第四話 風を問う者
第七章 鶏鳴の先へ
第四話 風を問う者
雨は降っていなかった。
だが、空には鈍い雲が幾重にも垂れ込めている。冷えた風が道の石畳を撫で、かすかに湿り気を含んだ空気が、仮面の内側へと忍び込んでいた。
風音は傍らを歩いている。音もなく、軽やかな足取りで。ときおり暁狐を振り返るようにしては、その金の瞳と静かに目を合わせていた。
無言のまま、暁狐は頷いた。
歩いているのは、前日、偽の文に誘われて訪れた社とは別な場所だが、あの夜に漂っていた奇妙な空気とよく似た、ひどく静謐で、妙に乾いた匂いが辺りに漂っている。
左近が調べた限り、社の周囲には不審な足跡も残されていたという。ただの悪戯ではない。誰かが『面』を騙り、わざと暁狐の名を呼ばせ、呼び寄せようとした。それだけで、十分に腹立たしい。
(……ならば、問いに応える意味はある)
風に晒される面は冷たかった。その視界の奥にある、自らの中に巣くうもの──怒り、そして、形をなさない疑念。
子どもではない。だが、大人でもない。
先日、十八の誕を迎えたというのに、己の変化を掴みかねている。あの声に応じたのは、感情に突き動かされたからだ。だが、それもまた自分だと、今は思える。
すっと右手を少し挙げる。すぐに背後から左近の返事があった。
「はい、若宮」
その呼び名に、まだ少しの居心地の悪さがある。だが、『今上帝には男子の子がいない』とされる今──前の帝の嫡男である自分が、『若宮』と呼ばれるのは、もう逃れようのない立場ということだ。
暁狐が立ち止まると、風音もぴたりと足を止めた。古びた石垣とわずかな苔に覆われた木立に囲まれた空き地。周囲には人気もない。
そして、また現れたのだ。
──面の者が。
前日と同じ装束。仮面の意匠も、まるで模写したかのように正確だった。だが、その『正確さ』こそが、偽物の証である。
「よく来たな、若宮」
声は低く平坦で、感情に乏しい。
暁狐は返事をしなかった。ただ、視線だけで応じる。
『問いを持て』とかつて言った『仮面の声』に、面の者が似せたその言葉はなかった。
暁狐の右手が、腰に差した晨星の柄にそっと添えられる。風音の毛が僅かに逆立つ。
左近が動く気配はない。彼は命じられている──今は動かず、ただ観察し、記憶せよと。
間合いは、十歩。
だが、戦いは起こらなかった。
「面に選ばれし者よ」
面の者が言った。
「お前は何を為す?」
それだけを告げ、姿を消す。霧のように、風のように。だが、それは決して神秘ではなかった。足跡も残り、草も踏まれている。
「ただの……人か」
暁狐は口の中で呟くと、片方の口角を上げ冷笑する。
その声に、風音が近づいてくる。濡れた鼻先が、そっと彼の手に触れた。
優しく撫で返しながら、暁狐は思う。
問いを返しただけの者に、答えを望む意思はなかった。ただ、試しただけなのだ。仮面が本物かどうか、自分が「若宮」であるかどうか。何者かのために。
その『何者か』が、いる。
それが、背後に潜む黒き影だ。
薄暗い一室。灯りも差さぬその場所に、複数の気配がある。誰が誰に命じているのかは、定かではない。だが、その声ははっきりとしていた。
「いや、むしろ……奴はもう、切り捨てられた。消えるだろう」
水無瀬──かつての『剣の影』とその腕により呼ばれた男は、今や枷に過ぎぬ存在。
冷ややかな声が室内を満たす。
「『仮面』の本物が動いた。ならば、舞台を整えるまで。邪魔な影は……排除しろ」
命令が下される。誰に向けた言葉かは明示されない。
だが、その直後、ひとつの影が静かに立ち上がった。
家の中は静まり返っていた。
冷え込んだ空気が襖の隙間から忍び込み、炉辺の炭がかすかに音を立てている。
暁狐は座敷の中央にいた。面を手にしながら、目を閉じていた。
己が何者であるか、何のために今ここに在るのか──問いは幾重にも巡っていた。
己を突き動かすのは、『何故、自分はここに立っているのか』という問いと、その先にある怒りと冷笑。
まだ声は届かぬが、あの偽の面は、それを引き出そうとしているのかもしれなかった。
(面に宿る問いが、俺を試している……)
耳を澄ませば、風の音がかすかに聞こえた。
ふと顔を上げ、部屋を出る。
──夜の京。
路地を歩く足音は、ひどく大きく響いた。
眠れぬ夜が訪れるようになって、久しい。
社から戻った後も暁狐はひとり、町外れの社の周囲を巡っていた。
月は陰り、道には人影もない。
灯の落ちた民家の屋根を見上げると、瓦にうっすらと霜が降りている。季節の進みを否応なく知らせていた。
(あの声の主は何者なのか──)
心に渦巻くのは、恐れではない。
焦燥、苛立ち、戸惑い……そして、怒り。
あの偽の面が、何のために自分の名を呼んだのか。
