちが、すっと遠のいた。

 代わりに、全身に静かな緊張感が張り付く。

 炎を灯した喜びと、正体不明の何かへの警戒感が、同時に胸の中にある。


「届けてくれ」という声と、二つの影と。


 あの声に「いいよ」と思った。

 声には出せなかったのに、届いたんだろうか。

 届いたから、俺はここにいるんだろうか。


 ……まあ、考えてもわからないことはわからない。

 今は情報が少なすぎる。


 もう少し大きくなってから考えよう。


 前世の悪癖が早速出ている気がしたが、気にしないことにした。


 ―――


 その後、何度か指に火を灯していると、近くで本を読んでいた母と目が合った。


 次の瞬間、部屋の空気が変わった。


 母の気配が鋭くなった。

 さっきまでミルクをくれていた人と同じ人間とは思えない速度で、揺り籠に駆け寄ってくる。

 赤い髪が視界を覆う。


 誰かを呼ぶ声。切迫している。


 重い足音。無駄がない。迷いがない。

 そういう足音だった。


 大きな手が揺り籠の縁を掴んだ。

 父だろう。揺り籠を覗き込む目が、静かだった。

 怒っているわけでも、慌てているわけでもない。

 ただ静かに、俺を見ていた。


 その手の甲に、火傷の跡があった。


 ただの火傷じゃない。雷に打たれたような、複雑な焼け方だった。

 厨房で十年間、様々な火傷を見てきた。

 油跳ね、鍋の蒸気、コンロの炎。

 でもこんな焼け方は見たことがない。

 この世界には魔法がある。

 だとすると、これは魔法によるものなのかもしれない。


 二人の声が飛び交う。意味はわからない。

 しかし声色は読める。

 前世で十年、客の声色を聴いて注文を予測してきた耳だ。

 言葉がわからなくても感情は拾える。


 驚き。それは確実にある。だが驚きだけじゃない。


 重さだ。


 この炎を見て、二人の荷物が重くなった。

 そういう感情だった。喜びじゃない。安堵でもない。

 何かを背負い直すような、覚悟が深くなるような、重さ。


 なんで炎一つでそんな顔になるんだ。


 俺が灯した炎は、ただの豆粒ほどの橙色だ。

 それだけで二人がこんなに変わるのは、おかしい。

 何か事情がある。俺の知らない事情が。


 母が深呼吸した。大きく吸って、長く吐いて、短い言葉を父に向けた。二語か三語。


 父が頷いた。深く。一度だけ。


 何を決めたんだ、あんたたちは。


 俺には言葉がない。聞けない。聞いても理解できない。

 それがこんなにもどかしいとは、赤ん坊になる前には想像もしなかった。


 母の手が伸びてきて、俺の右手を包んだ。


 熱かった。普通の体温じゃない。

 この人の掌にも同じ種類の火が宿っているような熱さだった。


 この人も、火を持っている。


 中華鍋の火加減を耳で判断してきた十年間が、この手の温度を「同類だ」と告げていた。


 俺がここに生まれたことは偶然じゃないのか。

「届けてくれ」という声と、胸の奥の熱と、この人の手の温度。

 何か繋がっているのか?


 赤ん坊の頭で考えるには、少し大きすぎる話だった。


 わからないことが、また一つ増えた。


 ―――


 眠気が来た。赤ん坊の体は容赦がない。


 沈む直前、窓の外をちらりと見た。


 父がいなかった。


 ふと窓の外の庭に目をやると、大きな影が立っていた。

 剣の素振りをしていた。

 星明かりに刃が光る。


 穏やかな顔をしていた。しかし刃の軌道に迷いがない。

 無駄がない。洗練されている。兵士か何かだろうか。

 どちらにしても、この人はいつでも戦える人間だ。

 そしてその手に、魔法の火傷がある。


 誰かに備えているのか。


 それとも誰かを待っているのか。


 俺には確かめる言葉がまだない。

 体もない。力もない。

 赤ん坊として、ただここに寝ているだけだ。


 でもこれだけはわかる。


 俺はすでに、何かに巻き込まれている。

 



毎週火曜日更新予定です。

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