プロローグ「死因:からあげ弁当」
俺は三十二年間、一度も自分に火がついたことがない。
俺の名前は佐藤燈馬。
燈という字は灯火という意味を持つらしいが、実際に灯したのはコンロの火とライターの火くらいだ。
しかもコンロは仕事で、ライターは花火。
どっちも自分とは無関係なところで勝手に燃えているだけだ。
名は体を表すとはよく言ったものだが、俺に関しては完全に詐欺だ。
三十二歳。フリーター。居酒屋のキッチン。名刺に刷る気にもならない肩書きだが、実態はもっと酷い。
大学は二年でやめた。
なけなしの単位は霧散し、退学届に無駄に綺麗な判を押した。
理由を聞かれると「合わなかった」と答えていたのだが、正確には朝が合わなかった。
布団。あれはもはや寝具じゃない。重力兵器だ。
明らかにニュートン力学を超越した引力で俺を捕獲し、「今日も休もうね」と耳元で囁いてくる。
ここまで俺を強く求めてくれた存在は、人生でこいつだけだ。
そりゃあ、裏切れるわけがない。
就職は三回試みて、三回失敗した。
一回目は何とか漕ぎ着けた最終面接で
「弊社でどう活躍したいですか」と聞かれ、
「活躍というより、まず慣れることから始めたいです」と答えて落ちた。
正直すぎるのが玉に瑕だ。
二回目は奇跡的に内定をもらったが、初出勤の前日に布団から出られなくなり、無断欠勤してそのままフェードアウトした。
三回目は履歴書の職歴欄が収拾つかなくなって途中で出すのをやめた。
就活に失敗するたびに居酒屋に舞い戻り、店長に「またお前か」と笑われて厨房に入る。
三回目に戻ったとき
「お前、ここが本籍地だろ」
と言われた。
否定できなかった。
歯茎むき出しで愛想笑いをした。
十年。気づいたら、十年だ。
居酒屋で一心不乱に振り続けた中華鍋の底だけがツルツルに磨かれていく。
表面だけ滑らかで中身は空。俺の人生と完全に一致している。
ちなみにツルツルなのは鍋の底だけで、他は全部毛深い。どうでもいい情報を提供してしまった。
こんな俺でも、ひとつだけ得意なことがある。中華鍋を振る時の火加減だ。
「お前、火加減だけは一丁前だな」と店長に言われたことがある。「だけ」は余計だが、実際にそれ以外にできることがないので反論の余地はない。
コツは火の音を聴くことだ。
鍋の上でごうごう唸っている間はまだ強い。それがしゅう、と静かに息をつく瞬間がある。
そこが正解。
目じゃなく、耳で判断する。この感覚だけは、十年で本物になった。
唯一の思い出らしい思い出は、居酒屋の先輩と行ったキャンプだ。
十二年前。
焚き火を囲んで夜通し語った。
男二人、星空の下、何も起こらないはずもなく――いや何も起こらないのだが。
絵としては悪くないが、求めていた絵とは違う。
仕事の愚痴や思い出話が一段落し、心地よい沈黙が流れる。
そのとき。
無風のはずなのに、背中にだけ冷たい風が当たった。
じわっと、背中だけをなぞるように。
前には火があるのに、風は後ろから来る。
「なんだこれ」と思ったまま、結局そのままにした。
どうでもいいことに分類して、考えるのをやめた。
――俺は、そういうのが多い。
疑問の墓場が脳内に百個くらいある。
やがて先輩が口を開いた。
ここまでは良い雰囲気だ。
だが、こういう時は、決まってあれが来る。
俺は身構えた。
先輩が聞いてきた。
「お前、将来なにすんの」
……来たか。
嫌な質問ランキング堂々の一位。
二位は「好きな人いるの」、三位は「最近どう」だ。
全部答えられない。
何も答えられず、炎が爆ぜる音だけが続いた。
でも先輩は責めなかった。あの沈黙は、優しかった。
十二年後、先輩は結婚して子ども二人、持ち家あり。
年賀状が毎年届く。
去年は子どもの写真つきだったが、三秒見て引き出しの奥にしまった。三秒が俺の精一杯だった。
返事は一度も出していない。
「生存確認:可」以外に書くことが見当たらないから。
それでも俺は思っていた。
いつか何かになれると。
理由なんてひとつもない。ただ、そうであってほしいと願うだけの、空っぽの確信。
根拠はない、燃料もない。なのに俺の中の何かは、ずっとアイドリングしてる気でいた。
ギアはニュートラルのまま十二年、回転数だけやたら元気で、ガソリンだけが律儀に減っていく。
このまま終わるのは、どうにも据わりが悪い。
せめて一回くらい、「俺、ちゃんとやったな」って言える何かを残したい。
世界に小石でもいいから傷をつけて、「あ、ここ俺です」って言いたい。
だから異世界チート作品が好きだった。
何も持っていない奴がある日突然チート能力に目覚める話。
いや、分かってる。あんな都合のいい話、現実にはない。
でも深夜二時、油と洗剤の匂いが染みついた厨房で、足の裏が悲鳴あげてるときに読むそれは栄養ドリンクより効いた。
主人公がハーレムを築く度、現実に帰った時に辛くなるのが唯一の欠点だ。
画面の向こうで無双するお前が羨ましいよ。
閉店後、深夜二時。十一月。
店を出た瞬間、吐く息が白い。息だけは可視化されるのに、存在感は相変わらず透明のままだ。
三十二年間、俺がそこにいたことを証明できるものが息しかない。哲学的な話をしたいわけではないが、哲学的な状況に追い込まれている。
帰り道にコンビニに寄った。買うものは特にないが、なんとなく寄ってしまう。
深夜のコンビニというのは、行き場のない人間を無条件に受け入れてくれる数少ない場所なのだ。蛍光灯の下で全員が等しく不健康に見える、ある意味で平等な空間。
金持ちも貧乏人も、深夜のコンビニでは同じ顔色をしている。俺はいつもこの顔色だが。
弁当コーナーの前でぼんやり立ち止まった。
幕の内、のり弁、牛カルビ丼。今日も今日とて、何も選べないまま時間が過ぎていく。
人生の縮図がここにある。弁当すら選べない男が将来を選べるわけがなかった。
十二年前の先輩の質問への答えは今なおここにある。
そのとき。
――ガンッ!!
