第五話 問いを斬る者
第七章 鶏鳴の先へ
第五話 問いを斬る者
京の外れ、かつては名のある家があったという廃屋の裏手。瓦は崩れ、庭の池には泥が溜まり、倒れた木柵には苔が絡みついている。
その裏手に、水無瀬の姿があった。
赤黒い装束のまま、木々の陰に身を潜めるように佇んでいる。片手は仮面にかかり、もう片方は、脇差の柄にそっと触れていた。
京の空はまだ夜の深みの中にある。だが、東の空は、うっすらと色を変え始めていた。
(……動きがない、か)
風は冷たい。だが、それ以上に、胸の内側から湧き上がる焦燥が、彼の呼吸を乱していた。
面は──割れたままだ。あの男に斬られた痕跡は、修復してもなお醜く残っている。
それでも尚、彼はそれを手放せなかった。
あの面こそが、自らの存在意義だったからだ。
だが。
昨日の文も、あの社も、若宮と名乗った少年の姿も──どれも、己の知らぬところで進み、終わっていた。
「…………」
彼は答えに近づいた気がした。だが、それは風のように、言葉にならぬまま消えていく。
ぎり、と奥歯を噛む。
何が起きているのか。自分はまだ、必要とされているのか。
あるいは、もう──。
そのときだった。
風が止まったかのような静寂。
草が、僅かに音を立てた。
気配を感じた瞬間、水無瀬は跳ねるように身を引くと、同時に、脇差を抜き放つ。
そして、すぐに──空気を切り裂く音。
鋭い一閃が、水無瀬の肩をかすめた。
「っ……!」
布が裂け、血が滲む。
暗がりの中、現れたのは、漆黒の装束を纏った一人の刺客だった。顔は覆面で隠され、足音すらほとんど出さない。
言葉はない。ただ、殺すためだけに刃を振るってくる。
水無瀬は後退しつつ、二太刀、三太刀と受け流す。
鋭い──それも、迷いのない殺意が籠っている。
(……ああ、そうか)
ようやく、理解が追いついた。
切り捨てられたのだ。
もう、自分は──『枷』にすぎぬのだ。
(……あの夜を、忘れたことはない)
あの男が、迷うのを始めて見た。
仮面の務めと、家族と──どちらを取るか。
……そして、私を止めなかった。
(問いを与えた者が、問いから逃げた夜だった)
それがすべてだった。
ならば、笑えばよかった。
だが、水無瀬の唇は冷たく閉じられていた。
笑う気力も、残っていないのかもしれなかった。
「────っ!」
刺客の刃が、仮面の頬を裂いた。
仮面が僅かに揺れる。水無瀬は地を蹴って下がる。右袖の中から、掌大の煙玉を取り出した。
それは、かつて仕込みに使ったものの一つ。どこぞ忍び崩れから盗んだ技術だった。
ぱん、と乾いた音とともに、煙が舞い上がる。
視界が白く濁る。刺客の動きが鈍る、その刹那──水無瀬は躊躇なく、
屋根の端を蹴り、屋根を蹴り、影から影へと身を溶かした。
その場に残ったのは、面の破片ひとつ。
それを拾い上げた刺客の瞳が、細く細く、歪んだように笑った。
「……始末は、次でいいか」
そう呟くと、彼もまた闇に溶けた。
廃屋の屋根裏に身を潜めた水無瀬は、煙の匂いを衣に染み込ませたまま、じっと息を潜めていた。
肩の痛みは引かない。だが、それ以上に胸の奥がざわめいていた。
(……問い)
その言葉に、意味があったことなど、かつて一度でもあっただろうか。
問いを授けられた日──思い出すのは、声だけだった。
『あなたは、影となりなさい。問いを投げる者になりなさい』
『誰にも明かせぬ正しさを、仮面の内側で抱いていればいいのです』
その声は、柔らかく、優しく、そして命じていた。
──桂香。
あれは慈しみだったのか。
それとも、自らの手を汚さぬための命令だったのか。
水無瀬は、割れた仮面の継ぎ目に指を添えた。
