第129話 黒炎
「お嬢さん、こんばんは」
そう声を掛けると同時に背後から抱え込み、口を押さえ心臓に刃物を突き立てる。
それが男のいつものやり口だった。
もちろん刃は心臓には届かせない。衣服越しにその存在を示すだけだ。
だがこうしてチリリと冷たい痛みを与えて、鈍く月明かりを反射するナイフを見せれば、大抵の女はすぐにその身を強ばらせた。
硬直する身体を見下ろして、その豊かな身体の感触を確かめる。
垂直に心臓を目指して立てていたナイフの腹で乳房を押し上げると、ずしりとした重い感触が手に伝わった。
(あぁ、これはとても美味そうな身体だ)
この後の『楽しみ』に期待が高まって、男の口角は自然と吊り上がっていた。
「大きな声は出さないでね。じゃないと俺、きみのことを殺しちゃうから」
出さなくても、結局は殺してしまうのだけれど。
せっかく見つけた良い身体だ。存分に遊んでから綺麗に殺したい。
そおっと口元を押さえていた手を離す。
男は女の声が聞きたかった。なぜなら今夜、自分の下でその声を響かせてくれるのはこの女なのだから。
あの酒場で聞いた美しい声で、今夜は恐怖と哀願と錯乱に満ちた叫びを聞かせてくれるに違いない。
男は期待に満ちた眼差しで女の顔を覗き込んだ。
緩く巻いた黒髪に覆われた横顔がこちらを向く。
(どんな声を、どんな瞳を見せてくれるだろう……!)
真っ赤な、紅玉のような瞳がこちらを向く。
そして、
「こんばんは。とても素敵な、いい夜ね」
同時に男のナイフを掴む手に紫黒の炎が立ち上った。
*
その炎は、禍々しい色をしていた。
地獄の業火を思わせる黒炎に、ところどころ魔性の紫炎と紅蓮が入り交じった魔術的な炎。
「っ――――!」
男は直感的な判断で後方に跳び退り、今なお燃え続ける自身の左手を凝視した。
熱くはない。
もちろん、骨に染み入るような灼熱を感じるが、それでも皮膚の表面を焼くあの熱さはない。
焦げ臭さも、あの皮膚が収縮していく感覚も感じさせず消えてゆく炎に、男はこれがただの炎ではなく、魔術的な呪詛に近い何かであることを直感した。
「へぇ……お姉さん、魔術師なんだ。もしかして、俺を捕まえに来たあの衛兵たちの仲間かな?」
女はこちらに向き直り、正面からこちらを見据えれど、その表情を崩すことはない。
ただ先ほどこちらに微笑みかけたときと同じ微笑を、ずっと湛え続けるばかりだった。
「そうなんだ。でも並の魔術師なら……俺も会ったことがあるんだよね!!」
即座に、間髪置かず大地を蹴る。
そしてナイフで女の喉を狙った。
魔術師なら、その弱点は呪文詠唱のタイムラグだ。
一度何か魔法を発動してしまえば、必ず次の魔法を行使するまでに無防備な隙ができる。
自分を初撃で殺さなかったことを哀れに思いながら、男は女の喉にナイフを突き立てた。
「――な、ガッ……!!?」
しかし、女の白い喉に突き立てたと思ったナイフは次の瞬間、女のストールの内側から現れたダガーによって弾き飛ばされ、あろうことかスカートの内側から飛び出した鋭い膝蹴りが男の鳩尾にのめり込んだ。
「っ……!」
たたらを踏みながら2、3歩後退して、次いで飛んで来た女の蹴りを避けんとさらに跳び退る。
「なんだ……あんた、体術もいける口か」
口の端に漏れた唾液を拭い飛ばしながら、ゆっくりと体勢を立て直す。
見れば女はブーツを履いていた。
娼婦も仕事以外ではブーツをよく履くが、それでもこの女のものは、よく見ればただの女物のそれではなかった。
一見素朴な代物に見えて、強度や丈、靴底から爪先の造りに至るまで、戦闘することを念頭に作られた特別仕様の代物だ。
(魔術師なら自分の弱点を潰そうとすることは当然か……)
あまり出会ったことはなかったが、そんな魔術師がいてもおかしくはない。
だが、それならそれで、それを念頭に置いた対策をすればいいだけだ。
(どうせ同じ人間だろ? 息つく暇も与えなければ結局呪文は使えない――――!)
大地を蹴る。
ナイフを振るう。女に息つく暇も与えず刺突と打撃を加えれば、女は防戦一方になった。
(やれる――――この女を、やれる――――!)
長い手足、牝鹿のようによく跳ねる身体、鳥の尾羽のように靡く髪。
この美しい女を、大地に捩じ伏せたい。
捩じ伏せて、その中に自分を捩じ込みたい。
身体の内側から猛烈に沸き上がる情動のままに、女の急所を狙い続けた。
(ここだ――――)
愚かにも、変装時の姿のまま戦闘に及んだ女。
その長くたなびくストールの端をつかまえて、男はそれを引き寄せた。
(なァに夜は長いんだ――――死なないでくれよなぁッ……!)
体勢を崩した女の右脇腹に掌底を叩き込む。
急所に――――決して当たらないように。
瞬間、男の左手首から大砲のような破砕音が鳴り響いた。




