第138話 影
ミリウスたちが、傭兵の大男たち残党を倒して旧商館跡に駆けつけたとき――――。
そこには、首筋にナイフを突きつけられたエメリーと、その前に立ち尽くす無防備な姿の先生がいた。
先生は、いつもの外套を地面に捨て、よく見れば腰の短剣や、先生の命に等しい魔導書さえ、彼女から離れた地面に捨てていた。
(どういうことだ――――?)
中庭の様子が窺える商館の建物内――回廊の陰に隠れながら状況の把握に努める。
(あいつが先生を――――呼び出したのか)
彼女の唯一の弱点ともいえる、生徒を人質に利用して。
そうしてシホを呼び出して、どうしようというのか――……。
耳が慣れ、ようやく中庭の会話が聞き取れるようになったとき――――エメリーを人質に取った男はこう言った。
「ほら、どうした。脱いでみろよ」
(――――――!?)
男は顎で先生に何かを促している。
それに対してシホは――――やや沈黙して、ゆっくりと上着の裾に手をかけた。
ゆっくり……ゆっくりと…………時の流れが止まりかけているのかと錯覚するような時間をかけて、シホは、彼女の上半身を覆っていたセーターを脱ぎ捨てる。
ぱさり、と。音を立てて地面に落とされたセーターから視線を上げれば、そこには普段は目にすることなど決してない真白い背中と、惜しげもなく晒された、黒いレースに覆われた豊かな膨らみがあった。
「…………どう? これで満足?」
シホは淡々と、ただ犯人を睨みつける。
「ああ! 満足だ! こりゃあいい。やっぱり俺の目に狂いはなかった――! アンタで遊ぶのが、一層楽しみになったよ……!」
哄笑を上げる男を見据え、先生は微動だにしない。
「先生……!」
震える声で担任を呼ぶエメリーの声にも、
「大丈夫。……大丈夫よ」
そう、優しく返すだけだ。
(人質さえ――――いなければ…………!!)
そうすればこのような暴挙、起こさせるまでもなくあの男を斬り捨ててしまえるのに――。
級友が人質に取られているだけに、共に来たファビアンも、ラスティンも、身動きが取れずにいた。
「さァ、先生? その姿で跪いてくれよ。それで、俺と遊ぼうや――――」
「………………」
先生は、何も反応しない。
ただ、じっとエメリーと男を見据えて。
じっと、身動きひとつせず。
まるで――――何かその時を待つように――――……。
「チェックメイトよ」
「?」
「これで、あなたの負け――――」
先生は、下着の内側から一枚の紙片を取り出した。
紙片が、黒い炎へと変じ、先生の手の平から滴り落ちた。
それを男は――――黙って見ていた。
否、
「お前――……っ、なにを――――……ッ!?」
「どう? 動けないでしょう?」
煌々と光る紅い瞳で、高くそびえる商館の陰を背負いながら、先生は薄闇の中で、断罪を告げる天使のように男を見下ろしていた。
「影の鎖――――束縛魔法の一種よ」
夕刻の、低く沈む陽が長い影を差す黄昏時。
先生の足もとには、商館の建物から伸びた影と、周囲の教会の尖塔の影が、色濃く大地を塗り潰すように落ちていた。
「この魔法は、術者と被術者が影により結びついたとき――――初めて相手の動きを封じられる」
本来なら、先生の影など届きもしない距離にいる男。
その足もとには、不可思議な線で繋がれた影が、先生の足もとから続いていた。
はじめは、商館の影を伝い。
そして、教会の尖塔を辿り。
そして、本来なら繋がらないだろう影の切れ間に、不可思議な小さな黒い影を横たえて。
――――それは、六羽の鳥の影だった。
重なり合うように、尖塔の頂や、周囲の建物の縁に留まった黒いカラスが、奇跡的に影を継ぎ、男の足もとまで影を繋げていた。
「その子を、離しなさい」
先生が、最後の審判を告げるように腕を振る。
すると男の腕が、手に握ったナイフごと、何か人智を超えた力に引き摺られるように、エメリーから引き剥がされた。
「エメリー、おいで」
先生が優しく呼びかける。
呆けていたエメリーは、その声に弾かれたように転がり出て、つまずきながらもシホの胸に飛び込んだ。
「先生っ……! 先生…………っ!!!」
泣きじゃくる生徒を胸に抱き、そっと包み込むようにその背を撫でながら、
「怖い思いをさせて……ごめんね」
短く詫びる。
「でも、あともう少しで終わるから。後ろに下がって待っててくれる?」
促されるまま、少しだけ心細そうに、でも決して担任の邪魔はすまいと、エメリーはシホの胸を離れ彼女の背後――はるか後方へと引き下がる。
そうして生徒を安全な場所まで退避させ、シホは改めて男と向き合った。
影に縛られ、その腕を歪な向きへと捻じ曲げられようとしている男と。
ゴキリ、と何かが外れる音がする。
見れば先ほどまでナイフを握り締めていた男の腕が、だらりと地面に向かい垂れ下がっていた。
