第八話 共に還る刻
第七章 鶏鳴の先へ
第八話 共に還る刻
薄曇りの空は、まだ陽の気配を掴みきれぬまま、冬の京を静かに包んでいた。
白鐘家の隠れ家──
奥座敷に、銀灰の着物がそっと敷かれている。布の中には、小さな白い影。
風音だった。
胸の上下は、かすかに、だが確かに動いている。
前足の一本は布の下で固く包帯に巻かれ、意識は未だ戻らぬが、呼吸は落ち着いていた。
傍らには、暁狐がいた。
黙って風音を見つめるその眼差しは、ただ祈りにも似て、静かだった。
──生きていてくれた。
それだけで、世界が繋がり直したように感じていた。
少年の細い指が、そっと風音の頭を撫でる。
「……おまえ、ほんとうに……どうしてあんな無茶を」
風音の耳がぴくりと動いた。
だが、まだ目は開かない。
「おまえには、そんな力なんてなかった。なのに、どうしてあんな……」
答えはない。
それでも、暁狐は知っていた。
風音が、あの場に立った理由を。
──守ろうとしたのだ。
自分という、まだ幼い子を。
(……まるで、親のように)
暁狐の指が、震えながら毛並みに触れる。
風音は家族だった。ただの相棒ではなく、ただの猫でもない。
あの日あの時、自分を生かすために、風音は命を懸けた。
そう、まるで──
母猫が、子を庇って熊へと立ち向かうように。
目を伏せた暁狐の肩が、わずかに揺れた。
「もう……おまえに、あんなことをさせたりしない」
そう呟いた声は、小さく、深い決意に満ちていた。
その瞬間──
「……ニャァ……」
かすかな声。
風音が、わずかに顔を上げた。
「……っ!」
暁狐は慌てて身を乗り出す。
「風音! 目を……開けろ、頼む、風音!」
声に応じるように、風音の片目がかすかに開いた。
金の瞳が、ぼやけたまま少年を映し、ひと声、喉を鳴らした。
──そこには、安堵も、微かな誇らしさもあった。
風音にとって、暁狐はずっと「守るべき子」であったのだ。
無二の友であり、そして、何よりも「我が子」のような存在として。
暁狐の瞳に、涙がにじんだ。
「……ありがとう。帰ってきてくれて……」
彼の膝に頭を預けるように、風音がそっと身体を寄せた。
あたたかな光が、まだ冷たい朝の空に滲み始めていた──。
その頃、決戦の場に残されていた清雅は、静かに辺りを見渡していた。
破れた衣、赤い血の跡、そして、黒く焦げた仮面の欠片。
かつて弟子と呼んだ影の男、水無瀬が消えたあの場で。
彼の手には、ひとつの黒い帯が握られていた。
あの者が纏っていた、赤黒き装束の残片。
「……おまえは、最期に何を見た?」
風に舞う仮面の欠片が、音もなく落ちた。
清雅の脳裏に浮かぶのは、まだ若き日の記憶だった。
剣の型を教え、言葉を与え、心を見ようとした日々。
だが──見誤った。
仮面を与え、問いを与え、ただ一方的に導こうとした。
(問いとは、与えるものではなかったな……)
あの夜を、忘れたことはない。
水無瀬が、迷いを抱え始めた瞬間を。
仮面の務めと、家族と──どちらを取るか。
あのとき、私は……彼を止めなかった。
(問いを与えた私が、問いから逃げた夜だった)
それが、すべてだった。
独り言のように呟くと、清雅は目を伏せた。
弟子はもういない。
だが、問いは残された。
その答えを、見つけるのは──
今はかけがえのない存在となった、あの少年なのだ。
空が、さらに白んでいく。
京の朝が、ようやく訪れようとしていた。
風音の容態が落ち着いたと判断されてから、忠晃の手によってあの仮面の破片が彼のもとへと戻されたのだ。
面の右半分は、焼け焦げていた。
左は、かろうじて形を残していたが、耳の片方は欠けている。
あれは、水無瀬のもの。
かつて清雅によって斬られ、再び暁狐の剣で砕かれた「影狐の面」。
手にするには、あまりにも重い遺物だった。
「……この面、どうするおつもりですか」
傍らにいた左近が、静かに問う。
隠れ家の庭は冬の陽をうっすらと浴びていたが、そこに咲く花はない。
暁狐は、答えなかった。
ただ面の欠片を手に取り、陽の下にかざす。
焦げた面の影が、彼の菅生に落ちる。
