第128話 月夜の悪魔
その日の夜、シホ・ランドールは町に出た。
娼館の制服ではなく、休日に彼女たちがよく着るような控えめな私服にショールをまとって。
夜の旧市街を、どこかを目指して歩いて行く。
町の繁華街では、すでに何軒かはしごした後なのだろう。旅人風の男たちが上機嫌な顔で、ふらふらと新たな店に吸い込まれていった。
通りにまで届く料理の匂いが、日々と変わらぬ平穏がそこにはあることを感じさせる。
店から漏れる明かりを背に、シホは大通りの角を路地へと曲がった。
途端に、明かりも喧噪も失った、夜に塗り潰された暗い石畳が広がった。
冷え冷えとする温もりを感じさせない闇色の通路。
わずかに点在する遠い松明の灯りだけを頼りに、夜の合間を縫うように先へ進む。
時々振り返り、周囲の気配を窺って。
何かに気をつけながら足早に先を急ぐ娘のように――――……。
そして、何度目かの角を曲がったときだった。
「お嬢さん、こんばんは」
耳元に、吹き込むように囁かれる甘い声。
同時に何者かが、背後から口を塞ぎ、心臓にナイフを突き立てた。
*
男は、黒い髪の女が好きだった。
理由はない。
ただ気づいたときには自分の趣向がそういう女で、暇があればそういった女ばかり目で追うようになっていた。
拘りはほかにもある。
『顔のいい女』だ。
高望みはよくないことだとわかってはいるが、こればっかりは性分なので仕方がない。
女を買うときはなるべく顔のいい女を探したし、そういった女は、それなりにいい自分の顔も気に入って、色々とサービスをしてくれた。
そんなことを重ねるうちに、ある日、ふと疑問を覚えるようになった。
この行為に、意味はあるのだろうか――?と。
自分はそれなりに女のことが気に入って、その度に『愛している』と思いながら抱いていた。
女たちも自分の顔が気に入って、『大好きよ』とそれに応えてくれた。
ならばそれが本当か、確かめたくなるのが人の性というものだろう――――。
最初に、女の首を絞めてみた。
女は苦しそうに喘いだだけで、怒って『愛している』とは言ってくれなかった。
次に腕にナイフを刺してみた。
なに、ほんのちょっと掠めただけだ。別に腕が切り落とされるわけじゃない。
なのに女は怯えるばかりで、『助けて』とは言っても、『愛している』とは言ってくれなかった。
どんな女も初めは頬を撫でて愛を囁いてくれるのに、それが真実か確かめようとすると、誰も『愛している』とは言ってくれなかった。
嘘。みんな嘘ばかりだ。
愛しているから人は人に馬乗りになって相手を挿し、愛しているからそれを受け入れてくれるのではなかったのか。
自分の、何が駄目なのだろう?
自分は精一杯、相手のことを愛しているのに。
初めは好きだと言ってくれた。なら、初めはきっと間違っていない。
あぁ、そうか。きっとそうだったんだ。
問題は俺じゃなく、彼女たちの気持ちの問題で。
俺のほかに好きな男がいたから、だからきっと駄目だったんだ。
じゃあ俺がその男になってしまえば……問題ないよね?
その男に、その名前の男になるから――その男の名前で呼んでいいから――――だから。
きみの全部を、真実を。俺だけに見せてほしい――――。
そして男は、今日も『真実』を、女の『中』から探すのだ。
*
男は、その日も宵闇の中で女を探していた。
この街に来てから約1週間。
街に来てすぐ、女たちが皆美しいことに嬉しくなり、街娼を二人ほど殺したら、それきり街からは街娼たちが消えてしまった。
彼女たちは安くて、気持ちよくて、優しくて、とても好きだったのに……残念だ。
仕方がないので男は、街の店にも出向くようになった。
さすがに店で殺しはできない。
殺したいわけではないけれど、気持ちのいいことをした後にどうしても殺してしまう自分は、店で女を買うことができないのだ。
だから下見のような気分である店を訪れたのだけど――――そこで、宝物のような『女』を見つけた。
人気娼館『黒猫亭』。
その酒場で給仕として働く女の中に、長く美しい黒髪の女がいた。
艶やかな髪をくるりと巻いて、髪と同色でまとめられた制服と合わせれば、それはしなやかな一匹の猫のようだった。
目映い太陽のような笑顔。
整った顔立ち。
後ろ姿ひとつとっても健康的な、魅力に溢れる長い肢体。
(あぁ…………)
あの張り出した胸にナイフを突き立てて、あの太陽のような顔を恐怖で曇らせることができたなら――――。
それはなんと甘美でゾクゾクとすることだろう。
跪いた彼女が自分を見上げる様を想像して、男は膨れ上がるような激情を押し殺した。
可愛い。
可愛いなぁ。
あの子が自分のものになったら。自分だけのものになったら。
とても素晴らしい一日になるだろう。
彼女にしたいこと。させたいこと。自分の手が彼女の肌を這う感触を想像して、男はその日を待った。
そして、ついにその日は来た。
ひと気のない夜半に、どこかへと向かう彼女。
あぁ、今日も綺麗だ。
月明かりに照らされる彼女の横顔は、女神のようでさえある。
足音を消して、彼女のあとをぴたりとつけて。
そして。
「――――お嬢さん、こんばんは」
ついに彼女を腕に抱いた。




