第二話 「初めての絶望」
炎を出した瞬間が両親に見つかって以来、俺は深夜だけ魔法を練習をするようになっていた。
父の素振りの音が止まって、母の鼻歌と光の球も消える時間。
今日もあの日のように、指先に炎を灯そうと試みる。
しかし、何度試しても何も起きなかった。
胸の奥には何かがある。
とくん、とくん、と脈打っている。
しかし腕に流そうとすると、途中で散らばる。まとまらない。
指先まで届かない。
もう何日も試しているが、一向に成功する兆しがない。
1ヶ月ほどが経過した夜、ようやく認めた。
これは、簡単には戻らない。
胸の中に、重いものが落ちた。
あの橙色の炎が、あの五秒間が、この世界で初めて「できた」と思えた瞬間だった。
それが消えた。
悔しかった。
悔しいというより、怖かった。
前世でも何度もあった感覚だ。
やっと掴んだと思ったら、手から抜けていく。
……前世の知識では「幼少期から魔法を鍛えれば上達が早くなる」というのが定説だったんだが。
俺が転生した世界では仕様が異なるらしい。
赤ん坊の体で無理をさせたのがいけなかったのかもしれない。
俺にはチート能力は実装されていなかった。
炎が出なくなったのは、そもそも魔法に適性がなかったのだろう。
こればっかりは才能の問題だ
しょうがない。
またいずれ、大きくなって力に目覚めたら試そう。
それまでは普通に生きるしか——
待て。
先程息をするように浮かんだ考えが、心の中で反響すると同時に、前世を思い出した。
「向いていなかった」
「しょうがない」
「また今度」
前世で三十二年間、使い続けてきた言葉だ。
見たくないものから目を逸らし、何も決めずに問題を先送りにしていた。
この世界に来てまで、同じことをやるのか?
その道の先が望む未来でないことは、身をもって知っているはずだ。
今の俺は、前世の俺とは違う。
未来への道は無数の分岐が広がっている。
今ならまだ選べるはずだ。
「届けてくれ」という声が、まだ胸の奥にある。
諦める理由を、あの声は知らない。
もう一度やってみよう。
方法を変えて。
諦めずに。
――
転生して約二ヶ月半。
覚醒を繰り返すたびに、世界の輪郭が少しずつ描き足されていった。
最初は水彩画みたいに滲んでいたものが、今では母の赤い髪の一本一本が見えるくらいになった。
日中は言語の習得に全神経を注いでいる。
母の子守唄と、父の読み聞かせのおかげで、思ったより早く吸収できた。
繰り返しは習得の基本だ。
ただし父の本の選定が、おかしい。
父が持ってくる本は毎回分厚い。
表紙に絵がない。文字だけだ。
どう見ても子供向けではない。
母の本棚から持ってくるらしかった。
その本棚が、また異常な量だった。
壁一面に本が並んでいる。
前世の知識で考えると、これだけの専門書や学術書を扱う人間は研究者か学者か、あるいは医者か教師か。それくらいしか思いつかない。
母は何者なのだろうか。
この世界の文明レベルでは、本1冊の値段も安くは無いはずだ。
養われている身で言うのは忍びないが、この家も到底金持ちが住む家には見えない。
ただの小さな村の主婦が、これだけの量を揃えられるものだろうか。
父の方も謎だ。
昼間は村の周辺に出かけて、夕方に戻ってくる。
戻ってきたときに血の匂いがすることがある。
普段から刃物の手入れをよくしている。
休日らしき日には、村の子供たちを庭に集めて剣を教えている。
狩り?をしながら剣術を教える男と、専門書を大量に並べて研究?している女が、辺境の村で暮らしている。
どういう組み合わせだ。
謎は深まるばかりだが、今の俺には確かめる術がない。
――
体は相変わらず言うことを聞かない。
立とうとすると膝がぐにゃっと折れる。
寝返りを打とうとすると足だけが浮く。
しかし、昼間は素晴らしいご褒美があるので、何とかやれている。
母乳というものは、人類の叡智の結晶だと俺は思う。
前世では牛乳すら素通りしていた俺が、この世界に来てからというもの、あれほどまでに真剣に向き合うものができるとは思わなかった。
温かい。甘い。
柔らかい胸に顔を埋めたまま飲むあれは、前世の三十二年間で出会ったどんな食事とも違う。
居酒屋の賄い飯も、コンビニのからあげ弁当も、あれには及ばない。
いや、比べるものじゃないが。
問題は、飲みたいときに飲めないことだ。
だから研究した。
どう泣けば早く飲めるか。
一週間の試行錯誤の結果、最適解が見つかった。
三回短く、一回長く、また三回短く。
これが一番早い。母が来るまでの時間が、以前の半分になった。
我ながら赤ん坊として優秀だと思う。
この発見を誰にも話せないのが惜しい。
……ふと、ニートが床ドンで母親に飯を持ってこさせる光景が脳裏を過ぎる。
なんとも言いようのない虚無感に苛まれ、寝た。
――
ある朝、母が俺を抱き上げて言った。
「リヴェル。」
何かを確認するような声だった。
俺が顔を向けると、母が笑う。
あ、これ、俺の名前か。
何となく自分のことを呼ばれていると感じてはいた。
しかし言葉の意味がわかった上で確信したのは初めてだ。
「リヴェル」
もう一度言われた。
今度はしっかり目を向ける。
母がまた笑った。
今度はもっと嬉しそうに。
リヴェル。
この世界での俺の名前だ。
両親は二人きりのときだけ「リヴ」と呼んだ。
短くて、温かかった。
その日の深夜、また魔法の練習をした。
未だ成功の兆しはない。
しかし、昼間に名前がわかったことが、少し心の支えになっていた。
――
村の女性たちが来る日がある。
子供が生まれた家に集まる習慣らしく、最初の数週間はほぼ毎日誰かが来ていた。
そしてほぼ全員が来るたびに同じことをした。
「リヴェル、抱っこさせて」
次々と抱っこされた。
最初の人は大きくて温かかった。
村で一番大きな声を持つ女性で、「かわいいねえ!」と叫ぶように言った。
鼓膜が痛い。
次の人は俺の手を丁寧に広げて指を一本ずつ確認した。
「完璧な手ね」と言った。
俺にはもみじ饅頭にしか見えない。
ばかにされているのか?
