第177話 彼の背中
レムリア宮に戻った日から、シルヴィアにとって全ての指針はミリウスになった。
――彼ならどうしただろう?
――彼ならどう振る舞うだろう?
皇族としての振る舞いなど、遠い記憶にしかない自分にとって、最も正しい見本となるべき姿はミリウスだった。
だからいつも彼の姿を、言葉を思い浮かべ、彼の生き方をなぞっていく。
そうして少しでも立派な皇女になりたかった。
(ミリウス……あなたの苦労がやっと今になってわかった気がするわ)
彼は学業もあるだろうに、王子としての務めも欠かさなかった。
ラスティンの話では、彼は毎朝時間を見つけては、レナード達外部の側近が寄越す書簡を読み込み、決裁が必要な書面があればそれも遅滞なく送り返していた。
そして夜も学業の傍らに王族としての資質を高めるための勉学に勤しみ、自らの持ちうる全てを懸けて良き王になろうとしていた。
(私とあんなにたくさん、他愛ない話をしてくれたのに……)
全然、大したことのない話だった。
ただシルヴィアがその日見たもの、感じたこと。ただそれを思ったままに語るだけの意味もない時間。
それを彼は本当に……本当に楽しそうに聞いてくれた。
(こんなに……大変だったのに)
いまならわかる。
あれは彼が少ない時間を掻き集め、多忙な日々の中でなんとか生み出してくれた貴重な時間だったのだと――。
(大切にされていた――……)
たくさん話を聞いてくれた。
たくさん助けてもらった。
いつも振り返れば傍で……見守るように微笑んでいてくれた。
(なのに私は…………何も返さず逃げ出した――)
彼を騙すように離れたあの日を思う。
本当は、決してミリウスから逃げたいわけではなかった――。
もちろん嫌いになったわけでもない。
想いを寄せられることが迷惑だというわけでもない。
ただ……自分が、怖かった。
(あのままあそこで頷いていたら……きっと私は駄目になる――)
彼に愛されることが嬉しくて。彼に想われることが嬉しくて。
優しく抱き締められる腕が、温もりが心地好くて。すぐに甘えそうになってしまう自分には……きっと。
(そのうちきっと、私はあなたのことしか考えられなくなってしまう……)
それはきっと、新しい形の『依存』だ。
今ならわかる。かつての自分は『師』に依存していた。
誰も自分のことを顧みない環境で、唯一向き合ってくれる彼に依存し、その判断のすべてを彼に委ねた。
(それがあなたに代わるだけなのが恐ろしい――――)
優しいミリウスは、きっと大事にしてくれるだろう。
大切に彼の全力で、愛してくれるだろう。
だからきっと…………より、溺れてしまう。
毎日彼に愛されることだけを考えて。彼の気を引くことだけに心を尽くして。
そうして、そのうち自分では何も考えられなくなるくらい……彼が世界に、自分の全てになってしまう……。
それでは駄目だ。
だから――離れなければならなかった。
彼に頼らず、せめてちゃんと自分で独り立ちできるくらいには。
成長して。そうして、一人前の皇女になって。
もし再び、再会できたその時には――――……。
(…………っ)
未練がましい。あまりに身勝手な理由。
自分のことばかりで、彼の気持ちなんて考えない。
けれど。
自分は…………ちゃんと選んでほしいのだ。
彼に、限られた学院という箱庭の中からではなく。
世の多くの令嬢、異性と出会った彼に、そのすべての中から『 あなたがいい 』と選んでほしい。
そうでないと、もし、将来大人になった彼が、ほかの令嬢に目移りしたときに――――――きっと自分は、ひどく……ひどく醜くなってしまうだろうから。
(だから逃げ出した――……)
彼に、一度完全に忘れてもらうために。
『少し待って』や『ほかの人も見てほしい』――そう告げるだけでは、真面目で一途な彼のことだ。何年でも、脇見などせずひたすら待ち続けてくれるだろう。
(だから、それじゃ意味がない……)
でも、そうして逃げ出してからもう二年。
あれから、何の音沙汰もない。
自分から逃げ出したのだから当然だろう。
わがままで勝手で、口説く甲斐のない女だと呆れられてしまったのかもしれない。
レムリア帝国で皇女が生還していたという報せくらい、きっと届いているだろうに……。
(なのに、それでも音沙汰がないということは……)
目の前が、一気に暗くなる。
自分で望んでいて、怖れていた結末。
彼が本当に――――ほかの女性に心惹かれてしまったのかもしれない。
ある意味当然の結末に、心臓がきゅっと引き絞られる。
「…………」
それでも、シルヴィアはここを離れるわけにはいかない。
自分の役目を投げ出すわけにはいかない。
それが短い6歳までという間でも、自分を生かしてくれたこの国と国民への、皇女としてできる唯一の恩返しだったから――……。
そんな後悔ともどかしさに震える夜を思い出しながら、シルヴィアは穏やかな春の日射しが注ぐ窓辺に佇む。
こうして色とりどりに咲き誇る花を見ていれば、少しでも『在るべき自分』でいられるような気がした。
*
「シルヴィア様、午後のお茶はこちらでお召し上がりになりますか?」
侍女に問われ、シルヴィアは窓の景色から室内へと視線を戻す。
「そうね……。今日はここでいただくわ」
レムリア宮に来てからというもの、シルヴィアには週に一度、兄と茶席を共にすることが命じられていた。
本当は毎日を希望されていたのだが、シルヴィアが断固として拒否した結果、週一という頻度に落ち着いた。
今日はその週に一度の茶会だというのに、今朝方兄の部下から『今日は予定が入った』という報せが来て、午後の予定が空いてしまっていた。
なので仕方なく、いつもどおり自室で侍女と二人でとることにする。
「それではシルヴィア様、準備をして参ります」
侍女が紅茶の用意に扉を開けた瞬間、何やら廊下から騒々しい物音が聞こえた。
遠くで叫ぶ人の声、荒々しい足音。
遠い昔の記憶を思い出して、シルヴィアの体に緊張が走る――。
「ベラ、部屋に戻って――――」
シルヴィアがそう言いかけた途端、大きな手が伸びてきて、侍女が一度閉めかけた扉を大きく押し開いた。
「……!!」
驚き、後ずさる侍女を押しのけるのように開け放たれた扉。
その前に立っていたのは―― 一人の見知らぬ男だった。
いや――――……。
シルヴィアが瞠目し、息を呑んだ瞬間。
扉の縁に背が届きそうなほど上背のあるその男は、荒々しい足取りで部屋に侵入し絨毯を横切ると、部屋を突っ切り、窓辺に佇むシルヴィアの前で足を止める。
そして――――……。
「っ!」
シルヴィアを見下ろすなり、間を置くことなく一瞬で、皇女であるはずの自分をその両腕で抱き締めた。
ぎゅう、と骨が軋みそうなほどの力強い抱擁。
即座に魔法を展開して振り払う――――はずだった。
「――――……」
かつての自分なら。
けれどそれができない。
なぜなら、自分を抱き締めるその男の震える肩に、遠い記憶に残るある人の面影があったから――――……。
「ミリ……ウス…………?」
シルヴィアは、その人の名を呼んだ。




