第六話 真実の影
第七章 鶏鳴の先へ
第六話 真実の影
戸の向こうに人の気配がしたとき、風音がいち早く耳を動かした。
白い猫が障子の前にちょこんと座ったときには、すでに暁狐も立ち上がっていた。障子の外から、落ち着いた男の声がする。
「……失礼するよ。久しいな、若宮」
開かれた戸の向こうに現れたのは、白髪まじりの髭を整えた年配の男──清秋だった。
風音が鳴きもせず、まっすぐ清秋のもとへと歩み寄る。撫でられるのを当然のように受け入れた様子からすれば、旧知の間柄らしい。
「風音……久しぶりだな。元気そうで何より」
しゃがみ込んだ清秋が、優しくその背を撫でる。白い毛が光に揺れ、猫はその手にすっかり身を委ねた。
暁狐は何も言わず、ただその様子を見つめていた。
懐かしさ。戸惑い。そして、言葉にできぬ安堵。
清秋が顔を上げると、彼の背後からもうひとつの影が現れた。懐かしきあの声が、ふと静かに落ちる。
「──待たせたな」
声を聞いた瞬間、暁狐の胸の奥が緩んだ。
そこにいたのは、白鐘清雅。
変わらぬ顔。少し痩せたかもしれぬが、佇まいは以前と同じだった。彼の瞳が、仮面をつけたままの暁狐を真正面から見据える。
暁狐は言葉を失っていた。口を開こうとして、うまく言葉が出てこない。
その姿を見た清雅が、ふっと片眉を上げる。
「面をつけたままで、抱きしめろというのか?」
その一言に、暁狐は小さく吹き出した。
そして、そっと仮面を外す。
ようやく見えたその素顔に、清雅は何も言わなかった。ただ一歩、近づく。
次の瞬間、暁狐の肩が揺れた。ぐっと顔を上げたまま、ただ立ち尽くしていたその身を、清雅が迷いなく抱きしめる。
「大きくなったな。無事で、よかった……」
ほとんど聞き取れぬほどの低さ。
暁狐はようやく、その腕の中で息を吐いた。
張り詰めていたものが、ふっと解けた気がした。声も出ず、涙も出ず、ただ静かに目を閉じる。
背中に感じる温もりは、昔と同じだった。
清雅が、少しだけ彼の肩を離す。
「よく、ここまで来たな」
それだけを言うと、静かに縁側に座る。清秋もそれに倣い、傍らに風音を抱いて腰を下ろす。
仮面と刀を脇に置き、暁狐もようやくその隣に座った。
庭には冷たい風が通る。冬の匂いを含んだ空気が、ゆっくりと吹き抜けた。
その沈黙の中で、誰も言葉を発さなかった。だが、それでも満ちていた。
この夜が、嵐の前の最後の静けさであることを──皆、どこかで知っていたのだ。
小さな囲炉裏に火が入れられ、ふたつの湯呑みから、ふわりと湯気が立ちのぼる。
火の気が戻ったことで、寒気を含んでいた隠れ家の空気は、ようやく落ち着きを取り戻していた。
その囲炉裏のそばで、暁狐と清雅は向かい合って座っていた。
清秋は一歩引いた位置で背を預けるように壁に寄り、ふたりの様子を静かに見守っている。
「……この子が昔、我が膝の上で初めて眠ったときも、風はこうして静かだった」
柔らかな雰囲気を浮かべていた清雅はすっと座り直し、表情を引き締めた。
「……桂香のことを、どこまで知っている」
口火を切ったのは清雅だった。
その声に、暁狐は微かに頷いた。だが、その瞳に宿る光は揺れている。
「母が、名を変えて生きていたこと。……そして、父を毒で殺したとされていること。ただそれが、すべてかどうか……私はまだ、確信を持てていない」
その言葉に、清雅は目を細めると、ひとつ息を吐いた。
「そうか……。ならば、お前には真実を知る責がある」
火がぱち、と爆ぜる音に重なるように、静かに語りが始まる。
「桂香は──京の貧しい公家の娘だった。生まれは低いが才気があり、男のように育てられた。剣の才も、目を見張るものがあった。……ある日、私のもとへ現れたのだ。女子でありながら、剣を習いたいと願ってな」
暁狐の目がわずかに見開かれる。
「それが……母?」
「そうだ。私は、彼女の気魄と、強さの裏に潜む優しさに惹かれた。だが……彼女は、私に剣を学んだのち、突如姿を消した。そして数年後、私は知った。桂香が、『南朝派』の養女となり、女御として帝に仕える身となっていたことを」
そこには、誇りでも懐かしさでもない。
ただ深い疲労と、ほろ苦い思いが込められていた。
「桂香は、己の意志だけで女御になったのではない。養家の意図、そして南朝の動きのなかで……彼女は、巻き込まれていったのだ」
暁狐は、火を見つめたまま、何も言わない。
けれど、その指先が小さく震えていた。
焚べられた薪がぱち、と小さく音が跳ねた。
仄かに温もりのある空間で、清雅の声は、湧き出す湯のように静かに響いた。
「……お前がここまで生き延びたのは、運ではない」
そう言って、清雅は膝の上で両手を組み、低く深い息を吐いた。
それは、自身の記憶の底に潜る前の、静かな決意のようでもあった。
「かつて、お前の母君──桂香から、あることを告げられた。『まもなく襲撃がある』と。お前の命が狙われている、と。だからこそ、剣の師である私に『お前を託す』と、そう言い残してあの屋敷に移った」
暁狐がゆっくりと顔を上げる。仮面の奥の瞳に、微かな波紋が揺れた。
「『死を装う』とは聞いていた。だが、まさか……あれほど冷酷な手を使うとは、思わなかったのだ」
清雅の声に、僅かな怒りが滲んだ。
