第143話 マリーベルとエメリー 1
「マリーベル!」
学院の廊下で、突然呼び止められた声に振り返るように、マリーベルは足を止めた。
「よかった……間に合ったな」
軽く駆けたのだろう。息を弾ませて近くに寄ってきたのは、ミリウス・ウィルテシア・ヴェルトリンガム――――。
マリーベルと教室を同じくするクラスメイトにして、この国の王子である彼だった。
「あら、どうしましたの?」
「先生が……探していた。次の授業の講堂は、東棟の第3講堂に変更になったそうだ」
「まぁ」
それを自分に伝えるために、息を切らして駆けてきてくれた――――。
多くの令嬢なら胸を打たれる場面だが、マリーベルは静かに感謝の意を込めて微笑んだだけだった。
「ありがとうございます。早速そちらに向かいますわ」
「ああ、そうしてくれ。それじゃあ俺は――」
「お待ちください」
「……?」
おそらく彼は、これからこのことを担任へと報告に向かうのだろう。
彼が自分のことを探すのも、駆けるのも、本当はすべて『彼女』のため――――。
そのことを、マリーベルは知っている。
「ミリウス様、ひとつお願いがあるのですが」
「? なんだ、藪から棒に」
「先生のことを、大切にしてくださいませ」
「……?」
「女性は、あなたの『物』ではありません」
「――――!」
それだけで聡い彼は気づいたのだろう。
自分が忠告したことが、何のことか理解して――。
「な、何か、勘違いをしていないか……??」
「わたくしは、たしかにお伝えいたしました。あの方に嫌われたくなければ、独占欲を示すのもほどほどにしたほうがよろしいかと」
「っ……!」
彼にしては珍しく動揺し、
「そ、それじゃあ確かに伝えたからな……!」
と言い残し去って行く後ろ姿は、首筋まで紅く染まっていた。
「………………」
マリーベルは静かにその姿を見送る。
すると、どこかから密やかな囁き声が耳に届いた。
「見て、ミリウス様とマリーベル嬢よ」
「ミリウス様、かっこいい……」
「もう、それは何度も聞いてるから。憧れるのは勝手だけど、意味はないでしょう」
「どうして?」
「だって見てみなさいよ。ミリウス様のクラスには、あのマリーベル嬢がいるのよ? あなたなんて敵いっこない――ほら、今だってああして会ってるじゃない」
そうして、彼女たちは指を差す。
「どう見てもあなたじゃ釣り合いが取れないの。大人しく静かに一人で憧れてなさい」
(………………)
周囲の視線が、自分たちに集中していたことは理解していた。
この学院ではそうだ。
多くの者が、王子ミリウスの恋人に選ばれるのなら――それは、マリーベルだと。
美男美女と謳われる二人を並べ、そうに違いないと噂する。
そんな外野の声を、マリーベルは静かに聞かなかったふりをする。
けして訪れることのない未来でも、そのほうが――――都合がいいから。
ミリウスに余計な令嬢が近寄らず、彼の本当の恋路を邪魔させず。
そして自分に近寄る異性すらも、その多くを遠ざけるのだから――……。
そして、
(何より、お父様もこのほうが満足でしょう――――?)
自分を、この学院に押し込んだその人の思惑を思い、マリーベルは静かに何も否定せず、廊下を進みゆくのだった――。
*
奇跡の令嬢――マリーベルは、王国中級貴族であるブラックフォード伯爵家に生まれた。
寡黙な父と、気弱だが美しい母、そして年の離れた静かな兄――――賑やかでこそなかったが、落ち着いた平穏な貴族の家庭に育った。
母は子供たちを愛したし、父も仕事で留守がちではあったが、家に戻れば母を大事にしていたように思う。
だからマリーベルは、母に似て大変美しい自慢の娘として、素直に育った。
マリーベルが7歳のとき、病弱だった母が亡くなった。
父は大層嘆き、その亡骸の前で崩れ、葬儀のあと一週間、母の寝室に篭もったという。
そして部屋から出てきたとき――――その瞳からは、完全に『愛情』というものが抜け落ちていた。
母がいなくなり唯一の日差しが消えた屋敷はどこか冷たく――――けれど使用人によりすべての事がなされる屋敷は、何一つ滞ることなく、淡々と、淡々と日々が続いていく。
父は母がいなくとも、マリーベルに一流の淑女教育を施した。
むしろ母がいたとき以上に教育に躍起になり、上級貴族の令嬢が招くような教師を呼んでは、娘に完璧な所作を身につけさせた。
そして、本来なら娘にではなく、男児に受けさせるべきだろう教育まで、あらゆる知性と教養を娘に注ぎ込もうとした。
次々と変わる教師に、教育内容。
それら全てを、マリーベルは淡々と、命じられるまま身につけた。
(それしか――できることがなかったから……)
父は、娘がほかの令嬢と交流することを禁じた。
『……意味がないことだ。どうせ奴らは邪魔にしかならん』
そう切り捨てる父にとって、彼女たちは将来の娘の競争相手にしか映っていなかった。
――――王妃の座を巡って争う、目障りな外敵。
だから父は、マリーベルを屋敷に閉じ込め、その中だけで過ごさせた。
窓から見える美しい庭園。その薔薇だけが、マリーベルの唯一心を癒やすものだった。
そして、マリーベルが14歳になったとき。
マリーベルは初めて『お披露目』として、父の知り合いのパーティーに出席することになった。
華やかな世界、美しい人々。
けれどその中にあってなお、マリーベルは輝いていた。
父は大層満足し、人々が麗しい令嬢がいると口々に囁くのを背に、馬車に乗った。
――これからも度々夜会には出席するように。
――ただし出る会は私が選ぶ。
父は、そう言ってマリーベルに夜会に出ることを命じた。
――ただし、夜会で話しかけてくる男はすべて無視をしろ。そうでなくとも、適当にあしらうだけで構わん。
――王宮にさえ、王宮にさえお前の存在が届けばいい――……。
父は、マリーベルを未来の王妃にしようとしていた。
なぜそこまで父が躍起になるのか、マリーベルはまだ理解していなかった。




