↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
影越しの使い 仮面の問い  作者: 月城玉菜
第七章 鶏鳴の先へ

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

43/45

第七話 影を斬る剣

第七章 鶏鳴の先へ


第七話 影を斬る剣


 静かな朝だった。

 京の空に薄曇りが広がり、隠れ家にはまだ陽が差していなかった。だが、夜の帳はすでに後退し、鈍い光が遠く東の山々を滲ませている。


 暁狐《あぎと》は、縁側でじっと風の匂いを感じていた。

 その顔に、眠気の気配はない。いや、昨夜も眠らなかったのかもしれない。

 風が、違っていた。

 仄かに鉄と硫黄の混じる匂い──風の流れに、殺気が含まれている。


 足元で風音が身じろぎした。

 白い毛並みを揺らしながら、じっと主の横顔を見上げている。


「……来たか」


 暁狐は、呟くようにそう言った。


 風に紛れるように障子が揺れ、音もなく開いた。

 現れたのは清秋だった。白髪交じりの髷を整えた老の影は、どこか朝靄と一体となったように静かで、しかしその眼差しには張り詰めた何かが宿っていた。


「どうやら……お覚悟のようじゃな」


 暁狐はうなずいた。

 それだけで、十分だった。


 ゆっくりと面をつける。それは、六歳のあの日から幾度となく繰り返してきた行為。考えることもなく、指が覚えている。


 次いで、廊下の奥から足音が響き、左近と忠太が姿を見せる。

 左近は眉間に皺を寄せ目を伏せながら、小さな声を出した。


「若宮、社の奥で“あの者”を見たと──」


 暁狐はわずかに目を細めた。

 風の中に、問いの声が混じる気がする──それは外の気配ではなく、内にある何かを掘り返すような痛みだった。


「ありがとう。……左近、忠太、すまぬが少し時間をくれ」


「はっ」


 彼は立ち上がり、風音がそれに続く。


 しんとした朝靄のなか、空気が張りつめてゆく。


 文が示した社の方角へ、暁狐は風音とともに向かっていた。静かな朝の町を抜け、森の縁へと足を踏み入れると、吐く息が白く浮かんだ。冬が深まる。澄んだ空気に、遠くから鳥の鳴き声がかすかに響く。


 風音がふと、立ち止まる。

 耳をぴくりと動かした。


 (……気のせい、か)


 言い聞かせるように暁狐は歩みを再開する。彼の瞳には、今や迷いがない。


 霜を踏み、枝を避け、やがて森の奥へと分け入る道が現れる。その先にあるのは、かつて面に導かれた社──否、それよりさらに奥、誰にも知られぬ決戦の場。


 森の入口にさしかかった時、ひとつの気配が降りてきた。


 「……若宮!」


 駆け寄ってきたのは清秋だった。肩を上下させ、急いでここまで追ってきたのがわかる。


 「清秋殿、どうしましたか?」


 「左近と忠太が、この先、社のさらに奥……」


 暁狐は頷いた。やはり、仮面は彼を待っている。



「父上……清雅殿に伝えてくれ。『もう、終わる』と」


 暁狐は大きく息を吸う。


「『問いの先』に行く──そう言ってくれ」


 清秋は一瞬だけ目を見開いたが、何も言わず頷いた。その視線に、かつての少年の影はない。


 暁狐は仮面のまま、再び歩み出す。風音も、黙って彼の隣に立つ。


 凪いだ風が、木々の枝葉を揺らした。問うべき言葉は、すでに胸の内にある。


 踏みしめる大地の冷たさが、剣の勘を研ぎ澄ませる。


 すべてを終わらせるために──。



 森を抜けた先に、その場所はあった。

 そこは社の奥、誰にも踏み入られぬ禁足地。かつて何者かが斬られた形跡が、苔むした石畳の上に今も残っている。血の匂いはもう消えているというのに、空気のどこかに、鉄と刃の記憶だけが確かに残っていた。


 暁狐はそこに立つ一人の男を見た。


「……やはり、お前か」


 ゆらり、とその影が動く。


 黒と紅を混ぜたような忍装束、そして歪な面──あの『影狐《えいこ》の面』。片耳が欠け、割れ目を無理矢理継いだその姿は、かつて見た仮面とは似て非なる、異形の威圧を放っていた。


