第29話 静かな食卓
その夜、ミリウスが静かな夕食を終えたのは、午後9時を半ばも過ぎたころだった。
今夜はいつもと違い、夕食を急ぐ必要もなく、残務を片付けてから遅い夕食を取っていた。
(彼女がいないと……俺は食事の時間すらまともに守れないんだな……)
彼女が待っているときは、どんなに忙しくとも遅れることがないように、仕事のほうを急いで片付けたものだった。
それが彼女がいなくなった途端、寝食に頓着しない自分は、ついつい食事さえ後回しにしてしまう。
そうして厨房の料理人たちに、いらぬ迷惑をかけていた。
「彼女が、いないと…………」
ぽつりと呟いて、前の席を見る。
食卓の向かいにある席は、いつも彼女が座っていた席だ。
いつもならそこで彼女が幸せそうにフォークを運び、その日あった出来事を楽しそうに語ってくれる。
それは日中共に居れない自分のために、彼女がその日あった喜びや感動を分け与えてくれる、彼女の優しさが詰まった時間だった。
「シルヴィ……」
彼女がいない。
それだけでこの食卓は、こんなにも静かで物悲しいものに変わるのだろうか。
明るく弾む声がない。心を癒やす笑顔がない。
ミリウスが求めてやまない愛おしい姿がそこにはなく、ただ空っぽの席があるだけだった。
たった一日……。
たった一日離れていただけで、この王宮が酷く空しい場所に感じる。
(シルヴィ……早く会いたい)
明日出立すれば、翌日には彼女に追いつけるだろうに。
それでも心は早く彼女に会いたがっていた。
(今日はもう休もう。明日、少しでも早く出るために)
どうせ起きていても、仕事のほかにすることもない。
いつもなら時間が許すギリギリまで彼女の部屋に入り浸り、ささやかな夕食後のひとときを楽しんでいたというのに……それも今夜は叶わぬ夢だった。
ミリウスは静かに席を立つ。
そうして自室に戻ろうとして――――……、
胸元で淡く輝く光に気づいた。
(…………?)
胸元にかけたペンダントのうち、淡い光を放っているほうを探り当てる。
それは自分が彼女に持たせた魔道具の片割れで――――もう一方の持ち主に危機があると光を放つ、魔石型の緊急通報装置だった。
「シルヴィ……?」
彼女に限って、脅威などそうそうないだろうに。
誤作動か、はたまた意図せず魔石を起動させてしまったのか。
けれどその時、嫌に胸の奥が騒いだ。
そうしてミリウスが光る石が指し示す方向に視線を向けたとき――――近衛騎士の一人が部屋に駆け込んできた。
「殿下、至急のご報告が――――」
「内容は」
嫌な予感がする。
ミリウスは騎士の言葉に被せるように、続きを促す。
「現在西部地方に向かっている皇女殿下の一行から連絡がありました。今晩の宿泊先であったケアード伯爵邸が何者かに襲撃され――――皇女殿下が攫われました」
「…………!!」
心臓をつかまれるような衝撃を、顔には出さぬよう胸の内に納めることに苦心する。
大丈夫だ。彼女はただの皇女ではない。
深窓で騎士たちに守られているだけの姫ではない。
誰より優秀で、勇敢な――……。
けれど。
いまの彼女は、彼女の本領を発揮できるような状態だっただろうか――……??
ドレスを纏い、武器も防具も身につけず。
魔法書だって持って行ったか定かでない。
かつての彼女には遠い姿――――……。
(俺が…………そうさせた)
俺が、彼女に結婚を望んだから。
だから彼女は、戦士ではなく淑女になろうと決心して。
武器を持たず、柔らかな花のように。
すぐに手折られるような儚い存在になった。
なろうと――――努力させた。
「いますぐ救出に向かう。近衛隊も続け」
「はっ」
部下に指示を出しながら、同時に胸に重い鉛が落ちる。
――大丈夫だ、彼女なら。
――先生なら。
――シホなら。
けれど――――ミリウスのための淑女なら……?
かつて、彼女の師が言っていた言葉を思い出す。
元々魔力の少ない彼女に強力な魔法を使わせるため、彼女の師は、彼女に二つのものを与えた。
一つは『呪紋』。
魔力の少ない者でも、魔力を蓄積して利用できる秘伝の技術。
もう一つは、保有魔力の増強。
魔力の少ない者でも、その魂の一部を書き変えることで、強力な魔術を使用できるようになる――――……。
ただし、それは彼女の残りの寿命を引き換えにして。
そんな禁術を、彼女に施したと言っていなかったか。
「っ……!!」
ミリウスは無意識に拳を握り締める。
そのようなこと、看過できるわけがない。
そのような、考えるだけで世界が凍てつきそうなこと――。
視界が、冬の色に染まっていく。
「シルヴィ……!!!」
ミリウスは駆け出した。