入口の自動ドアが、叩きつけるみたいに開いた。
視線が跳ねる。
入ってきたのは、中年の男。泥酔。
足が死んでいる。
一歩。
左に流れる。
二歩目。
右に崩れる。
三歩目――ない。
そのまま、菓子パンの棚に全体重で激突した。
嫌な音がした。
――来る。
雪崩だ。
菓子パン棚が崩れる。
そのまま隣の棚を巻き込む。
カップ麺、ペットボトル、連鎖、連鎖、連鎖。
―直線。
――こっちに来てる。
「あっっぶね!!」
体が先に動いた。
伸びた手。
掴んだのは――唐揚げ弁当
なんでだよ。
引き抜く。
跳ねる。
ギリギリで身を躱す。
選べなかった弁当を、土壇場で選んだ。人生で最も素早い選択がこれだ。
―轟音。
棚が倒れ落ちる。
さっきまで俺がいた場所が一瞬で埋まる。
カップ麺だけじゃない。棚ごとだ。
心臓が跳ね上がり冷や汗が首筋を流れた。
「マジで死ぬかと思った…」
こんな死に方、嫌すぎる。
三十二年間の締めくくりがカップ麺の下敷き
では、さすがに浮かばれない。
せめてもうちょっとこう、ドラマ性とか……あるだろ。
童貞のまま死ぬことへの諦めはついていたが、カップ麺で死ぬことへの諦めはまだついていなかった。優先順位がおかしい。
――コツン。
足元に、何かが当たった。
さっきの雪崩で転がったドリンク。
倒れた棚の傾斜を滑って来たらしい。
やめろ。
バランスが崩れる。
咄嗟に――からあげ弁当を庇った。
本能だった。
三十二年間で最も速い判断が、弁当を守ることだった。
人生の重要イベントは全部見逃してきたのに、弁当だけはフレーム単位で捉えていた。
こんな時に食い意地を張るなんて。
どうせ守るなら、可愛くて少し気が強くいじっぱりでツンデレで可愛い女の――
いや今はそれどころじゃない。
両手で弁当を抱えたまま、受け身が取れない。
体が前のめりに倒れる。
膝が床に着く。
――滑った。
床一面、水。
割れたドリンク。
止まらない。
加速する。
弁当を抱えたまま、一直線に。
目の前。剥き出しの金属フレーム。
角。
逃げ場なし。
こめかみから――
吸い込まれるように、そこへ突っ込んだ。
静かな音がした。さっきの棚が倒れる轟音とは比べ物にならない、小さくて、重い音。
遅れて、視界が揺れる。
何かが抜けた。
息が、上手く吸えない。
床が近い。遠い。分からない。
今度は、痛みがない。
あ、やばい
ーーこれ、だめなやつだ。
音だけが残る。
遠くで、何かが転がる音。
誰かが、何か言ってる。
蛍光灯の白い光が、滲む。
走馬灯かと思った。
でも、流すほどの思い出がない。
素材不足で上映中止。俺の人生らしい。
何が起きているのか分からない。
ただ、世界のほうが少しだけズレたみたいな、説明のつかない違和感だけが残る。
そして声が聞こえた。
遠く深い場所から絞り出されるような掠れた声。
長い間、誰にも触れられずに一人で抱え込まれていた言葉。
あのキャンプの夜、焚き火の爆ぜる音だけが続いたあの沈黙に、少し似た質の孤独があった。
――届けてくれ。
短い。
それだけ?
届ける。
何を、誰に、どこへ。全部不明。
配送業者なら即キャンセルの案件だ。
でもこの声には「いいよ」と言いたくなった。俺と違って「まあいいか」で手放さなかった誰かの声だったから。
光が全部を塗り潰していく中で、最後に浮かんだのは、中華鍋の上で炎がしゅうと静かに息をつくあの音だった。
十年間聴き続けた、ちょうどいい瞬間。
三十二年で唯一、ちゃんと向き合ったもの。
――もし、もう一回だけ機会があるなら。
今度は炎の音だけじゃなくて、ちゃんと周りの音にも耳を使いたい。
焚き火の前で背中に吹く風の正体も、今度は投げずに考えたい。
先輩に返事を書いて、逃げずに言葉を返したい。
それと――今度こそ、自分で選んだことから逃げないでいたい。
……たぶん最初の一週間だけ頑張って、そのあとサボる。
知ってる。自分のことだから。
それでも。
一回くらいは、「ちゃんとやった」と言える何かが欲しかった。
名前のない色の中に、佐藤燈馬の三十二年間が溶けていく。
中華鍋の炎の音も、焚き火の爆ぜる音も、返さなかった年賀状も、食べられなかったからあげ弁当も。
全部まとめて、静かに――
消えた。
毎週火曜更新予定です。




