第153話 分岐点
先生の師、ヴィルが来てからというもの、先生は変わった。
生徒と話をしていても、二言目には
『ヴィルが~』
『ヴィルはね…』
と、彼の話ばかり。
生徒との接し方だってそうだ。
以前なら授業が終わったあとも、生徒に質問や相談はないかと聞いて回っていたが、最近では、それらがないと確認するな否や、そそくさと荷物をまとめて教室を出て行くようになった。
そうしてしばらくして学内でその姿を見かけると……必ずと言っていいほど、その隣にはヴィルという男がいて、面倒そうに先生をあしらっていた。
「………………」
そんな彼女――――シホの姿を見て、ミリウスは頭を振る。
わかっていたはずだ。
先生にだって師がいたことは。
何度も話に聞いていた。
彼に影響され、彼に受けた恩義や愛情を、自分たち生徒に、同じように返しているだけなのだと、何度も言っていた。
だから、これは当然のことで。
先生にだって、当然の権利で。
自分が彼女を慕うように、先生にだって恩師を慕う権利はあるはずだ。
ほかでもない、彼女に救われ、彼女によって未来を与えられた自分だからこそ、誰よりもわかるはずの感情。
なのに――『寂しい』、と。
自分がした告白すら、まるでなかったことになっているようで……ミリウスは胸元を握り締める。
まるで彼女の世界の中で、自分が無色透明になっていくようで――――堪らなかった。
*
「シホ」
呼びかけられて、シホは振り向く。
するとそこには、かつての遠い日々のように、師が――ヴィルが面倒くさそうに立っていた。
「お前が飯をおごるからって呼びつけたんだろうが。無視してんじゃねーぞ」
そうだった。つい昔の思い出に浸っていたために、意識が遠いところへ旅立っていた。
「でもヴィル、本当に驚くからね。ここの学食、すっごく美味しいんだから!」
自分が初めて食べて感動したあの味を、師匠にも味わってほしかった。
「あー……あのお上品な料理ねぇ……。ま、悪くはねぇけど」
「?」
あまり好みではないのだろうか?
「それよりもお前、やっぱあーいう上等な飯の味がわかんだな」
「……??」
「ま、いいや。せっかくだから案内しろよ」
「――うん!」
師匠は、ヴィルはいつも面倒くさそうで、やる気がなくて。
弟子の扱いも適当で、時には無茶な訓練もするけれど。
いつだってこうしてシホの他愛ない話や誘いに付き合ってくれた。
(それがどれだけ嬉しかったか……)
誰もいない。
友人も、両親も、祖父母はいても、それ以外にシホのことを人間として扱ってくれる人がいなかった環境で、ヴィルは――――シホにとって一筋の光のようなものだった。
話しかけて、遊んでくれて。
一人で生きるための術となる魔術を教えてくれて。
自分が生き延びるための――――人生を投げ出したくならないための全てをくれた。
かけがえのない恩人だ。
そんな師と再びこうして共に暮らせることが、シホは何よりも嬉しかった。
「そういや、あいつらの試験、もうすぐ終わるんだっけか」
「そうだね。あと二日もすれば…………」
アーミントン魔法学院の卒業試験。
数日に渡って行われる科目別のそれも、明後日にはすべてが終了する――。
そんなところまで、日々は過ぎていた。
「すごかったでしょ、うちの子たち」
「まぁな。特にアイツ――――なんつったけか。……ラスティン? あいつは伸びるだろうな。べらぼうに。まだ底が見えねぇ恐ろしさがある」
「でしょ?」
ふふふふふ、と胸を反らす。
自慢の生徒が褒められるのは、何よりもどんなことより、嬉しかった。
「それに――――」
「?」
「このオレ相手に手を抜いてやがったが…………あの王子も伸びるだろうな」
「ミリウスが?」
「ああいうのは爪を隠すタイプだ。用心深い。試験に合格できる水準を見極めているだけタチが悪い」
つまりは……全力を出さなかった、ということだろうか?