「来たか、若宮」


 面の奥から声が漏れる。低く、かすれ、しかしどこか嗤うような響きを孕んでいた。


「問いに導かれたか。あるいは──面にか?」


 仮面の奥から、水無瀬が低く問いかける。


「問いは、誰かに導かれるものじゃない。私は、自ら選んだ」


 ふっと仮面の奥で気配が揺れた。


「……面白いな」


 水無瀬がかすかに笑う。


「では、訊こう。公家や学者たちを刈ったのは──お前か?」


 暁狐の声が低くなる。


「ああ。あれは、『切り捨てられた影』からの贈り物だ。奴らは我を『模造品』と呼んだゆえな」


「捨てられた? ……誰に」


 水無瀬は仮面を外そうとはせず、ただ一歩、足を踏み出す。


「問いを掲げた者は、誰よりも先に我を見捨てた。だから、一番大切な者を刈ってやった。『不要になり、手綱を取れぬ影』など、奴等にとっては塵芥でしかないからな」


 暁狐は冷笑を浮かべた。


「ならば、なぜ戦う。問いに捨てられた者が、なぜ仮面をつける?」


「いいや、それも断ち切る……お前ごとな」


 その言葉に、暁狐の眉がかすかに動いた。


「答えを求めて戦う者が、答えを知らずに命じられる。それを『問い』とは呼ばない。お前は、問いを持っていない」


「……違うな」


 水無瀬の声が嗤う。


「勝手に問いを持たされた」


 風が吹いた。木々の枝が擦れ合い、戦慄のような音を立てる。


「それでも、お前は立っている。戦う理由があるはずだ」


 暁狐は、晨星《しんせい》の柄に手をかけた。


「この一振りで、問いの正体を見せてみろ、水無瀬」


 沈黙──一瞬の間に、風が止んだ。


 そして、水無瀬の手が動く。


 抜かれた刃は、黒き鞘から閃くように現れた。まるで妖気を孕んだような光を放ち、周囲の空気を軋ませる。


「──来いよ。答えなど要らぬ。問いに喰われればいい」


 次の瞬間、森が斬り裂かれた。

 水無瀬の剣が、音もなく振り下ろされる。



 剣が、風を裂いた。


 晨星の刃が閃き、水無瀬の漆黒の刃と激突する。その瞬間、周囲の木々が震えたかと思えば、鋭く乾いた音が広がる。


 暁狐は、一歩も引かぬまま、正面から剣をぶつけた。水無瀬の剣筋は速く、深く、迷いがない。かつて清雅が言っていた。


(……拙者の教えた中で、一番『剣』そのものに近かったのは、あいつだ)


 今、その言葉の意味が痛いほどにわかる。


 水無瀬の踏み込みは、ためらいがなかった。何の感情も揺らぎもない──ただ斬る。それだけを目的に、機械のように間合いを詰めてくる。


「……っ!」


 晨星が軋む。暁狐の右腕に痺れが走る。水無瀬の力は衰えているはずなのに、その一撃一撃に宿る『重み』が異質だった。魂の重量だ。問いに囚われ、答えを持たぬまま戦い続けてきた剣士の業。そのすべてが、今、剣に込められている。


 風が吹いた。

 朱葉が舞い、剣が交錯するたびに散る。


 石畳に、滴が落ちた。血。斬り結ぶ中、いつの間にか互いの衣が裂け、皮膚が裂けている。


 だが、痛みは感じなかった。

 痛みなど、とうに置いてきた。


「……若宮」


 水無瀬が呟いた。

 仮面の内側から覗く、傷に歪んだ口元が、わずかに吊り上がる。


「剣の意味は知っているか」


「……知っている者は、剣を振らない」


「ならばお前は──知らぬがゆえに、振る。問いの入口だ」


「違う」


 暁狐の目が鋭くなる。


「私は……『答えたい』から、剣を振る」


「答える……?」


 水無瀬の顔に、一瞬だけ人間の色が浮かんだ。


 ふたりの足が、一歩、踏み込んだ。


 交錯する。火花が散る。剣と剣の間に生まれる一閃の瞬間に、すべての言葉がかき消された。


 水無瀬の剣が、暁狐の右肩を掠める。

 晨星が、水無瀬の胸元を裂く。


 剣を握る手が震えても、止まれない。否、それはもはや『意志』ではなかった。


 仮面が求めた戦い──答えを持たぬ問いの末に残された、ただの刃。


 その中に身を置きながら、暁狐は叫んだ。


「……それでも、私はお前に斬られない! 問いに呑まれてたまるか!」


 水無瀬の動きが、一瞬だけ止まった。

 その隙を逃さず、暁狐の刃が横薙ぎに閃く。


 しかし──


 水無瀬は、微笑んだ。


「ならば、我が『問い』のすべてを見せてやろう」


 狂気にも似た気迫が、水無瀬から溢れ出した。

 その剣が、容赦なく振り下ろされる。


 刃だけが鳴いた──問いが命に変わる、その刹那。

 水無瀬の剣が、唸るように振り下ろされる。

 それは、もはや型ではなかった。理すら捨てた、執念の一太刀。夜気が揺らぎ、朱葉が渦を巻く。暁狐は晨星を構え直そうとした──だが、遅れた。


「──くっ……!」


 土を踏み損ね、足がもつれる。


 水無瀬の剣が肩口を斬り裂いた。布が裂け、血が飛ぶ。痛みは鋭く、思考を一瞬白く染めた。後退しようとする身体が、石畳に膝をつく。


(……立て)


