第172話 希望の予感
夕暮れに夜の色を帯び始めた森に、ミリウスは一軒の小屋の扉を開いた。
年季が入っているものの、小屋というよりは家屋に近い上等な室内は、さすがアーミントン伯爵家の持ち物といったところか。
かつての授業で、森林散策時の休憩所として使用されていた小屋の中に入って、ミリウスはゆっくりとシホを椅子に掛けさせた。
「大丈夫ですか、先生……」
「うん」
「無理はしないでください。本当に酷い怪我なんですから……」
曖昧に微笑ってみせるシホは、本当に重傷だった。
かつての師ヴィルと死闘を繰り広げた彼女は、体中に傷を負っていて、とても学院まで歩ける状態ではなかった。
そこでミリウスは、応急処置の治癒魔法だけかけて、とりあえず今晩一晩は、この森の休憩小屋で治療に専念することにしたのである。
「傷を見せてください」
言うと先生は、大人しく腕を差し出した。
自分でも大きな傷の治療は行っているようだが、頼めばその他の傷はこうして見せてくれるようになった。
長椅子の隣に腰かけて、そうした傷の一つ一つを癒やしながら、ミリウスは問いかける。
「どこか他に痛い場所はありませんか?」
先生はゆっくりと首を振る。
「もう……大丈夫。それより……」
そう言って、おそるおそる触れるように手を伸ばす。
白く細い指先をミリウスの頬へと伸ばし、先生は呟く。
「ごめんね。痛くない……?」
そう言って、ミリウスの頬にできた傷を癒やすのだ。
もっと酷かったはずの自分の傷など、まるでなかったような顔をして。
「痕が残ったらどうしよう……」
「そのときはまた先生が消してください。それに……」
「?」
「たとえ痕が残っても……俺は構いません。この傷はあなたを守れた証……俺にとっては勲章みたいなものですから」
そう言って伸ばされた手を包み込むと、先生は感極まったようにまた涙ぐみ始めた。
その身体をゆっくりと抱き寄せて、ミリウスはその幸せを噛みしめる。
この柔らかな身体を、熱い命の温もりを、失うことがなくて……本当によかった。
一度は消え入りそうになった魂の輝きに、彼女にそうさせた男に、強く思う。
ミリウスが最後に光の魔術を放ったとき――あの男は満足そうに笑っていた。
そして勝利を収め、泣き崩れる彼女を抱いていたとき、遠くに――その姿を見たのだ。
片腕を失い、遠く丘の向こうに立つ男のその姿を。
ミリウスと目が合いつつも、何も言わず、語らず、ただ静かに黙って去る男のその姿を――。
(もう、会うことはないのだろうな……)
なんとなく、そんな気がしていた。
静かに去る男は、もう二度と自分たちの前には現れない。
そんな気がしていた。
(それに、彼女には言いたくない……)
あの男が生きていることも。
遠くに旅立ったことも。
もう二度と会えないだろうことも。
彼女に黙って行くことも。
何故なら――――ようやく、解放されたのだ。
長く苦しみ、たくさん傷ついて。彼女は、泣いて、泣いて、やっと前を向けたのだから。
これからはもう幸せになることだけを考えて欲しい。
静かに消えた男の後ろ姿を振り切って、ミリウスは腕の中の温もりをただぎゅっと抱き締めた。
もう二度と――彼女は傷つけさせない。
これからはずっと自分が――――彼女を守るのだから。
*
その後、学院に戻ってからは、慌ただしく卒業までの日々が過ぎていった。
卒業試験の結果が発表され、歓喜に沸く面々の裏で、ミリウスとシホは学長に呼び出された。
あの日起きたことの事情を説明し、結果――――今回の件は周囲に伏せられることになった。
生徒への影響や、再試験の可能性などを諸々鑑みた結果――そのほうがよいと学長が判断したのだ。
ミリウスも、それでよかったと思っている。
自らの事情に生徒たちを巻き込んでしまったとシホが気に病まなくて済むし、何より今回一番の被害者である彼女に、これ以上心労をかけたくはなかった。
あれからあの男は――――見つかっていない。
あの戦いで片腕を失ったとはいえ、レムリア皇帝一家殺害事件の反徒であることに違いはない。
彼女から両親を奪った罪を償わせるべく手配はしているものの、捕まったという報告を受けていないからには、どこかで生きているか――人知れず死んでいるのだろう。
散々各所で恨みを買うような生き方をしていたらしいから、手負いでこの先を生きていくのは難しいかもしれない。
そうした諸々の事後処理がひっそりと学院生活の裏で粛々と進められていくなか、ミリウスには喜ばしい変化がひとつあった。
先生の――――シホ態度が変わったのである。
あれから学院に戻って、シホはいつもの『教師』に戻った。
森の小屋にいたときは、きっと過去の記憶が戻ったばかりで一時的に子供返りをしていたのだろう。
ミリウスに身を任せ、素直に子供のように甘えていたが、学院に戻るや否や、本来の感覚を取り戻した彼女は、どんどん大人へと戻っていった。
けれど、そこに何も変化がないわけではなくて。
彼女は、以前のようにミリウスを拒絶しなくなった。
以前なら近づくだけで警戒し、緊張に身を強ばらせ、二人きりのときなど、けして笑顔を見せてくれることなどなかったというのに。
そんなシホが、二人きりのときでも以前のような優しい笑顔を見せてくれるようになったのだ。
それどころか、近づき傍に寄ることも許してくれるし、二人きりのときに声をかければ、
『どうしたの? ミリウス』
と、以前とは種類の違う親愛の情の篭もった声を返してくれるようになった。
そこに込められる他の生徒へはない温もりに、歓喜に身体が震えるようで、思わず先生を抱き締めそうになってしまう。
(駄目だ。我慢くらいできるだろう……彼女がこんなにも心を開いてくれているのだから)
それを堪え性がないばかりに踏み込んで、再び距離を取られたくはない。
どうせ、明後日には全ての結果が出るのだから。
どんな形になるにしろ――――もちろん到底引き下がることのできないものもあるのだが――――おそらくそう悪い結果にはならないだろう予感に、ミリウスは最後の日を待ちわびる。
おだやかな日々を名残惜しく思いながら、これから始まる未来への予感に心を躍らせていた。




