第6話 王太子の幸せな苦悩
「俺の恋人が可愛すぎる……」
午前の軽やかな日射しが射し込む執務室。
その休憩時間に、ミリウスは一人執務机の上で真剣に苦悩していた。
(まさかこんな惚気のようなことを口にする日が来るとは……)
自分でも正直どうかしていると思う。
仕事中は自己を律し、誠心誠意国と国民のために尽くしているが、その集中が切れた途端……脳裏に浮かぶのは一昨日王宮に越してきたばかりの婚約者シルヴィアの姿だった。
今朝も、朝は苦手で眠いだろうに『一緒に食事を取りたいから』という理由で、起床の早い自分に合わせ朝食に駆けつけてくれた。
(女性なら身支度にも時間がかかるだろうに……)
早朝から支度をしてもらうのが申し訳なく、せめて少しでも気楽に食事が取れるよう、夫婦の食事室では、最低限の使用人を残して人払いをすれば……周囲を気にする必要がなくなったのだろう。彼女はそれはもうのびのびと、無邪気にいろいろな話をしてくれた。
そんな彼女の全身から迸る、喜びと自分への純粋な好意を目にすると、これほどに幸せでいいのか、あまりに過ぎた幸福に目眩がしそうになってくる。
(駄目だ……舞い上がるな……。彼女が憧れるような頼り甲斐のある夫になるつもりだろう……?)
そう目指しているはずなのに、彼女に会うたび、情けなくも舞い上がってしまう自分……。
それはきっと、自分と彼女の出会い方に起因していた。
自分と彼女は今から約3年前――王国の魔法学院で出逢った。
当時は18歳の一学生として過ごしていた自分のもとに、彼女は突然現れた。
同じ学生ではなく――たった二つ年上の教師として。
当時まだ自身の出自を知らなかった彼女は、市井で一介の魔術師として暮らしていた。
そこへ学院からの招聘があり、急遽自分たちの担任をすることになったのだ。
そこで自分は大げさではなく――彼女に人生を救われた。
彼女の大きな優しさで、暗く淀んだ人生から掬い上げるように明るい未来をもらったのだ。
そんな今まで誰も成し得なかったことをやり遂げた彼女に、自分が惹かれるのに時間はかからなかった……。
もっと笑顔が見たい。声が聞きたい。ずっと傍にいてほしい。
教師というには余りにあどけなく気さくな彼女に。
その少女のような後ろ姿に、気づけば完全に恋をしていた。
(そこからだ……)
何度も、何度も、彼女の気持ちを得ようと告白して。
その度になかったことにされたり、教師であることを理由に断られた。
けれどそれでも諦めきれず、ついには卒業と同時に自分の前から姿を消した彼女を追いかけて――……。
ようやく探し出したとき、彼女は本来の身分――帝国の皇女に戻っていた。
(ようやく立場や身分、妃に迎えるための障壁がなくなったんだ。それを見過ごせるはずがない――……)
彼女が帝国の他の男と結婚させられようとしているという話を聞いた途端。すぐさま自分は国を飛び出していた。
そして帝国に乗り込み皇帝に直談判をして、彼女との政略結婚を取り付けたのだ。
そうして今度こそ最後の最後となるプロポーズを申し込み…………。
そこまでして、ようやく彼女は折れてくれた。
長く、険しい。あまりに遠すぎた道のり。
その果てに得た幸福だからこそ、その奇跡のような喜びに毎度舞い上がってしまう。
(彼女がいるだけでこれほど満たされるのに……結婚などした暁にはどうなってしまうのだろうな、俺は)
正式に妻となった彼女を前に、何者ももう二人を分かつことはできない事実に……喜びのあまり、現実を夢かと疑い始めるかもしれない。
(あまりに夢がそのまま現実になってしまうから……)
むしろそれ以上かもしれない。
自分のために自ら恋人の瞳色のドレスに身を包むシルヴィアなど、想像もしていなかった。
「可愛すぎるだろう……!」
愛されている実感がある。彼女の愛情をそこかしこからいつも感じる。
その夢に描いた以上の現実に、自分が抑えられなくなっていた。
彼女に会うたび、口づけをせがんでしまう自分。
婚約者である以上、体面的には何も問題ないのだが、それでもその衝動は想像以上だった。
彼女が可愛い。だから口づけたい。
彼女に恋人として触れても許されている。だから抱きしめたい。
かつての自分では許されていなかったことが何もかも許されてしまうから、だからその事実――自分たちは恋人で、自分は彼女に心から愛されている――を確認したくて、どんどんその欲求は膨れ上がっていった。
