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第112話 高嶺の花


 その夜、晩餐会からの帰り道。


 揺れる馬車の車内で、ミリウスは向かいの席で安らかな寝息を立てるシホの寝顔をじっと見つめていた。


 きっと過度の緊張から解放された影響もあるのだろう。晩餐会で口にしていたワインの影響もあるかもしれない。

 シホは馬車が走り出すなり、いくらも経たないうちに静かな寝息を立て始めた。

 その幸せそうな寝顔に、また、ミリウスの目尻も下がる。


 先生は、薄手の布一枚といっていいドレスの上に、ミリウスが貸した上着を羽織って眠っていた。

 その姿は、いつかどこかで彼女が友人の服に袖を通していたときとは違って、とても――――そう、とても気分がいい。


 頼りない姿の彼女が自分の服に守られている姿は、なんだかいまだけは手の届かない高嶺の花が、自分のものになったようで、すこぶる胸を満たす気分だった。



(――とりあえず彼女をウィルテシアに招く算段はついた)


 まだ仮の了承だが、シホから前向きな返答ももらった。

 すべては上手く回っている。


(問題は彼女の借金だが……。代わりに清算する……のは、きっと許さないのだろうな、あなたは)


 まだ長い睫毛を伏せたまま眠りの中にいる彼女を見る。


 きっと彼女は、理由のない支援など、頑として受け入れないのだろう。

 彼女の借金がどれほどの額かは知らないが、一介の市民が用意できる程度の大金など、ミリウスの立場であればたかが知れている。

 無理矢理にでも清算し、ランドール商会から彼女を奪ってきてもいいのだが、そうして自由になったとして、きっと彼女は喜ばないのだろう。


(なんとか先生が納得する方法を練らないとな……)


 できる。自分にはそれができるはずだ。

 日頃王宮での謀略を察知し潜り抜けてきた頭脳を駆使すれば、きっと容易いことのはずだった。


(だが、急がなければならないことも事実だ)


 片を付けるのならば、できれば年内、それも早い内に手を打たなければならない。

 万一彼女の気が変わってリンデールなどに戻られたら、それこそ全てが終わってしまう。


 ――商会での一幕を思い出す。


 彼女に迫り、彼女を貶め、彼女を手に入れようとシホに伸ばされた手。あのエヴァンのべたりと彼女に触れる手を見た瞬間……正直、あの手を切り落としたいと思ってしまった。


 自分の中に初めて見た、凶悪な感情。

 このようなことは、幼いころ母の復讐に囚われていたあのころ以来だった。

 誰か一人の異性のために、このような感情になることは今までなかった。


 彼女に触れる無作法な手、怖気の走る言葉。全てが目や耳に余り、その存在ごと消し飛ばしたいとさえ思った。


 彼女が、あの男と所帯を持つ? 結婚する? そしてあの男の子を孕み、家畜のように跡継ぎを生産するだけの女になる?


(……冗談じゃない)


 仄暗い感情が燃え上がり、地獄の業火となって噴出する。


(そんなこと、絶対に認められるはずがない)


 目の前にいる、こんなにも柔く脆い存在を前に、断固としてあんな男に渡してなるものかと炎が燃える。


「………………」


 しかし、同時に気づいてしまった。


 自分も、彼女に求めようとしていることは同じだということに。


 どんなに愛の言葉で繕っても、結局は――あの男と同じなのだ。


 自分を見てほしい。愛してほしい。

 そのすべてを愛させてほしくて、結ばれたくて。

 永遠に傍に居ることを誓い合って、そして自分を受け入れて――己の子供を産んでほしいのだ。

 王族である以上避けられないその問題に、自己嫌悪が走る。


 けれど、はっきり言えることもある。


(自分は絶対に……彼女を不幸にはしない)


 一瞬たりとも不幸だと思う隙もないほどの愛情を注ぐつもりだ。



 …………自覚はしていた。溺れるように恋をしていると。


 彼女しか見えない。彼女だけに心惹かれている。

 それが未来永劫、変わることはありそうにない。

 だから、どんな手を使ってでも――――彼女を手に入れたいと思ってしまう。


「…………」


 自分でも女々しいと思う。

 核心的な言葉を言えないから、けれど彼女が離れていく隙も残したくなくて。王都に誘う理由に友人たちを使った。

 そして彼女の同意を得る前にオーレリアに話をつけ、まるで蜘蛛が糸を張るように、外堀を埋めて彼女が逃げられないように仕向けた。

 ……なんとも浅ましい、執念深い自分。

 それだけ、自分は彼女を失いがたいのだ。


 どこか手の届かないところにゆくなど考えられない。

 ましてやほかの男の下など冷静ではいられない。

 どんな手段を使ってでも、どれだけ彼女を唆してでも。自分のもとにいてほしいと願ってしまう。


 浅ましい、欲深い自分。



(一度……この腕のなかに抱いてしまったから)


 抱き締めて、その温もりを知ってしまったから。

 手放せなくなった。

 水晶の薔薇の庭園で彼女を抱き留めたとき、思わず、その髪に口づけを落としていた。


(まだ俺のものでもなんでもないのに――……)


 彼女の意志を確認する前に、引き寄せられるようにキスをしていた。


 これは自分のものだ。絶対に他人には譲らない。

 許されるなら髪だけではなく、その頬に、唇に、そのもっと深いところに口づけて、彼女とひとつになりたいとさえ思ってしまう。

 彼女に触れるたび、どんどん欲深くなってしまう自分。


 この調子では、いつか彼女を押し潰しかねないのではないか。そんな恐怖さえ浮かぶほどの激しい恋情。

 彼女以外――――考えられない。



 自分の上着を着て無防備に寝息を立てる彼女に、優しい感情と、同時にこのまま彼女を組み敷きたい男としての本能がせめぎ合う。


(彼女を手に入れるためだろう……)


 そのためなら何だってする。

 自分さえ御しきって、騙しきってみせる。

 ただ、彼女といる未来のため――――。



 そのために、ミリウスはすべての計画を上手く運ぶことを誓うのだ。

 何も知らない彼女が、自分の手の中に落ちてきてくれる未来を夢見て。


 リンデールの高い峰に気高く咲く花。

 その凜とした姿に、焦がれ、夢を見、ずっと手を伸ばし続ける――――。





 花は何も知らずに美しく咲く。

 その身が、手折られるその瞬間まで。



 リンデールの夜の街を、一台の馬車が静かに駆けていった。






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