第20話 恋心 2
『俺だって、ずっと呼びたかった……!! ずっと……シホ、と――』
そう、ミリウスに名前を呼ばれた瞬間。シルヴィアの中で、時が止まったような感覚がした。
時が止まり、空気の流れが止まり、代わりにどくりと体の奥で脈づく拍動――――……。
『 シホ 』
そう呼ばれた瞬間、全身の肌が粟立った。
恐怖や不快感にではない――――不思議な甘い痺れに。
全身を巡る毒のようなそれに、シルヴィアは目を瞑った。
(わかってた――――)
彼にその名前を呼ばれると、そうなるだろうことは。
(『シルヴィア』なら平気だった――)
……だって、あれは彼のために作り上げた存在だから。
彼の隣で、彼と共に歩むために、自分が努力して作り上げた理想の姿。だからどんなに甘く名前を呼ばれても、微笑って受け止めることができた。
(でも『シホ』は違う――)
その名前は、弱さの象徴だから。
理不尽な人生を死に物狂いで生きて。泣きながら足掻いて、自分を奮い立たせて。そうしてようやく生き長らえてきた名前だから――――どうしても縋ってしまう。
初めて『シホ』を守ってくれたあなたに、その名前を呼ばれると、どうしていいか……わからなくなる。
もっと甘え、寄りかかり、自分をドロドロにしてくれるあなたを拒む理由が――――見つからない。
「…………っ!」
「シホ……?」
婚約者の変化にミリウスも気づいたのだろう。
彼を拒絶した腕が、嫌悪感からではなく別の理由で。ゆるゆると力を無くし、彼の胸元を握り締めてしまっているその現状に。
きっと今頃涙が浮き、真っ赤になっているだろう顔を必死に背けながら、シルヴィアは懸命に最後の抵抗をした。
「あなたには、ミリウスには――――その名前を呼んで欲しくない」
「…………どうして?」
シルヴィアの拒絶に一瞬傷ついていたはずの彼も、婚約者の変化に冷静になったのだろう。穏やかな口調で囁く。
「あなたにその名前を呼ばれると――――どうしていいか、わからなくなるから」
「…………それは?」
その意味を、真意を確かめるように、ミリウスの指先がそっと近づく。
大好きな、大きな手。自分のよりずっと長い、骨張った硬い指先が、そっと壊れものを扱うように優しく触れるその瞬間。それが自分は大好きだった。
ミリウスの指先が頬に触れ、優しく頬を包んだ瞬間。
シルヴィアの中で何かが決壊した。
初めて人間に触れられる子猫のようにびくりと震え、やがてもっとその温もりが欲しくて頬を擦り寄せる――……。
「あなたにその名前を呼ばれると……自分が、自分でなくなるくらい…………あなたのことしか考えられなくなるから――……」
そう、弱音を零した瞬間。
「っ」
弾かれたように反応したミリウスに、身体ごと意識を奪われていた。
強くシルヴィアの身体を引き寄せたミリウスが、頬を包んでいた手を滑らせ顎をすくう。
そうして覆い被さるように、有無を言わさずシルヴィアに口づけた。
「んっ……ぁ……」
「シホ――」
何も考えられなくなる、意識をすべて彼に持っていかれる感覚に、それでもシルヴィアはぎゅっと彼の服を握り締める。
優しい唇が、自分見つめる熱病のように熱い眼差しが、彼のなかを自分が満たしている瞬間が、大好きだった。
「んっ……!」
甘く自分をこじ開けるような優しいキスが、閉じた歯列をつつき、その先に進みたがる彼の貪欲な愛情が、ただただ心地いい。
彼の侵入を許すと、それはシルヴィアの中を余すことなく堪能して――焦がれるように舌を絡めた。
吸い上げ、じゃれ合い、そうして再び呼吸さえ奪うような深いキスをする――……。
それこそが本当の『恋人のキス』なのだと教え込むような、ミリウスの獰猛な顔つき――。
それを真っ直ぐ溶けた目で見上げながら、シルヴィアは必死に追いかけた。
「ミリウス……」
「シホ……」
呼吸の合間に、名前を呼ぶと。
同じく愛おしそうに呼び返される。
その瞬間がどうしても心地好くて、もっとと強請ってしまう。
「もっと……甘やかして」
「っ」
再び熱を増す口づけに、上顎の内側を滑るぞくりとする感触に、溶け合う二人の感覚に、もっと、もっと。もっと深く重なりたいとそう思う。
永遠にミリウスが自分から離れていかないところまで、二人で――――……。
きっと恋人に溺れているのは、私のほうだ。
自覚に羞恥に染まる熱い身体で、涙を浮かべながらそれでもシルヴィアはキスに溺れた。
*
暗かった室内に、ランプの明かりが灯る。
すっかり日の落ちた室内で、長椅子に腰かけながらシルヴィアはゆっくりと息をついた。
長いキスの影響で、あれから酸素不足か膝から崩れ落ちてしまったシルヴィアを、ミリウスは優しく長椅子へと誘導した。
「ごめんね、ミリウス……」
「いや、俺のほうこそ……」
加減を忘れていた、とばつが悪そうに反省するミリウスは、それでも隣に掛けながら、優しくシルヴィアの頬を撫でてくれる。
その手に頬を擦り寄せながら……シルヴィアはミリウスに寄りかかった。
「ミリウス……大好き……」
今日何度目になるかわからない言葉を呟けば、ミリウスは
「っ……! あなたは……!!」
「ミリウスは、私のこと好きじゃない……?」
「そんなこと、あるはずないだろう……!」
ミリウスはシルヴィアを引き剥がしながら、それでも眉間に皺を寄せながら葛藤する。
「だからこそ、あなたをここから無事に返すために耐えているわけで……」
何やら小声で、ぐらぐらとしそうな決意を隠すように、ミリウスはシルヴィアからあらぬ方向を向く。
「……シルヴィ」
「!」
「あなたが甘えてくれるのは嬉しいが……今日はここまでにしよう」
幸せな時間の終わりが告げられたのだとシルヴィアがしゅんとすると。
ミリウスは子供をあやすようにポンと頭を撫でてくれた。
「俺が今日あなたに言いたかったことは、あなたの自由も認めたいが、俺のことも考えてくれ――それだけだ」
シルヴィアから事情を聞いたミリウスは、それだけを簡潔に告げた。
「私が好きなのは、ミリウスだけなのに?」
「~~~~っ、だからあなたは……」
ミリウスは困ったように恋人に語りかける。
「あなたは、もし今日のことが反対の立場だったらどう思うか考えてみてくれ。もし俺が、ある日女官に親しげに名を呼ばれ、あなたに何も言わず彼女の宿舎に行き、その帰りに彼女と同じ石鹸の香りをさせて帰ってきたら――――……」
「……っ!!!」
そんなミリウスが、平然と自分の前に現れたなら。
どんなに信頼していても、不安になってしまうだろう。
「そんなのいや……」
考えてもみなかった耐えられない現実に、素直に言葉を零すと。
「わかってくれれば、それでいい」
ミリウスは穏やかに笑った。
甘くくるおしいひとときの終わり。
最後にミリウスはシルヴィアに語りかけた。
「あなたに――――ひとつ聞いてほしい頼みがあるんだ」
「?」
ミリウスは、恋人を愛おしげに見つめるとそう言った。




