第166話 記憶の先に
どこに身を隠そうか。
帝国の奴らが絶対に探し出せそうにない場所。
そうだな、あそこがいい。
帝国嫌いで、普通外国人が隠れ潜もうなんて思いもしない排他的な土地で。
ちょうど馬鹿をした息子を見逃してやった家がある。
あそこなら、あの馬鹿の命と引き換えに、お前の面倒を見てくれるだろう。
名前は……そうだなぁ。
さすがにそのままはマズいよな。
偽名……偽名ねぇ。オレにはそんなセンスはないんだが……。
そうだ、アレがいい。
奇妙で、奇天烈で。こっちの奴らには馴染みも何もない名前だが、目立つ分よくわかる――――。
どこにいても、お前を見つけられる、お前とオレだけが知る名前。
――――『シホ』。
お前の大好きな夢に出てくる『憧れの女神さま』の名だ。
何度も繰り返しかけられる忘却と、意識を落とす睡魔の術に。すべての記憶と意志は、地層のように意識の奥深くに沈んでゆく――――。
そして、
「あなた、誰なの? 旅人さん?」
雪の積もる、凍えるようなリンデールの冬。
家畜小屋の羊たちに、干し草と水を与えていた『シホ』は、不思議な旅人を見つけてそう問いかけた。
「あーそんなとこ。ってか寒っ。どこか泊まるとこ紹介してくんない?」
「………………」
変な人間だと思った。
けれど妙に人懐っこくて、不快ではなかった。
この国の人々は、外国人の旅人には厳しい。
金があるなら宿で手厚くもてなすが、ないなら間違いなく野宿だろう。
「…………そこの飼料小屋なら、藁溜めに寝てもいいと思うけど」
寡黙だがそう厳しくない祖父母なら、頼めば承諾してくれそうな気がした。
「お嬢ちゃん。名前は?」
「…………シホ。シホ・ランドール」
見知らぬ人間に不用意に名など教えるなと叱られそうだけど。でも、なぜか。この人にはそう名乗りたくなるような気がした。
「あなたは?」
「あーオレは…………」
「……? 何、言えないの?」
シホが怪しみ始めると、男は『いいや』と首を振る。
「ヴィル、オレの名前はヴィルだ。ってことで、自己紹介も済んだところで…………早く暖かいところに案内してくんない?」
「………………」
それから、その冬の間。
ヴィルは家に居着いた。
正確には、その飼料小屋にだけど。
なぜかすんなり祖父母に承諾を得て、そこに居着いた。
まぁ、冬のリンデールで凍え死なれても寝覚めが悪いだけだけど。
そうして春になるころには――――。
「ヴィルっ!! 見て見て! ほら、炎が出たの!」
「おー、やるじゃねぇか。よくやった」
大きな手の平に撫でられて、シホは、嬉しそうに目を眇める。
冬の間中、越冬の礼だと教えられた魔術で、シホは一角の成果を見せていた。
それから――――ヴィルは、数ヶ月に一度、思い出したように村を訪れるようになって。
その度に、新しい魔法書と知識をシホに与えてくれて。
羊が青草を食む間、剣の稽古だと、誰も何も期待しなかったシホに、ただ一人付き合い指導をしてくれた。
リンデール人らしくない、リンデール人。
色付きだと、誰も相手にしない自分を見てくれた。
年老いすぎた寡黙な祖父母の代わりに、いつも遊び相手になってくれた。
師になってくれた。
話し相手になってくれた。
上手にできると褒めて……頭を撫でてくれた。
ずっと……ずっと一緒にいてくれた。
「――――っ」
這いつくばっていた地面から、呪紋で自身の体を叩き上げると、その反動を利用して一気に憎い仇へと刃を振り下ろす。
「っ――!!!」
拮抗する銀の輝きに、互いの横顔が反射する。
背後でミリウスが何か叫んでいるが、聞こえない。
仇は――――取らなくては。
何もわからぬまま殺された両親の代わりに、この男を同じ目に遭わせてやらなくては。
憎かった。
許せなかった。
この男が。