問いを持ったのではない。持たされたのだ。
その違いに気づいたのは、捨てられてからだった。
闇に潜むうち、空がうっすらと白み始める。
夜明けが近い。だが彼にとっては、なお暗いままだ。
初冬の京は、息をひそめるように静まり返っていた。
朝が来たとて陽は低く、町を包む雲は日ごとに厚みを増している。
白鐘家の隠れ家の庭先でも、枯れ草の上に降りた霜が陽に溶けぬまま、じわりと寒気を染み込ませていた。
そんな空の下で、町の者たちはいつもより言葉少なに暮らしていた。
誰からともなく囁かれる声──
ある日、官位ある家の主が倒れた。
また、別の屋敷が無人になり、床が血に染まっていた。
はたまた、陰陽師の屋敷が青い火に包まれたとか……という話が、まことしやかに広がっていた。
「公家衆が……次々と」
「病だとは聞いたが、皆、似たような最期らしい」
「いや、あれは病ではない。声もなく、痕跡もなく……まるで『影』のように消えたと──」
市井の噂は尾鰭をつけて広がっていく。誰もが『噂』として聞きながらも、それが事実であると、どこかで悟っていた。
その日、隠れ家の囲炉裏端では、左近が茶をすすりながら、眉を寄せていた。
「どうにも、動きが早すぎる。……おかしいぞ、これは」
忠太が苦い顔で呟く。
「たしか、あの連中……表立って『反・帝』を掲げてたわけじゃねぇよな」
左近が頷いた。
「陰で仮面の模倣に加担していた、と睨んではいたが……まるで、あちら側の『手入れ』が始まったみたいだな」
その隣で、忠晃が文を手に静かに口を開いた。
「実際に亡くなったのは、帝派からも数名おります。『失踪』とされた者も多く、遺体が見つからぬ場合も……」
文を卓に置いた忠晃が、左近の向かいに座る。
左近は湯呑を持ったまま、低く呟いた。
「……水無瀬の動きが、見えなくなった」
「襲撃の件は確実です。文にも裏付けがあります」
忠晃が簡潔に応じる。
「文の出処が確かであれば、水無瀬の件も、同じ手の内かもしれませんな」
「忠晃殿、しかし……これは奇妙でまるで処分されたように思える」
「おそらく、そうでしょう」
左近が湯を含み、小さく眉を寄せる。
「今、消されているのは『表に出る仮面』だけじゃない。裏で動いていた者たちまでもが、急に──」
「『整理』が始まっている。そう見るのが自然です」
「何の?」
左近の問いに、忠晃は文を指で軽く叩いた。
「……問いを与え、正しさを決める者──かつて『面』を生み出したあの者が、何を恐れているかだ。」
その言葉に、囲炉裏の火が小さく、ぱちりと鳴った。
「……なるほどな」
左近は頷き、視線を障子の向こうへとやる。
「つまり──『問い』という名の道具が、勝手に刃を研ぎ始めた。ならば、手放すか、壊すしかない……そういうことか」
その会話を、静かに聞いていた面の少年がいた。
暁狐は、うつむいたまま、手の中の面を見つめていた。
「……問いを与えられ、答えも与えられず、ただ斬られていく者がいるなら──」
そこまで言って、ふと口を閉じる。
足元で眠っていた風音が目を覚まし、ちらりと顔を上げた。
その金の瞳が、少年の目を、そっと映す。
暁狐の声は、凪いでいた。
「まだだ。……まだ、答えは見えていない」
そのひと言に、室内の空気がわずかに張り詰めた。
誰もが、次の動きが近いことを、確かに感じていた。
「ただ私は──問いの名の下に斬られる誰かを、これ以上生みたくはない」
風音が寄り添うように、再び顔を伏せた。
室内の火は静かに燃えていた。
──そして、『問いを終わらせる者』の目が、静かに夜明けを見据えていた。
暁狐、十八歳厳冬。