関節の外れた両腕。
もはや抵抗などできそうもないその男を、それでも先生は油断せずに睨めつける。
そして最後までナイフを握っていたその指を、またしても人外の強力な力で引き剥がしていった。
カラン、と乾いた音を立ててナイフが地に落ちる。
「これまでよ」
先生が、無力になった男に距離を詰める。
「あなたの身柄は、この街の衛兵たちに引き渡す――。そこで『正しい』裁きを受けなさい」
エメリーたちに手を出したこと、それを万死に値すると激昂していた先生にとっては、彼女なりの最大限の譲歩だったのだろう。
私刑ではなくきちんと筋を通し、すべての罪の責任をこの男に取らせる――。
その固い意志を実行するため、先生は男を拘束せんと、自身のベルトを引き抜き男に迫った。
「ハハッ……だせぇなぁ……。ほんっと、ダセぇ幕引きだよ」
「…………」
「最後にあんたのいい顔が見れると思ったのに」
男はシホと、その胸元に交互に視線を落とす。
そして、
「だからさぁ――――最後の最後くらい、いい顔で泣いてくれよ――――ッ!」
男は、自身の足で、自分の左腕を蹴り上げた。
だらりと、力を無くしていた左腕が宙に浮く。
そして、その腕に嵌められた奇妙な腕輪がキラリと光った――――。
「ッ――――!!!」
先生が、青い顔をしてエメリーを振り返る。
男の腕が指し示す射線軸。
その正面に立ち尽くすエメリーに手を伸ばして。
ミリウスたちも駆け出す。
しかしそれは、すべてが皆、遅すぎた。
先生が射線に割り込むことも。
回廊から飛び出した仲間たちが防御魔法を唱えることも。
すべてが間に合わない一瞬の出来事で、
奇妙な魔道具の腕輪から発射された衝撃波が、大砲のような唸りを上げてエメリーへと叩きつけられる。
「エメっ…………!!!」
先生の顔が、後悔と、悲しみと、怒りと、慟哭がないまぜになったものに変わったとき――――――それは、淡い光とともに、少女へと襲い来る衝撃波を弾き返した。
キン、と。澄み切った春の朝のような清涼さとともに、エメリーを包み込むように現れた障壁が、彼女に襲い来る悪意を跳ね返す。
「…………? ???」
誰もが、その現実を理解できなかったとき――。
「先生っ……!!!」
回廊の反対側。男の背側の屋内から、見慣れた金色の影が飛び出した。
「そいつを――――――倒してっ……!!!」
その声に弾かれたように、先生は軌道を翻し、今度はエメリーを完全に背に庇いながら男を急襲する。
そして、先生が男を倒し、完全にその動きを封じたとき。
その金色の影は、ようやく中庭の中心まで駆けつけた。
「……マリーベル……?」
美しい金髪を揺らす彼女は、駆けることなど得意ではないだろうに、全力で中庭を駆けると親友の胸に抱きついた。
「エメリー…………っ!!」
「マリー……!!!」
全力で抱き合う二人に、シホもまた、瞠目していた。
「あ……ミリウス。もしかして……一緒に来たの?」
――マリーベルと。
シホは暗に目でそう問うが、ミリウスには黙って首を振ることしかできなかった。
「マリーベル……あなた……」
「ごめんなさい、先生……。わたくし、何もできなくて……もっと早くエメリーを守っていれば……先生にこんな……」
マリーベルが語ったのは、彼女の長い一日だった。
昨日、エメリーと共に学院を抜け出したマリーベルは、エメリーが攫われる現場を目撃し、何とか助けようと試みた。
しかし相手は強く、とても自分の手に負える相手ではない。
下手に刺激した場合、自分だけではなくエメリーをも危険に晒す恐れがあったため、ほかの助けが来るまで、ひたすらずっとエメリーたちを隠れて追い続けていたらしい。
その際、エメリーと別れる直前にかけた追跡魔法と防御魔法を維持しながら――。
いまの今まで、ずっと物陰に気配を消しながらついてきていたのだ。
「ずっと、って…………この二日間? 一晩中???」
こくり、とマリーベルは控えめに頷く。
「それは…………」
なんという集中力だろうか。
もはや執念とも言っていい。
いくら不探知魔法が得意だとはいえ、一流の殺し屋に気づかれず、気配を消し、そして眠ることも食べることもせず、ただ魔法を維持し続けること――――それがどれほど困難極めることなのか、おそらく彼女は気づいていない。
ただ、いまは純粋に、心から友人の無事を祝っている。
「あなたたち…………」
シホは、彼女でも把握しきれていなかった生徒の成長に、眦を下げる。
そうして安堵にくしゃりと顔を崩しながら、ゆっくりと両腕を広げる。
その腕の中に飛びこんで来た、女子生徒二人を抱きしめながら、
「ありがとう。頑張ってくれて――――」
その背を、包み込むように何度も撫でる。
「あなたたちは――――最高の生徒よ」
こうして、短く長い、アーミントン旧市街の悪夢は終わった。