この男を不用意に招いた幼い無知な自分が――――許せなかった。
自身の魔力の輪郭が不安定になっているのをいいことに、相手の障壁に浸食して、呑み込んで、同化してできた穴に鉄芯をえぐり込む。
多段式の衝撃波を重ねて打ち込むと、それは障壁の内側からヴィルの側頭部を削り取った。
眉から溢れる鮮血に、一瞬ヴィルの視界が奪われる。
最初で最後の、唯一の好機――――。
返り討ちになることを覚悟に、渾身の力で刃を突き上げる――――。
「……な、んで?」
しかし、渾身の一撃として繰り出したはずの刃は、憎い仇の喉を通り過ぎ、その首筋に薄い傷跡をつけただけだった。
自分でも信じられないように驚愕に目を見開くシホに、ヴィルは冷たく瞳を曇らせて、
「……この、甘ったれが」
低く唸ると、困惑に立ち止まるシホを蹴り飛ばした。
「殺れるときに殺れ。そう教えたろう」
一瞬の油断は、躊躇は、傲慢な情けの感情は、次の瞬間今度は自分を襲う刃となって降りかかる。
だから何度も、何度も……何度も! そう教え叩き込まれてきたはずなのに――――。
何度握り直しても、手の中のナイフの切っ先は細かく揺れるばかりで、シホの思うように動いてはくれなかった。
(なんで――――!?)
叫ぶように獲物の柄を握り締めながら、同時にシホは思い知る。
憎い記憶。惨く、おぞましく、忘れられるものなら忘れたいほどの――――鮮烈な惨状の記憶。
それに淡く重なるようにもうひとつの確かな記憶があることを。
青草の草原で、雪の日の暖炉の側で。
からかうように、見守るように、確かにシホのことを見つめ続けてくれた瞳を。
憎くて、怖くて、許せない――――そんな相手が。同時に過去の自分にとってのすべてだった。
ある時は『父』で、また『兄』で。もちろん『師』で、ときには『友』で。そして――――……。
胸の中に灯っていた淡い灯火が、シホの切っ先を鈍らせる。
「……………!!!!」
思うようにならない武器を持て余していると、冷たく突き放すようにヴィルが呟いた。
「こんな腑抜けになるのなら、いっそ殺しておくべきだったな。お前の――親父たちと一緒に」
「っ……!!!」
怒りに、カッと目の奥が熱くなる。
「だったらどうして! どうしてそうしなかったの……!!」
あの日、あの夜、あの宮殿で。
両親と共に血の海に沈んでいれば、こんなに苦しむこともなかった。
両親の最期の顔が焼き付くことも、それを招いた自分が許せなくなることも、偽りの故郷で人として扱われず憤ることも、何一つなく――――こうして苦しむこともなかったのに。
けれどそんなシホの悲鳴のような願いにも、ヴィルは淡々と答えるだけだった。
「依頼だったからな」
「依、頼……?」
「皇帝夫妻は殺せ。だが、同室にいる皇女には手を出すな。逃がして死なないよう生き延びさせろ」
「な――――――」
だから、この男は自分を生かしたというのか。
情でも、憐憫でもなく、ただ依頼があった――――それだけで。
「オレとしては死なないようしっかり面倒を見てやったつもりだが……ま、やっこさん的には、契約満了まで無事ならそれでよかったんだろう」
「契……約……満了……?」
「お前が、自分の意思でオレから離れるまでだ」
ぞわり、と背筋に怖気が走る。
どこの誰が、そんなまるで自分の意思を中途半端に尊重するような、情を感じさせる依頼をするのか。
残酷な両親の殺害という依頼との対比に、目眩がくらりと訪れる。
「誰が、そんな…………」
聞きたくなかった。知りたくなかった。
大事にしてくれた使用人も、優しくしてくれた宮殿の者たちも。もう誰も、疑いたくも、嫌いにもなりたくなかった。
ヴィルは、そんなシホを見て口の端を吊り上げる。
「お前の――――――――兄貴だよ」