どうしてミリウスがそうしたのかはわからないけれど、きっと彼なりの理由があってしたことなのだろう。
「とりあえずみんなが合格できて晴れて卒業できれば、それで私は満足だよ」
シホは大きく伸びをする。
一人前になり、社会へと羽ばたいていく彼らを見送るのは寂しいけれど――――嬉しかった。
「卒業……ねぇ」
気だるく天を見上げた師に、シホは振り返る。
「そーいやお前、あいつらが卒業したらどーするつもりだ? まだここに残んのか」
「それは………………」
それは、ずっと考え続けていたことだった。
あの子たちがいなくなって、卒業して。
よく知る生徒たちがいなくなったそのあとに――――自分は、もう一度同じように次の生徒たちを愛せるだろうか、と。
(きっと……それはとても難しい)
どうしても、一番に浮かんでしまうのは、いまの生徒たちで。
何度でも、いまここにいる彼らと次の子たちを比べてしまって。
何にも代えがたいのが――――いまのあの子たちだから。
それはきっと…………次の生徒たちのためにもならないだろう。
「迷ってんのなら…………オレについてくるか?」
「え…………」
「オレもそろそろ別の国を回ろうかと思ってたところだ。ウィルテシアもリンデールも長かったしな。次は――――そうだな、ナディルかグレンシアあたりに行ってもいい」
「グレンシア…………」
グレンシアといえば、北方の雪国だ。
ウィルテシア王国からは船便も出ているが、冬の間は港さえも完全に凍りつく極寒の大地。
陸路も遥か遠く、容易には行き来の出来ない遠方の地。
リンデール公国の比ではない遠いところに、師匠は行こうとしている……。
「どうだ? お前もついてくるか?」
「それは…………」
自分でも、不思議だった。
数年前なら、一も二もなく頷いただろう誘いに、まったく心が揺れ動かなかったのだ。
もちろん不安はある。
このだらしのない師匠一人で大丈夫なのか、とか。
途中で野垂れ死ぬんじゃないの、とか。
でも同時に、この強い人ならどこでも生き抜いていくのだろう。自分と出会う前もきっとそうして生きてきたのだろうという確信もある。
ただ、寂しい、と。
そう思わなくなっていた自分に。自分で、自分のことなのに……驚いた。
「どうした――?」
「ちがっ、え……と。別にヴィルのことが嫌になったわけじゃないんだけど……」
どう伝えればいいのだろうか。
けして師匠のことが嫌いになったわけでもない。面倒になったわけでもない。
ただ、もっと離れるのが寂しい――――傍に居たい。
そう思う存在たちが……できてしまっただけで。
エメリーに、マリーベルに。
ラスティンに、ファビアンに。
その他のリースターの大事な生徒たち。
そして――――――…………。
脳裏に、目蓋の裏に浮かんだその姿に、どうしてか胸がキュッと締め付けられた。
『先生、あなたが好きです』
何度も、何度もかけられたその言葉。
それに、応えることはできなかったけれど。
それでも彼や――彼らの存在は、たしかに自分の中に深く息づいていた。
(本当は――――きっと離れるべきなのに)
遠くへ。ずっと遠くへ。
彼の手も、記憶も、未練も、届かなくなるくらい遠いところへ行って、彼の中から完全に消えてしまうのが、彼の――――ミリウスの幸せのためなのに。
なのに…………傍に居たい、と。
近くで彼が立派な王様になるのを見ていたい――と。
そんなことを望んでしまった自分に、シホは驚いた。
「実は次の春から、ウィルテシアの王立魔法研究院で働かないかって話があって…………」
ミリウスに、まだ肌寒いくらいのリンデール公国城でもらった話だった。
水晶の薔薇が咲き誇る庭園でかけられたその言葉。
いまならその時の彼の意図を正しく理解できる。
きっと、あの時から――――すでに彼は自分のことを想っていた。
(それには…………応えることはできないけれど)
でも、許されるなら、近くで見ていたい。
姿も、声も、風の便りさえも届かない遠い地よりも――――近くで、物陰からでいいから。
彼が――――ミリウスが、国中に愛される立派な王様になるのを――――そうして幸せそうに笑うのを、見ていたい。
それができないのは…………きっと。
きっと、すごく寂しい。
「なんだ、それならしゃーねぇな」
そう言ってシホを見下ろすヴィルは、感慨深そうに口の端を引き上げた。
「お前が選んだ人生だ。お前の道を行け」
大きな手の平が降ってきて、少し乱暴に髪を掻き混ぜる。
それが、たまらなく嬉しかった。