その意味を、彼はまだ見出せずにいた。
社の裏手、石段に腰を下ろす。風音がそっと傍らに寄ってきて、彼の膝の上に丸まった。
言葉は交わせぬ。ただ、その瞳に映るものだけが、静かに問いかけてくるようだった。
「……私は、もう戻れないのかもしれないな」
誰に言うともなく呟いた言葉が、冷えた夜気に吸い込まれてゆく。
面を持つ手が震える。
あのとき── 唯一の父がかつて斬ったあの面。今は歪んだ悪意を撒き散らしている。
名を持たぬ『面』の主と、向き合うことで、ようやく自らの問いがかたちを成し始めている。
問いを持て。
その問いこそが、自らを仮面から救い出す鍵となる。
静かに風音の体を撫でると、小さく鳴いた。
まるで、『わかっている』とでも言いたげに。
京の片隅、人の寄りつかぬ旧邸宅の一室。
薄暗い帳の中に、仄かな香の匂いが立ちこめていた。
奥の床几に座するのは、かつて女御でありながら、帝亡き後出家し尼僧となったり、今は隠遁を選んだ女──妙香尼である。
姿は見えぬ。
ただ、御簾の向こうに影だけが映っていた。
「……仮面がまた現れたそうですね」
低く、よく通る声が応じる。
文机に手をかけていたのは、男とも女ともつかぬ装いの影。
「ええ。ですが、本物ではありません。……あの者に似せた贋作、でしょう」
「水無瀬は?」
沈黙が落ちる。
「──切り捨てられたようです」
言葉の温度は冷たかった。
その場にいた誰もが、それ以上を語らなかった。
妙香尼の影は、御簾越しに宙を見つめている。
その胸に去来する想いが何であれ、それはまだ、語られぬままにあった。
夜が深まり、囲炉裏の火は小さく音を立てていた。
障子の向こう、冷え込んだ風が京の町を撫でていく。
静けさの中、忠太は文をじっと睨んでいた。
墨の円──あの模倣された『面の輪郭』は、まるで己らをあざ笑うように、乱れている。
その傍らでは、暁狐が仮面を外さぬまま、囲炉裏端に座っている。
彼の膝元では、風音が丸くなっている。だが、その耳は時折ぴくりと動く。
左近が盛大にため息をつく。
「なあ……この状況、どう思う?」
その問いに答えたのは、忠晃だった。
「『面』は、象徴です。姿を借りて紛れ込む者が出た以上、もはや若宮のお姿そのものが狙われているということ……」
忠太が唇を噛む。
「面がどうとかじゃねえ……あれを、勝手に使うなんて、許せねえよ。坊が……あれで何を背負ってきたか、知らねえくせに」
左近が静かに頷く。
「そりゃ、そうだ。けど……たぶん、わざとだろうな。揺さぶるために、『殿そのもの』を使ってくる奴がいるんだ」
忠晃が言葉を継いだ。
「『仮面の問い』を断ち切るには、若宮が自らの問いと向き合うほかありません」
仮面の少年が、一度だけ目を閉じた。
それは肯定とも否定ともつかない、だが確かに『応じた』という気配だった。
──その頃。
火灯りも届かぬ、京の一角。
闇に閉ざされた空間のなか、微かな灯火が影を映していた。
「……気配は掴んだ。だが、問いは未だ揺れている」
黒い影が一人、床に膝をついている。
顔には、暁狐の仮面と酷似した面。だが、頬の部分に罅が走り、どこか歪な造形がそこにあった。
奥に座す影が、僅かに身を起こす。
「問いが定まらねば、仮面は『力』を持たぬ。……だが、それでも──」
その声に、別の影が静かに口を開いた。
「いや、むしろ……奴はもう、切り捨てられた。消えるだろう」
ぴたり、と場の空気が凍る。
床に膝をついた仮面の者──『模倣者』が、わずかに面の奥で目を伏せた。
「……私の問いは、何処へ向かえば……」
奥の影が、仄かに笑うような気配を纏う。
「問いとは、道を開く鍵。だが、不要な鍵は捨てられる。道に合わぬならば、別の扉を選べばよい」
そのとき、別の影が低く言い放った。
「『あの剣士』は、すでに終わった存在だ。あれは枷にすぎぬ。仮面が意志を持った瞬間から、不要な駒だ」
模倣者が、一瞬身じろぎする。だが、反論の声は上がらない。
その面には、わずかに怯えにも似た色が差していた。
「まもなく『新たな影』が動く。面を継ぐ者が、問いに応じるか否か。それが、この京を変える」
ぱちり、と篝火が弾ける。
その光が照らしたのは、奥の帳の向こうに座する者の手。
薄紅の爪が光を弾く。
「夜が明けるまでに、新たな問いを宿す仮面を刻め。──模倣ではない、『意志』を宿す面として」
その命が下されたとき、模倣者の面がわずかに揺れた。
だが、すでにそこに言葉はなく、ただ静かに頭を垂れるのみだった。
──風が、京の空を渡ってゆく。
面を揺らす風。問いの夜に、答えを促す風。
そして、消えゆく者にとって──『終わりの合図』でもあった。
暁狐、十八歳冬。