「桂香は、己の身代わりとして、名も知らぬ若い女と子どもを用意していた。しかも……二人とも、毒を盛られていたと後に知った。死体に細工を施し、あたかも己とお前であるかのように見せかけ、命を絶ったうえで屋敷に火を放った」
その言葉のひとつひとつが、囲炉裏の残り火のように胸に焼きついていく。
暁狐はただ黙って、火の揺らぎを見つめていた。表情はない。だが、張り詰めた沈黙は、心の奥底が静かに震えている証だった。
「……お前の身を案じ、託したという言葉が、偽りだったとは思わぬ。だがあのやり方を、私は……」
清雅は言葉を切り、目を伏せた。
「私は、お前の母を、そのとき、心の中で斬った」
刃のような一言だった。だが、その刃は他者に向けたものではない。
長年、己の中で揺れ続けた信義と情の板ばさみを、ようやく言葉にしたのだ。
「それでも──お前だけは、守ると決めた。母を斬り捨てる代わりに、託された命は、私が背負う。そう決めて……お前を連れ、京から逃れた」
沈黙が落ちた。
どちらも、すぐには言葉を返さなかった。いや、返せなかった。
暁狐は、火の残る囲炉裏に手をかざすように、そっと小さな声で言った。
「……あのときの父上の顔、覚えているよ」
そう言って、ゆっくりと目を細めた。
「私を背負いながら、誰よりも悔しそうだった。あの夜、私が見たのは……父上の決意だった」
清雅が、息をのんだ。
その言葉は、何よりも深く、清雅の心を打った。
憎しみでも、否定でもない。ただ、己が見たものを、静かに受け止めていた。
だからこそ、清雅は言った。
「……あのときのお前の目に、そう映っていたのなら……私は、救われる」
仮面越しに交わされた、父と子の記憶。
それは、決して声高に語られることのない、静かな誓いの交錯だった。
清秋が障子を閉めたことで、囲炉裏を囲む三人の間に、再び深い静けさが流れた。
ぱち、ぱち──。薪が崩れ、火の粉が小さく弾ける。
暁狐は仮面を外しており、囲炉裏の灯に照らされたその横顔には、ようやく少年らしい柔らかさが戻っていた。だが、瞳の奥にはまだ、一線を越えられぬ距離がある。清雅もまた、それを崩そうとはせず、ただ静かに湯呑を口に運ぶ。
「……ここは静かで、よいな」
そう言ったのは清秋であった。
火に炙られた手を膝の上で組みながら、彼はふと目を細め、天井の梁を見上げる。
「まるで、嵐の後の山寺のようだ。命が守られている、という匂いがする」
暁狐は返事をせず、ただその言葉の余韻を、炎の揺らぎと共に味わっていた。
「……風音も、ここなら安心できるのでしょうか」
低く、静かな声だった。
それは、問いというより、呟きに近い。
清秋は微笑み、囲炉裏の向こう側、畳の上で身を丸める白猫を見やる。
「風の気配が柔らかい。あの子も感じているのだろうよ。お主のそばが、一番落ち着けると」
暁狐は風音に目を向ける。白い毛並みに薄く火の色が差しており、ゆっくりとした寝息が微かに揺れていた。
……守りたいものが、増えていく。
それがどれほど脆く、儚くとも──今はまだ、手を離したくなかった。
そのまま時間が流れた。
誰も言葉を発さず、ただ火の音と、遠くの風の気配だけが、音として存在していた。
「お前は、いつの間にか誰の背中にも隠れずに立てるようになったな」
やがて、清雅がそっと湯呑を置く。
「暁狐。……いや、若宮」
清雅の声に、暁狐がゆるりと顔を上げた。
言葉を切った清雅の顔には、沈黙の決意が浮かんでいた。
暁狐は小さく息を吸い、その視線をまっすぐに向ける。
かつての師が何を背負い、何を遺そうとしているのかを見ようとするように。
「……私が問いたいのは、あの女の真意ではない。今、此処にいる『若宮』が、何を思い、何を選ぶのか──それだけだ」
低く、しかし確かな響きで清雅が言う。
「お前は生き延びた。ただの偶然ではない。誰かが命を懸け、誰かが手を汚し、誰かが罪を引き受け……その上で『お前』が残ったのだ。ならば、ただ血筋や過去をなぞるのではなく……その命で何を成すかを決めろ」
暁狐の胸に、熱のようなものがじわりと広がっていった。
手のひらが汗ばんでいる。何かに震えているわけではない。ただ、その問いは、あまりにも重く、真っ直ぐだった。
「問いを持て。過去をなぞるな。誰が正しかったか、誰が悪だったかを裁くな。それを超えて、“己の問い”を見つけろ。……そのために、私はお前を生かした」
静かな部屋の中で、障子の向こうの風の音だけがさざめいていた。
「──『会ってこい』。あの女は、まだ生きている。今は、ある屋敷に身を寄せているが……行けば、会えるはずだ。問いがあるなら、自らの足で、その答えを聞いてこい。私の口から伝えるべきものではない」
暁狐は膝の上で指を組み、その手に、ゆっくりと力を込めた。
黙って仮面をつける。手が紐を固く縛る。仮面の奥で、瞳が細く光る。
「……わかりました」
小さく、それでも明確な声が、空気を震わせた。
風音が障子の隙間から顔を出し、小さく鳴いた。
それに応えるように、暁狐は声をかけた。
「風音。行こう」
そう呟いた瞬間──
外の空気がわずかに張り詰めた。
何かが……動いた。
(──来るか)
暁狐の目が細められる。
──『剣』の問いへの答えを得ることができるのか。
暁狐、十八歳厳冬。