三人目の人は「セレナにそっくり」と言った。
母が少し恥ずかしそうにしている。
セレナというのが母の名前らしい。
四人目の人は抱き上げた瞬間に「軽いわね」と言った。
他の女性たちも「そう言えば」と頷く。
今世の俺は既にスタイルが良いらしい。
最初はどうすればいいかわからず、されるがままになっていたのだが、それが逆効果だった。
「じっとしてる!」
「かわいい!」
「賢そう!」
じっとしていたのは処理が追いつかなかっただけだ。
しかし訂正できる言葉をまだ持っていないので黙っていた。
それもさらに逆効果だった。
「恥ずかしがってる!可愛いわね!」
恥ずかしがってなどいない。
「もう1回だけ!」
もう一周、抱っこが回ってきた。
「ほっぺがぷにぷにしてる!」
……さすがに触りすぎじゃないか?
次から課金コンテンツにしよう。
母が笑いながら見ている。
父は部屋の片隅で寂しそうにしていた。
――
その日の深夜。
今日も炎を出す練習をしている。
しかし今回は、少しだけ方針を変えてみた。
炎を出そうとするたびに、毎回同じ現象が起きている。
胸の奥の熱を腕に向けて流す。
最初は動く。
しかし途中で散らばる。
指先まで届かない。
力任せに押し込もうとするほど、暴れる感覚がある。
水道管に穴が空いた状態で水を流そうとしているようだ。
流そうとするほど穴から漏れる。
……力任せでは解決しない。
なので、方針を変える。
炎を出すことは一旦忘れよう。
まずは胸の奥の熱を、体の中で動かすことだけに集中する。
胸から腹へ。腹から腰へ。
すると、腰のところで、引っかかる感覚があった。
何かある。ここだけ流れが悪い。
川の中に岩があって、水が迂回しなければいけないような感覚だ。
無理に通そうとするとそこで詰まる。
そっと、岩の横を通るように流した。
腰から足先へ。
通った。
ゆっくりと、丁寧に。
一週間かけて、流れが悪い部分を順番に回避し、体の中を一周できるようになった。
炎にはまだ程遠い。
でも、何か掴めた気がする。
――
翌日の深夜。
ふと思いついたことがあったので、実験をしてみた。
体の中で熱を動かせるなら、外に出せるんじゃないか?
手のひらに集めた熱を外に押し出してみる。
しかし、何も起きなかった。
何かが出ている感覚はあるが、目に見えない。
触っても何も感じない。
なぜだ。体の中では動かせる。
なのに外に出すと何も起きない。
しばらく考えた。
もしかして、ただ出すだけじゃ駄目なのか?
出すまでのプロセスを細かく刻んでやればどうだろうか。
方向を決め、勢いをつけ、量を調節する。
試した。
手のひらに集めた熱を、前方向に向けて、圧力をかけるように押し出す。
揺り籠の中の埃が、ふわっと動いた。
え。
動いた。
炎ではない。風でもない。
しかし確かに何かが外に出て、埃を動かした。
目に見えない何かが、意志だけで。
俺はしばらく、動いた埃を見つめていた。
炎じゃない。
でも、これは間違いなく、何かの「魔法」だ。
前世の物理法則には存在しない何かが、俺の手から出た。
炎が出なくなって焦っていたが、気づいたら全然別のものを手に入れてしまった。
なんだこれは。なんだこれは!