(皇帝に釘を刺されたのは、ある意味よかったかもしれないな……)
帝国で、彼女との政略結婚の話を結んだとき。
皇帝にこう釘を刺されたのだ。
『たしかに妹との政略結婚は認めたけど…… 一応筋は通してよね?』
『……?』
『常識的な範囲なら、別に妹と何をしようと構わないけど――。間違っても式を挙げる前に手は出すな、ってこと』
『……!!?』
当時はまさか。そんな紳士に悖る行いをすることはない、と断言したが…………。
(自信がなくなってきた…………)
はぁ、と深い溜め息をつく。
それもこれも彼女が可愛すぎるから。
愛おしすぎて手放しがたく、自分が自分でいられない。
「溺れる……とは、こういうことを言うのだろうな」
彼女からもう逃れられない。
いや、反対だ。逃すつもりがない。
ただ彼女といる幸せな未来のため、そのほかの全ての物事を、最良の形で上手く運ぶことを固く誓う。
そうして今日も、王太子ミリウスはゆっくりと息を吐き出して、再び執務机に向かう。
合わせたように、コンコン、とノックの音がして、直属の配下が入ってくる。
「殿下、失礼いたします」
そう言って入室してきたのは、王太子ミリウス直属の近衛騎士――――ユリシスだった。
銀髪銀眼の銀雪を思わせる男が、生真面目を絵に描いたような礼で入室すると、一冊に綴じられた書類の束を差し出した。
「これは?」
「先日ご提案いただいていた、新王太子妃の警護計画です。当初案に修正を加えたものをお持ちしました」
「そうか。それは助かる」
ざっと内容に目を通す。
ミリウスにとって、シルヴィアの安全は最優先事項だった。
一番の脅威となる第二王妃はもういないとはいえ、王宮は権謀術数渦巻く魔境。何があるかはわからない。
そのためにも万全の態勢を尽くすべく、ミリウスは周到に準備を進めていた。
「そうだ、ユリシス」
「はい」
「新王太子妃付きの近衛騎士――クリフは、すでに彼女についているのだろう?」
「はい。居室の前で警護任務に当たっています」
ならば丁度いい。ミリウスはひとつ頷く。
「近いうちにお前たち二人を彼女に紹介したい」
ユリシスが、その銀雪に薄く紫を溶いたような瞳を見開く。
「どうした?」
「…………いえ」
不可思議な反応をした部下に、ミリウスはわずかに首を傾げながら、再び書類に目を落とす。
「直接護衛対象と言葉を交わさずとも、計画書に従い護衛はできるかもしれない。だが俺は、できればお前たちには彼女の人となりを含め、彼女という人を理解した上で警護にあたってもらいたい」
無いに越したことはないが、万一の事態が起こる可能性もあるだろう。
そうしたときに互いのことを知らないままでは、臨機応変な対応どころか、必要最低限の意思疎通さえ取れぬままになるかもしれない。
「俺は、俺とお前がそうであるように、彼女とお前たちにも互いを信頼し、安心して背中を預けられる関係であってほしいんだ」
それが近衛の主人として、また愛しい妻を持つ夫としてのミリウスの願いだった。
「………………そこまで仰るのであれば」
ユリシスは主人の願いを汲み、居住まいを正す。
「ですが本来そうした役目は、新王太子妃付きのクリフが務めることなのでは……?」
なぜ王太子付きの自分が、皇女とも交流せねばならないのか。部下ユリシスの顔には、はっきりとそう書いてある。
一般的には婦人受けのよさそうな美麗な面持ちながら、女性どころか他人全般との交流を嫌うユリシスらしい返答に、ミリウスは内心苦笑いしながら、『……コホン』と咳払いをする。
「それは…………」
「?」
「その……俺と彼女はやがて……ふ、夫婦になるだろう……? ならば共に過ごす時間も増えるだろうし、お前たちにはどちら付きと言わず協力して『夫婦』二人の警護にあたってほしいんだ」
自分で言っていて思わず込み上げてしまう喜びに、必死に平静を装いながら、緩む頬を引き締める。
可愛く、愛おしい最愛の人、シルヴィア。
思い出しただけで、早くも会いたくなってしまう。
ミリウスは恥ずかしさを誤魔化すように、仕事の続きに取り組み始める。
隣にいた部下の表情など――確認することなく。
だから気づかなかったのだ。
そんな主人のすぐ隣で、眉間に深い皺を刻みながらこちらを見つめる視線があることに…………。
ユリシスはその美麗な面持ちで――――紫氷の瞳を歪にゆがめた。




