第145話 マリーベルとエメリー 3
その日マリーベルは、ぼんやりと教室の窓を見上げていた。
高い空には鳥が羽ばたき、眼下には美しい庭園で花が咲き誇る。
――王立アーミントン魔法学院。
その名門たる学び舎の、初めて入った教室で、自らの席に着いて、何をするでもなく静かに空を見上げていた。
父の悲願で入学した学院。
勉学も、魔法学の修練も、すべてはこの日のためだった。
この日のためだけに、マリーベルは作り上げられていた。
(でも…………無駄よ、お父様。あの方はわたくしになんて見向きもしない――――)
初めて訪れた教室で、この日初めて目にしたこの国の王子――――ミリウス・ウィルテシア・ヴェルトリンガムは、マリーベルの初対面の挨拶に、型通りの『友好的な』挨拶を交わしただけだった。
そこにマリーベルへの興味や関心はない。
やがて芽となり育ちそうな、恋情や執着、その類いの種さえも、一切感じ取ることはできなかった。
(お父様の望むように殿下の心を射止めることなんて…………無理だわ)
だって自分は…………空っぽなのだから。
やりたいことも、やりたくないことも。
行きたい場所も、見たい夢も何もない。
ただ、父の命じることを淡々とこなし、
ただ、粛々と過ぎる日々を積み重ねてきた箱庭の中の人形――――それがマリーベルという人間だった。
そんなつまらない人間に、惹かれる者などいるはずがない。
「………………」
マリーベルは、これからどうすればいいのかわからなかった。
*
定刻になり、この学級の担任だという高齢の魔術師が姿を現すと、生徒たちは次々に自分の席へと着席した。
「それでは、皆には自己紹介でもしてもらおうかね」
長い白髭を撫でつけながら、その老魔術師は言った。
「それでは……そうだね、やはりきみからお願いしようか」
そうして指名されたミリウスは、淀みのない口ぶりで、王族らしくどこか気品さえ漂う自己紹介をする。
その姿は、清廉で、高潔で、王族でありながら臣下の者とも対等に接しようという彼の誠実な人柄が見えた。
けれどその本来なら好感を覚えるだろう人柄を見ても、マリーベルの心は動かなかった。
次々と、生徒たちの自己紹介が進んでいく。
侯爵子息、平民だという不貞腐れた無愛想な生徒。
様々な生徒の自己紹介が済んで――――その時が来た。
「初めまして! エメリー・バークリーです! バークリー子爵の三女で、将来は魔物退治のできる一流の魔術師を目指してます!!」
教室中に響くような声で、はきはきとその生徒は自己紹介をした。
「ほぅ、バークリー君は魔物退治がしたいのかね」
「うちの故郷は魔物が出る土地なので。父みたいに魔物を倒して、町の人を守れる魔術師になりたいんです!」
きらきらと、彼女は師となる魔術師に語っていた。
その姿は――――とても鮮烈で、鮮明で。
マリーベルの視界にずっと、ずっと焼きついていた。
*
「初めまして!って、さっき挨拶したよね……。マリーベルさん……だよね? いまお話ししてもいい?」
休み時間になると、その女子生徒――エメリー・バークリーは、マリーベルの席までやってきた。
「え、ええ……」
「やった! このクラス、女子が少ないでしょう? だからマリーベルさんと話してみたくて……」
それは新鮮な驚きだった。
自分と進んで話がしたい女子など、初めてだった。
「わたしエメリー。エメリー・バークリー!」
「わ、わたくしはマリーベルです。エメリーさんは……」
「エメリーでいいよ。その代わりマリーベルって呼んでいい?」
エメリーは嬉しそうに机に頬杖をつく。
「え、えぇ」
「じゃあマリーベル! マリーベルはどうしてこの学院に来たの??」
「え…………」
そこにはきらきらとした期待の眼差しがあった。
(きっと…………仲間を求めてらっしゃるんだわ……)
女子の身で、魔法学院の門を叩く者は多くない。
中・下級以下の貴族であれば、物好きや、家庭の事情でやむを得ない者が、女子ながら学院に入学していた。
「わたくし、は…………」
「うんうん」
「お父様に…………勧められて…………」
「!」
その言葉を告げたとき、初めて後悔が胸によぎった。
純粋に、家族の、町の人のためになろうと、高い志で学院の門を叩いた彼女。
それとは正反対に、どう言い訳しようと不純でしかない動機で入学した自分が、同じ教室にいることが酷く、酷く恥ずかしかった。
「なので……わたくし…………あまり魔術には……詳しくなくて…………」
消え入りそうな声でやっとそれだけ呟いたとき、エメリー・バークリーは破顔した。
「すごい! いいお父様じゃない!!」
「……?」
「だってお父様のほうから入学を勧めてくれたんでしょ? わたしなんて1年説得してやっと入れたのに――――」
興奮気味にエメリーは父を賞賛する。
「そ、そんなことは……」
「でもここで魔術を学べば、マリーベルも立派な魔術師だよ! 一人でどこでも好きなところで生きていけるじゃない!」
「…………ひとり、で……」
「ね! いいお父さんだよ!」
――絶対に、そんなことのために父は自分を入学させたわけではない。
けれど、初めて教えられたその『事実』に、マリーベルは戸惑った。
「わたしね、魔術師になりたいの! それで町を守って、町を豊かにして。ときどき旅行で好きなところに行って、たくさんいろんなものを見て――――毎日、たくさんやりたいことをして暮したいの!」
その姿は鮮烈で、鮮明で。
マリーベルの見たことない世界に駆け出してゆく、自由な後ろ姿が見えた。
遠い、遠い、後ろ姿。
暗い屋敷の中から、外の世界を望むしかなかった自分とは違う…………。
「だからわたしね、一緒に旅に行ける友達がほしいの! そのほうが絶対に楽しいと思うから!」
小さな手のひらが差し出される。
「だからマリーベルも一緒に行かない? 二人で見たことないものを見に行こうよ!!」
きらきらとまっすぐに輝く瞳。
それは春の日差しのようで。
あの暗く塗り潰された屋敷の窓から見える、眩い薔薇たちに似ていた。
暗い世界にぽかりと空いた光の園。
そこから、小さな手が差し伸ばされる。
マリーベルは、無意識にその手を取っていた。
「……! じゃあ決まり! いつか一緒に、二人で! 旅をしようね!」
目の前の快活な少女は、頬を紅潮させながら嬉しそうに語る。
そして、
「じゃあマリー! 今日からわたしたちは友達ね!!」
よろしく、と彼女は嬉しそうに繋いだ手の平を何度も振った。
その日からだ。
マリーベルの世界に光が満ち溢れたのは。
見るものすべてが新鮮で、美しくて。
他愛のない時間のすべてが愛おしい。
それらはすべて、たった一人の親友が運んできてくれたもの。
マリーベルの愛すべき、たった一人のかけがえのない大切な友人……。
だからマリーベルは祈る。
エメリー・バークリー、彼女が世界中の誰よりも幸せになることを。
そのためならば、惜しむものなど何もない。
ただ、彼女に溢れんばかりの幸福を。
世界一の幸せを。
この世で一番笑顔が似合うあの人に。
今日もそう、静かに祈り続ける。




