第162話 封じられた記憶 4 ー皇帝ー
「陛下、大臣たちが謁見を希望しておりますが……」
侍従のもたらした報告に、神聖レムリア帝国皇帝は重い溜め息を吐き出した。
「……またか。午前にも会議はしただろう、それで十分だ。用件はまた明日の会議で申せと伝えておけ」
侍従ごと用件を部屋の外に下がらせると、皇帝は私室の長椅子に疲れたように座る。
(政務、政務と……うんざりだ)
そんなもの、私より詳しいお前たちで好きなようにやればいいだろうに。
皇帝は、重い溜め息と共に深く目を閉じる。
(どうせ誰も彼も、私のことを物知らずな皇帝だと思っている――……)
それが自身のただの妄想ではなく事実であることを、皇帝は知っていた。
代々レムリア帝国皇帝家には、夢見の力があった。
それは夢を介した神力の一種であるとされ、レムリア帝国の始祖となる女神の力を受け継いだものとされた。
女神の子孫が、その御業で国を導き繁栄をもたらす――。
そうしてこの国は、大陸一の帝国として君臨するまでになっていった。
そしてその力は、当代の皇帝にも例外なく受け継がれていて……。彼の場合――――それは、『夢の中で他人の心を読む力』だった。
(人間は多弁だな。夢の中だと。普段見せもしない腹の内をよく喋る――――)
皇帝の夢の中で、大臣は、臣下は、市民たちは、皆よくうるさいほどに喋っていた。
『まったく陛下は……。先々帝はもっと厳格なお方であられたというのに……』
『またこの説明をせよと仰るのか。治水に課税……わからないならわからないで、黙って『うむ』と頷いておけばよいのに』
『陛下、勉強熱心なことと何でも一人で理解されようとすることは違います。陛下にこうしてご説明する間も、我々はほかの政務を置き去りにして参っているのですから…』
現実でのにこやかな表向きの態度とは全く逆の声がこだまする。
『陛下、もっと我々を信用してくださっては――』
(……よく言う。お前たちとて、小ずるい不正を息をするようにしているくせに)
夢の啓示は、臣下である大臣たちの不正をも露わにした。
一つ一つは取るに足らない。
国政を揺るがすほどの大罪ではない。
しかし、皆が皆ほんの少しずつ、自身に利益が向くよう小さな不正を積み重ねていた。
国庫に入るべき税を密かにくすね、特定の商人に便宜を図り、帝都の司法役人と癒着し、女を買い、怪しい香を焚いては仮面を身につけたパーティーで興に耽る……。
大臣に、総督に、貴族院の議長たちに、中央の有力貴族に至るまで――。皇帝を支えるべき太い柱のどれもが、気づけば皆腐敗していた。
(どうせもう終わりなのだ、この国は)
自身が引き継いだときには、この国はすでに寿命を迎えていた。
逆臣により一度滅び、残った逆臣たちの子孫により再び興された幻の国。
すべてが彼らに都合の良いよう仕組み作られ、今更どのようにも変えられない。
どこかの腐った枝を打ち落とそうにも、その枝を落とせば、たちまち枝葉の先での政務が立ち行かなくなる。
貴族は背き、政務は滞り、結局のところ全ての皺寄せを被るのは市民たちだった。
(それならば、まだ何もしないほうがましだ……)
千年の歴史を誇る帝国も、大樹が天にそびえ立つまま枯れるように、今まさにゆっくりと滅びようとしていた。
「あら、陛下、もうお戻りになられていたのですね」
突如、涼やかな声が耳に流れ込み、皇帝はゆっくりと面を上げた。
「あぁ、皇妃か」
「どうなさったの……? お顔がお疲れのようだわ」
皇妃はそっと夫のもとまで歩み寄ると、その膝を折って夫の顔を覗き込む。
「大丈夫だ。また大臣たちと少し揉めただけだ」
「まぁ……」
「それより、あなたこそどうしたのだ。この時間は子供たちと庭園に行っていたはずだろう?」
「シルヴィアたちなら、使用人たちに任せてきましたわ」
「どうして?」
それは……と、妻は少しだけ言いにくそうに言葉を濁らせる。
「あなただけは……私に隠しごとをしないでくれ」
嘘がはびこる皇宮で、嘘偽りなく自分のことを愛してくれるのは彼女だけだった。
皇妃だけが、現実でも夢の中でも純粋に、夫のことを想い、心砕き、常にその心に寄り添いたいと願ってくれた。
皇帝が強く願い妻の手を取ると、彼女は観念したようにぽつりとこぼす。
「市民からの…………陳情を、陛下に伝えるようにと……聞いていました」
「……!!」
それは役人を介してだったというが、ついにただの一介の役人が妻を引き留めてまで、つまらぬことを彼女の耳に吹き込み始めたのだ。
税が重い。パンが少ない。賦役は嫌だ。道が荒れている。
そんなことはとうの昔に理解している。
陳情だって何度も聞いた。
けれどできることには限りがあるのだ。
限られた財の中でする以上、何かを立てれば別の何かが割を食う。
税を軽くすれば、道が荒れ。荷の運搬が滞れば麦が届かない。
賦役を渋り国境警備を怠れば、属州を多く抱える帝国は、隣国どころか各州の反乱を招き、それこそ血みどろの戦禍に戻りかねない。
どれも必要だから、必要な場所へ、皆が苦労して集めた税を配分しているというのに……!
なのに市民の声は止むことがない。
夢の中でも、現実でも。皆が自分の要求だけを、何度も、何度も、繰り返す。
それに心砕き疲弊していく者たちがいることなど知らないまま。
永遠にそれぞれの要求を繰り返し、叶わぬや否や、無能だと、人でなしの皇帝だと、怨嗟の声を渦巻かせる。
「…………すまなかった。今後あなたにはそのような話、二度と聞かせぬよう厳命しよう」
妻をそっと抱き締める。
あの酷く濁った汚い感情が、この美しい人の心を煩わせるのが許せなかった。
純粋で、清涼な、透き通るように美しい心を持つ妻だけが、皇帝の心の拠り所だった。
彼女の傍だけが、この皇宮において、唯一皇帝の心が安らげる癒やしの場所だった。
「あなた……」
妻は夫の胸に頭を預けると、ゆっくりと身体を起こし、今度は長椅子の隣に座り直す。
「せっかく今日は時間ができたのだもの。あなたにもゆっくり休んでいただきたいわ」
せめて、自分が隣にいる間は――。
本心からそう願い、ゆっくりと伸ばされる細い指に、皇帝は頬を擦り寄せる。
そうして愛しい妻の膝に寄りかかり、その膝の上でわずかにまどろむのだ。
愛おしい妻に髪を梳かれながら、ゆっくりと、ゆっくりと、安らぎしかない平和な空間へと落ちていく。
それだけが、皇帝の唯一の幸福だった。
けれど、そんな暮らしが、平穏が――――長く続くことはなかった。




