第137話 ナイフと首筋
夕刻の迫る旧市街の空を見上げ、シホ・ランドールは息を詰める。
彼女の生徒――エメリーとマリーベルが行方をくらませてから約1日。
飲まず食わずで捕らえられていたとすれば――体力も、気力も、限界を迎えるころだろう。
(絶対に――――助けてみせる)
強い決意と共に、シホは手中の紙片を宙へと投げる。
それは空へと高く舞い上がって、黒い炎に変じ――――そして羽ばたき、6羽のカラスへと姿を変えた。
大きな羽音を立てて、6羽のカラスは散り散りの方向へと飛び立った。
うち一羽が、先導するように東の旧商館跡を目指して空を滑空する。
シホはその姿を確認すると、再び地上へと目を戻し、自分もまた、エメリーたちが囚われているという旧商館跡を目指すのだった。
*
旧商館跡。
それは旧市街の東に位置する、うらぶれた廃棄地区にあった。
遠い昔は街の中心部であっただろうそこは、時代の移り変わりと共に西へと移動した賑わいに取り残され、旧い時代の建物が、住人もおらず、ただ朽ちるにまかせ打ち棄てられていた。
旧教会の尖塔がならぶ街並みを進み、その商館跡の前で立ち止まる。
通りに面した3階建ての建物には、正門跡だろう大きな朽ちた木戸の跡があり、建物の奥へと続く暗い穴を覗かせていた。
シホは一歩足を踏み出す。
商館というものは、どこも同じ造りだ。
入り口から奥へと進むと、商人を迎える大広間があり、さらにその先へと歩を進めると、中庭に面した回廊へと突き当たる。
商館は、外部と内部を隔絶するように高い建物が四方を囲み、その中心に同郷の商人の憩いの場となる中庭が設けられるのが常だった。
明かりも届かぬかつての大広間を抜け、光の差す中庭へと足を踏み入れる。
(――――――――いた)
「やっとお出ましか。ずっと待ってたんだよ、せんせい?」
ニタリと、親しげな笑みを浮かべるその男。
この一連の事件の犯人ともいえる猟奇殺人犯の腕の中に――――見間違えるはずもない。
シホのかけがえのない生徒の一人、エメリーがいた。
「先、生…………」
涙を浮かべて唇を震わせるエメリーの喉元には、きらめくナイフが突きつけられていた。
(マリーベルの姿は……ない?)
シホは勘ぐるが、殺人犯の男は特に勿体ぶった様子を見せるわけでもない。
ただ、シホに対して人質のエメリーを、これでもかと見せつけていた。
「……あなたの目的は私でしょう。その子を離しなさい」
男は、くつくつと愉快そうに笑う。
「そーんなこと言って。そんな話、通るわけないって自分でもわかってるんでしょ? せーんせ」
にやにやと愉快そうに、男はエメリーの髪を梳く。
ひっ、と息を詰めるエメリーの顔は真っ青だ。
どれほど怖い思いをしたのか計り知れない。それだけでシホの胸は締め付けられるように痛んだ。
「その子を離してくれるなら、あなたの要求を呑むわ」
「そんなこと言って! 男の寝首を掻くのがあんたの得意技なんだろ? 俺もよぉ~く知ってるよ」
前回遭遇したときに仕留めきれなかったことがあだになった。男は警戒心を緩めるどころかさらに強める。
「あんたは無詠唱魔術師だ。その気になれば一瞬で俺たちを焼き殺せる――――」
「…………」
「そんな奴を前に、人質を手放せるわけないだろう?」
あんたが変な真似をすれば次の瞬間――――こいつを刺す。
そう言って、男はこれみよがしにエメリーの喉元に垂直に鋭利な刃物を突き立てる。
「やめて!!」
一瞬の何かの間違いで、その刃が彼女の喉を裂かないとも限らない。
シホは懇願するように叫んだ。
「ふ~ん…………、じゃあ俺の言うことに従ってよ。この子を助けたいんでしょ?」
「…………どうすればいいの」
「まずは…………その魔法書を捨ててもらおうか」
「!」
「あんたがその魔法書で、無詠唱魔術を使うってタネは割れてんだ。なら、そんな危なっかしいモノを持ってもらっちゃ困るだろう?」
「………………」
「ホラ、早く!」
男はエメリーの顎をナイフで掬い上げる。
「ひっ……!」
エメリーの大きな丸い瞳から、涙がこぼれ落ちた。
「やめてっ! ……わかった、わかったから……」
腰の留め具を外し、落下防止の鎖を解いた魔法書を、鎖ごと遥か後方へと投げ捨てる。
「これで……満足でしょ」
「まだだよ。まだあんたには武器が残ってる。――――全部捨てろよ」
シホが近接戦も得意とする魔術師であることは、嫌というほど見せつけた。
ナイフ一本で相手を圧倒できる実力があることも。
「……これでいい?」
腰に佩いたナイフを後方へと放り投げる。
「……全部、って言ったろ? どうせあんたみたいな奴は、服の内側にも武器を隠すタイプだ。その外套――それも捨てろよ」
内心舌打ちをする。
同類だからか、武器の隠し場所や、この後取るだろう行動が手に取るように読まれている。
「どうした? 捨てねぇの?」
「…………」
シホは黙って外套を脱ぐ。
そしてそれを離れた地面に放り投げた。
「ははっ、やっぱあんた、いい身体してんなァ……!」
男が舌なめずりをする。
外套を脱ぎ、身体のラインが露わになるタイトなセーター姿になった途端、男がその目を細く眇める。
「早くあんたのその胸に、『俺』の名前を刻みてぇ~」
「『俺』って…………あなた、誰なの?」
事件のたびに、異なる名前を刻まれ死んだ娼婦たち。
それがすべてこの男の名だというならば、一体この男は何なのか。
「俺? 俺はそぉ~だな~。何でも好きに呼んでいいよ。コディ、ニール、フラン、ジェフ…………みーんな、親父たちは好きな名前で呼んだ」
「……?」
「可愛いコディ、綺麗なニール。生意気なフランには躾が必要だってよくぶたれたっけ――!」
あはははは、と腹を抱えて男は嗤う。
「そうしてどいつもこいつも、愛してるよって言いながら捩じ込むんだ。殴って、刺して、愛してるって言いながら……!!!」
「………………そう」
そうしてきっと、この男は壊れたのだ。
愛がなんなのか、わからなくなるほどに。
「――――――でも、同情はしないわよ」
たとえどんな境遇に育とうと、他人を、シホの生徒たちを脅かした時点で憐れまれる権利を放棄したも同然だ。
……元より、そんなことをこの男が望んでいたとは思えないけれど。
「あぁ、同情なんかいらない。そんなもの腹の足しにもなりゃしない。…………それより、俺がいま欲しいのはアンタだ」
男の視線が、シホを射貫く。
「その上着……脱いでみろよ。脱いで、晒して、武器がないことを証明して――――この俺に、全力で縋ってみろよ!!!」
銀色の刃が、少女の白い首筋で光っていた。




