第176話 帝国への道
2年後――――。
神聖レムリア帝国。
春の花咲く皇宮の一室にて。
「シルヴィア様」
侍女に声をかけられ、私室の窓辺に佇み眼下の空中庭園を眺めていた皇女は振り返った。
「どうしたの?」
不思議そうに首を傾げる皇女は、流れるような黒髪に、人目を惹く紅玉の瞳を備えていて、神々の彫像が纏うような白くゆったりとしたドレスに身を包んでいた。
「シルヴィア様、御髪が」
そう言って侍女は主人の風に乱された髪を直すと、それ以上何も語らずそっと脇に控える。
そんな彼女に、
「ベラ、ありがとう」
主人らしく鷹揚に労って、皇女――シルヴィア・ルィ・ラウレンティス・ド・レムリアは微笑んだ。
(彼女は本当によくやってくれている……)
寡黙だが、よく気がつき尽くしてくれる彼女には、この一年半――――本当に世話になった。
かつて隣国ウィルテシアで、魔法学院教師『シホ・ランドール』として暮していたシルヴィアは、1年と9ヶ月ほど前から、このレムリア帝国が宮城――レムリア宮で暮している。
どうして一介の教師が皇宮で暮すのか――それは、こちらがシルヴィアの本来のあるべき生活だったからだ。
卒業式の日、ミリウスのもとから離れることを決意したあの日。シルヴィアは、まずはウィルテシア王国を出ることにした。
長く暮した国を離れることは名残惜しかったが、きっとこの国に居続けては、遠からずミリウスに見つかってしまうだろう。
(それでは駄目だから……)
シルヴィアは王国を出て、隣国リンデールを抜け、他国を目指した。
道中かつての故郷だった村も訪ねたが、実家を訪れたとき……すでにそこはもぬけの殻だった。
祖父母の姿どころか、家畜の姿もない。つまりは――きっと早々に引き払う手続きが済んでいたのだろう。
おそらくヴィルが学院を訪れる前になんらかの連絡が取られ、契約が満了した彼らは、この土地を去ったのだ。
育ての娘に真実を知られたことが後ろめたかったのか、それとも復讐を恐れたのか。最後に別れの一言も言えなかったのが悲しかった。
生みの親も、育ての親も、誰一人いなくなってしまった――――。
涙を流しながら一人静かに故郷を離れたのを覚えている。
そしてシルヴィアは――――レムリアを目指すことにした。
正確には、その頂上。帝国の頂に君臨する皇帝――――実の兄エミリオを問いただすために。
(父を奪い、母を奪い……そして自分は新たな帝国の主として君臨する)
ヴィルは、シルヴィアの命を守るためだと言っていた。
けれど両親を殺害し、その罪を廷臣に着せ。逆臣とされた人々をことごとく粛正し、いま兄はその血塗られた玉座の上に皇帝として君臨しているという。
一族郎党残さず血の海に沈めた凄まじさに、ついた異名が『粛正帝』……。
その情報を聞いたシルヴィアは――――黙ってじっとしてはいられなかった。
(兄を――エミリオを問いただす。そうして理解も納得もできない理由のときは……)
彼の妹として。多くを巻き込んだ諸悪の根源の一部として、彼を討とう――。
そう決意して、生まれた国レムリアを目指した。
そうして他国を経由して、レムリアに近づくたび……新たな情報が増えていった。
『レムリア? いやぁ、そうだなぁ……。数年前から国情が安定したおかげか、隣国に来る野盗も減って安心してるよ』
『あぁ、新しい皇帝さんが就任したんだってねぇ。なんでも大層若いとか。なのに商売が上手いのか、いい部下を持っているのか。最近じゃ隣国のうちとも商売人の行き来が増えて、それもなかなかにいい値で買ってくれるから感謝してるよ』
(………………。いや、外部から見るだけでは内情はわからない。帝国内に入ってしまえばきっと――……)
『粛正帝? あぁ、新しい陛下のことかい! そりゃあねぇ、大層恐い名がついたもんだけど。あたしら庶民にとっちゃ全然前の陛下よりマシだねぇ。嫌味な貴族や、税を何度もかすめ取ろうとする悪い役人たちを処罰してくれるし。昔みたいに子供たちが腹を空かせて夜中に泣き出すことなんてのもなくなったしねぇ』
『うちなんて皇帝が代替わりしてからだよ。昔はパンを焼く小麦すらなかなか手に入りゃしなかったのに、いまではこの有り様さ。焼いても焼いても、すぐに飛ぶように売れちまう!』
『南の娼館街じゃ、なんでも女の子たちが大層喜んでるってよ。昔みたいに横柄な貴族に殴られることもなくなったし、いまじゃ娼館街の一画で字だって教えてくれるらしい』
(………………)
『いやぁ、我慢してみるもんだねぇ。女神様がこんなに素晴らしい陛下を授けてくださるんだから。我慢して生き延びて…………本当によかった』
両親を逆臣に殺され、その復讐のために立ち上がった若き皇太子 ――――……。
その美談と彼がもたらした功績に、帝都中から彼を称える声はやまなかった。
「…………どうすればいいの?」
認めたくなかった。
両親を奪った兄が、民に褒めそやされている現状を。
許せなかった。
結果的に国を幸せに導こうと、その足もとは幾千の血で汚れているその玉座が。
(ミリウス――――……あなたの国とは大違いだわ)
涙が溢れる。
かつていた場所が、とても尊いキラキラした唯一無二の場所だったように感じる。
整理しきれない胸の中で、それでもシルヴィアは答えを出す。
そうして皇帝に会って――――シルヴィアは答えを出した。
(やはり兄は…………絶対に許せない)
たとえ民に、新たな臣下に慕われようと。
自分だけは永遠に、絶対に許さない。
でも。
同時に、何もしなかった、できなかった自分には――――兄を、新たな幸せを手に入れた民から奪う権利もない。
民の幸せは、守られるべきだ。
きっと、あなたならそう選んだはずだから――――……。
ここにはいない広い背中を目蓋に描き、シルヴィアは決断した。
『彼』なら、どうしただろう?と。
きっと、民のことを第一に考えて生きるはずだ。
なら自分も、民のために――――。
この国で、兄が再び父のような暴君にならないか、その施政を監視し続けよう――――。
そうしてシルヴィアは、『皇女シルヴィア』として生きることを決めた。