(問いは……残っている)
──なぜ自分は、生かされたのか。
なぜ、風音は身を投げてまで守ろうとしたのか。
なぜ、水無瀬はあの場で、仮面を砕かれることを許したのか。
すべては、問うことに意味があるのではない。
その問いに、答えようとする過程にこそ──生きるということがある。
(これは……水無瀬の問いでもあったのか)
「若宮」
忠晃が、柔らかく声をかけた。
「面は、いずれ埋葬いたしましょう。……あの者も、もう、帰る場所など持たぬ身でしょうから」
暁狐は、かすかに頷いた。
「帰る場所」──それは、水無瀬には与えられなかった言葉だ。
だが、自分は違う。
守る者がいた。守ってくれる者がいた。
そして、いま隣に眠っている風音も──帰る場所を知っていた。
「問いを斬ったわけではない……」
暁狐は、ぽつりと呟く。
「ただ、その問いを……背負って、生きるだけだ」
左近が、ふっと微笑んだ。
その横顔は、どこか誇らしげで、ほんの少しだけ寂しげでもあった。
「まこと、似てこられましたな。……あの御方に」
清雅。
彼がいつか言った。
『問いを持て。持ち続けよ。いつかその問いが、おまえを導く剣になる』
あの日の言葉が、今になって胸を貫いてくる。
暁狐はゆっくりと立ち上がる。
風音の眠る部屋を、そっと見やる。
「……戻るよ。俺の場所に」
その目には、確かな未来への光が宿っていた
問いを越えた先にあるものを、今度こそ、見据える覚悟を込めて──
その夜、白鐘清雅は再び暁狐のもとを訪れていた。
庭先の囲炉裏に、静かに火が揺れている。
風音はまだ眠ったままだ。浅く、けれど規則正しい呼吸は、確かに命の在処を示している。
暁狐は仮面の欠片を傍らに置いたまま、清雅の前に座した。
二人のあいだに、長い沈黙があった。
言葉では語り尽くせぬものを、それぞれが抱えていたからだ。
やがて、清雅が口を開く。
「……問いに、答えは出たか」
暁狐は首を振った。
「出てない。……でも、それでいいと思うようになった」
「うむ」
「ただ──その問いを持ち続けて、生きてゆく。……風音と一緒に」
そう言ったときの暁狐の声は、まだ幼さを残していたが、確かに大人への一歩を踏み出していた。
清雅は微笑む。
「それで、よい」
暁狐が問いを口にしたとき、それはすでに「かつての問い」ではなかった。
誰かに託された剣ではなく、自ら鍛えた剣。
自ら背負うと決めた宿命。
ふと、暁狐が問う。
「水無瀬は……あのとき、なぜ逃げなかったんだろう」
清雅は目を伏せ、わずかに言葉を選んだ。
「……あれは、己の問いと、仮面の問いを見誤った男だ。だが、最後の瞬間には……自らを越えたのだろう」
面を砕かれたことも、自爆のような最期も──すべて、水無瀬自身が選んだ答えだった。
「かつて、彼は拙者の弟子だった。……剣だけならば、おまえより遥かに冴えていた。だが、心を置き忘れた剣は、いずれ主を喰らう」
暁狐は、ゆっくりと仮面を見つめる。
問いなき剣。
問いなき面。
それがもたらしたものは、深い孤独と──死だった。
「私は……忘れない」
その声に、清雅はかすかに頷いた。
「さあ──そろそろ、帰ろうか」
「……うん」
──白鐘家・別邸。
庭の梅がほころび始めていた。花の香は仄かに甘く、風はもう、冬の鋭さを含んでいない。
この帰還がもっと早ければ──そう思わなかったと言えば嘘になる。
だが、風音の傷は深く、癒えるには時が要った。
また、京に残された多くの『問い』と『影』の後始末も、一朝一夕には済まぬものだった。
そうして過ぎた時の果てに、ようやく彼らは江戸へ戻ってきた。
かつて、少年が初めて仮面を着けたこの場所に──。
暁狐は縁側に腰を下ろし、庭を眺めていた。
その傍ら、片足を庇うように歩く風音が、彼の足元でくるりと身体を丸めた。
その小さな身体から、静かな安堵が伝わってくる。
「……ただいま、風音」
低くつぶやいた声に、猫は小さく鳴いた。
梅の花がふわりと揺れ、そのひとひらが彼の膝に落ちた。
春の光が、少年の素顔を照らしていた。
暁狐、十八歳春。