 自分の心が命じる。だが、膝が笑った。足元に力が入らない。


 風が止む。


 呼吸が浅くなる。


 水無瀬が、ゆらりと歩を進めていた。


「……これで終わらせてやろう」


 低い声が、夜を割る。


 面の奥、その片目が妖しく煌めいている。仮面の歪みから覗く、かつての顔はもう見えない。そこにあるのは、『問いに呑まれた者』の終点──


 水無瀬の剣が、真っ直ぐに振りかぶられる。


 とどめ。


 避けられぬ死。


 暁狐は剣を構えようとしたが、腕が上がらなかった。


(……終わる? ここで……)


 そんな思いが脳裏を過ぎった瞬間──


 音もなく、白い影が走った。


 次の瞬間、風が裂け、水無瀬の背中に何かが飛びつく。


 それは──風音だった。


「────!」


 純白の身体が水無瀬の背を駆け上がり、爪が頭皮を裂く。風音の牙が鋭く閃き、首筋へと食い込んだ。頭皮は弾け、裂け目から血が滲む。一度は首筋に牙を立てたが、喉元を狙い噛み直す。首を振り肉を噛みちぎろうとする。


 水無瀬が苦悶の声をあげた。


「……がっ……!」


 だが、風音の攻撃は決して致命ではない。


 水無瀬は呻きながら、力任せに風音の体を引き剥がし、高く放り投げた。爪が皮膚を裂き、牙が肉を引き裂く──だが、水無瀬は意に介さぬ。



 風音は体を捻り、足から着地しようとしている。

 その時、水無瀬の黒刃が白い獣を切り裂いた。

 風音の身体が舞い落ち、石畳を赤く染めた。


「風音──!!」


 暁狐の絶叫が、森を震わせた。


 静寂が満ちた。


 風音の細い体が、不自然な角度で折れ曲がっていた。

 白い毛が赤く染まり、小さな身体は動かない。


「………………っ」


 何かが、暁狐の胸の奥で、砕けた。

 全身の動きが止まった。


 次の瞬間──


 面が、砕け散った。


 ぱきん──という高い音と共に、割れた破片が宙を舞う。光を反射して、きらきらと夜空へと弾けた。


 暁狐は残った紐を煩わしそうに投げ捨てる。

 素顔をさらした暁狐の瞳が、水無瀬を捉えていた。


 静かだった。だがその内に宿る炎は、風音の血よりも赤く、烈しかった。


 水無瀬が身を震わせる。


「……そうか。仮面は、壊れたか」


 彼の声はどこか満足げだった。だがその声を、暁狐は切り裂いた。


「問いなど──くれてやる」


 その一言に、感情が乗る。

 怒りと哀しみ、憤りと決意。すべてを含んだ声が、夜を裂いた。


 瞬間、晨星が閃いた。


 水無瀬も応じる。だが、それはもう戦いではなかった。問いを拒んだ者を、斬り伏せんとする者の圧倒的な力の奔流であった。


 刃と刃が交差する。


 一合。


 二合。


 三合──


 暁狐の剣が、水無瀬の仮面を真正面から裂いた。


 ぱりん。


 破片が空に舞い、光を弾いて消える。


 露わになった水無瀬の素顔は、もはや人のものではなかった。

 仮面と共にあった年月が、彼を蝕んでいた。醜く爛れた皮膚、潰れた片目、裂けた口元──問いに呑まれた末路が、そこにあった。


 だが、水無瀬は柔らかく微笑んでいる。


「俺は……何故、生まれたのか」


 その問いを、空に投げた。

 誰にも、何にも届かぬ問い。


 刹那──水無瀬の身体が、光を放った。


 光が散り、風だけが残り、後には何もなかった。


 ──静寂。


 血の匂い。

 朱に染まった白。


 その場に倒れていた風音の姿が、暁狐の目に焼きつく。


「……風音……っ!」


 剣を落とし、駆け寄る。膝をつき、その小さな体をそっと抱き上げる。

 白い毛並みは赤く、鮮血に濡れ、震えている。

 その左前足は深く裂かれ、だらんとぶら下がっている。


 呼吸はある。だが弱い。


 それでも──風音は、目を開けた。


 金の瞳が、揺らめく。


「よく……守ってくれたな……」


 暁狐の声は震えていた。怒りも、悲しみも、悔しさも──すべてが胸を灼いていた。


 風音は、微かに尻尾を動かす。

 まるで「大丈夫だ」とでも言うように。


 暁狐は、震える指でその額を撫でた。


「もう、無理はするな……私が、もう……全部終わらせた」


 抱き締めたその体に、微かな鼓動を感じる。


──生きている。それだけでいい。


 誰に向けた言葉でもない。そう言い聞かせなければ、己の心が砕けてしまいそうだ。


 この場に、もはや斬るべき敵はない。残るのは、焼けただれた仮面の破片だけ。


 風が止んだ。異様な静寂が辺りを包み、森の気配がようやく戻ってきたようだった。



 決して振り返らず、仮面の残骸を背に──森を抜けて駆け出した。

 問いの終わりを越え、『生きる』ことに向き合うために。



 暁狐、十八歳厳冬。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。