深夜の揺り籠の中で密かにテンションが上がっていた。
赤ん坊がこんなに興奮していいのかわからないが、抑えられなかった。
今の限界はそよ風程度らしい。
大きくしようとするほど体が疲れる。
でも、動いた。
――
事故が起きたのは、その数日後の深夜だ。
1人で立つ練習でもしようと、みんなが寝静まった後、揺り籠の縁に手をかけた。
起き上がろうとした。
手に力を入れた瞬間、手のひらに何かが集まった。無意識だった。
練習していた手のひらへの集中が、気づかないうちに体に染み込んでいたらしい。
力を入れようとした瞬間に、自動的にそれが集まった。
バキッ。
大きな音がした。
揺り籠の縁の木材が、ひびが入って大きく欠けた。
木の繊維がめくれ上がり、破片が飛ぶ。
もみじ饅頭サイズの手が、木の縁を握り潰したような形になっていた。
俺は固まった。
やってしまった……
急いで周囲を確認した。
母は寝ている。
父の気配は部屋にない。
誰も見ていなかった。
でも、朝になれば必ず気づかれる。
俺は息をひそめた。
翌朝。
母が揺り籠の縁を見た瞬間、固まった。
「ガルド!」
父を呼ぶ声に、聞いたことのない緊張があった。
父が部屋に入ってきた。
揺り籠の縁を見た。表情が変わった。
怒っているわけでも慌てているわけでもない。
静かに、しかし確実に変わった。
父は普段は脳筋だが、こういう時に限ってよく頭が冴える。
父が俺を見た。
俺は天井を見上げた。
全力で、知らないふりをした。
母が何か言っている。父が何か答える。
二人の声が飛び交う。
聞き取れた言葉が一つあった。
「ガルドが」という音だ。
母は父を疑っている。
父が静かに首を横に振った。
母がもう一度何か言った。
今度は少し強い声だった。
揺り籠の縁を指差している。
「これをやったのはあなたでしょう」という声色だった。
父がまた首を横に振った。
母が腕を組んだ。信じていない目だ。
父よ、すまない。これは俺がやった。
――
この一件でわかったことがある。
胸の奥の熱は体のある部分に集めると、その部分の力が増す。
体を通せば外に作用し、体を通さなければ外に作用しない。
そういう性質らしい。
炎への道を探しているうちに、全然別の道を見つけてしまった。
目的地には辿り着いていない。
でも気づいたら手荷物がずいぶん増えていた。
悪くない寄り道だ。
――
ある夜、父が本を持ってきた。
また分厚い。また絵がない。
また母の本棚から持ってきたものだ。
父が淡々と読み始めた。
しかし今夜は途中から「うーん」と唸り始めた。
どうやら自分でも難しくてよくわからない部分があるらしい。
父が本を少し前に戻した。
また読んだ。また唸った。
子供に読み聞かせをしながら、父本人が内容を理解しようとしている。
笑えない。笑えないが、笑えた。
その夜の本は神話の学術書だった。
注釈が多い。引用が多い。
子供が聞く本では断じてない。
難しい本を読み聞かせれば、頭が良くなるとでも思っているのだろうか。
しかし大人の頭脳を持つ俺には好都合だった。
父が読んだ内容を、俺なりに整理するとこうなる。
――
はじめに、星があった。
荒れた星で、そこには何もなかった。
女神がいた。
女神はその星を見て、龍を遣わした。
「私が戻るまでに、この星を豊かにせよ。」
龍は大地を作った。
山を作り、谷を作り、川を作った。
海を作った。空を作った。命を作った。
魔力を大地に満たして、草が芽吹き、獣が生まれ、やがて人が立った。
龍のおかげで、星は豊かになった。
しかし女神は戻らない。龍は待った。
ある日、一人の少女が炎を灯した。
少女は炎で龍に語りかけ、龍が応える。
龍が初めて、孤独でなくなった夜だった。
少女は龍に名前をつけた。
言葉ではなかった。
炎の揺れ方で、名前をつけた。
龍はその名前を受け取った。
やがて龍は死んだ。
少女は泣いた。
龍から受け取ったものを返したかった。
しかし、方法がわからなかった。
女神はまだ戻らない。
龍は大地に眠っている。
――
「魔力を大地に満たして」
その一節を聞いたとき、胸の奥の何かが反応した。
魔力。
そうか。これが魔力か。
俺が体の中で動かしていた熱のようなもの。
押し出して埃を動かしたもの。
手のひらに集めて揺り籠の縁をむしり取ったもの。
全部、魔力だったのか。
名前がわかった瞬間、何かが腑に落ちた。
胸の中のそれは魔力だ。
俺が動かせる、魔力だ。
ということは、俺はすでに魔力の使い方を自力で発見していたことになる。
毎晩コソ練していた成果だ。
覚醒するようなかっこよさは皆無だが、確かに積み上げてきた。
父が本を閉じた。
「リヴェル、寝ろ」
聴き取れた。意味もわかった。
でも、まだ眠くない。
大体、寝ろってなんだよ。
読み聞かせが上手くいかなかったからって強引すぎだろ。
しかし「リヴェル、寝ろ」ともう一度言われた。
今度は少し声が大きかった。
……仕方がないので寝た。
眠りの縁で思った。
俺の体を巡っている熱は、魔力だ。
使い方と、名前を手に入れた。
炎はまだ出ない。
でも、道は見えてきた。
深夜の練習は、まだ続く。
隔週更新です。




