残影の白菊
番外編
残影の白菊
夏の気配がようやく薄れ始めた江戸の外れ、白鐘家の別邸には、菊の花がほのかに香っていた。朝靄を割って射す光が、庭の白い花をぼんやりと照らす。
縁側の障子が、がらりと音を立てて開いた。
「正吉ーっ! おまえ、また!」
麻佐の声が響くと、庭の隅の石垣の影から、小さな影が転がるように飛び出してきた。顔は庄太によく似て、眉と口元がくりっとしている。着物の裾を泥だらけにしながら、懸命に逃げてくる。
「だって! 子猫が庵の方へ行ったんだよ!」
小さな少年──正吉は、振り返りもせず走り続ける。少し腹が出てきた忠太が飛び出し、慣れた様子でその後を追った。
「こら、また庵に近づくなって言われてるだろうが!」
庭の片隅、竹垣の向こうには、低い石段と、ほんのわずかに見える草庵の屋根。その庵に近づくことだけは、この屋敷に仕える者たちの間で、暗黙の了解として「触れてはならぬこと」になっていた。
けれど正吉には、そんな大人の事情など関係ない。
「だってさ、白い子猫が三匹生まれたんだよ? その子の一匹が、逃げてったんだよ!」
泥を跳ねあげながら走るその姿に、遠巻きに見守っていた麻佐が、深いため息を漏らした。
「忠太、庵には入らせるな。ただ、子猫は探してやれ」
正吉の駆けた先には、ぽつりと一匹、白い子猫が立ち止まっていた。雪のような毛並みに、どこか見覚えのある細い尻尾。けれど、正吉が手を伸ばすと、猫はふっと身を翻して、草の奥へと消えていく。
「あっ、待ってよ!」
追いかけようとした正吉の肩に、ぽんと手が置かれた。
「そこから先は行ってはならぬよ。……こっちにおいで」
静かな声だった。
正吉が見上げると、殆ど話したことのない青年──白鐘暁狐の声であった。
少し吊り気味の目がやさしく、正吉を見下ろしていた。
「うん……」
不思議と逆らう気にはなれず、正吉は暁狐に手を引かれた。
「猫さん、あの庵で飼ってるの?」
「そうだよ。母と……今は、庵にいる人が世話をしている。とても大切な命たちなんだ」
「ふぅん……」
暁狐は小さく笑った。正吉の髪を一度撫でると、そのまま庭へと戻ってゆく。
白い子猫が、もう一度だけ、庵の塀の隙間から顔を出した。だが、それが見ていたのは、正吉ではなく──縁側で寝ていた風音だった。
昼下がりの陽が、庭の菊をほのかに照らしていた。
風音は縁側の上で、陽を浴びながら静かに目を閉じている。その傍らには、ニ匹の白い子猫が、ころころと転がるようにじゃれ合っていた。
ふいに、奥から麻佐が現れる。
「若宮──あの、少しだけ報告が」
暁狐が顔を上げると、麻佐は困ったように笑った。
「……例の庵で、生まれたようです。白い子猫が三匹。……澪様から、風音殿の面影があると」
暁狐は目を細めた。風音の耳が、ぴくりと動く。
「……麻佐、それは言わない約束だろう」
背後から、左近が口を挟む。
「……失礼しました。ただ……そのうち二匹はこちらに引き取りました。三匹とも庵に置くには、騒がしすぎると思います」
そう言って、麻佐はくすっと笑った。
暁狐は答えず、ただ頷く。
庵──誰もその名を明かさぬ場所。
白鐘家の家臣の間では、『あそこに触れるな』という暗黙の了解があった。
だが──
「……あの子が、ひとりで行こうとしてる」
庭の外れ、土手の道を駆けていく幼い足音。
正吉──澪と庄太の息子である五歳の少年が、白菊を一輪手に、走っていた。
「おーい! しょうきち、待て、そっちは……!」
庄太の声が響くが、子は止まらない。
その姿を見て、風音が頭をもたげる。
暁狐は、ふっと微笑んだ。
「……風音、行こうか」
年老いた猫は、少年の声に反応するように、静かに立ち上がる。風音は足を片足引き摺るようにしながら、暁狐の肩に乗ろうとした。
暁狐は痩せた体をそっと抱き上げ、肩に乗せる。すぐに嬉しそうにごろごろと喉を鳴らしはじめた。
「庵へ、行くのですか?」
麻佐が問う。暁狐は頷いた。
「……そうだね。そろそろ、向き合う時が来たようだ」
問いを越えた今、見据えるべきものがある。
晩秋の風が、菊の香を連れて吹き抜けていく。
白鐘家別邸の背後にひっそりと佇む庵は、秋の陽に照らされながらも、どこかしら影を湛えていた。
木戸の前で正吉が立ち止まり、白菊を抱えた手をぎゅっと握る。
小さな体を包む麻の羽織の袖が風に揺れた。その後ろには、そっと寄り添う風音と、静かに歩む暁狐の姿。
──白菊は、誰のために咲いているのか。
正吉は一歩、また一歩と庵の敷居を跨ぐ。
古びた庵の中、僧衣を纏った老女が、静かに花を生けていた。
「……妙香尼様」
正吉の声に、老尼──かつての桂香は、そっと振り向いた。
「まあ……正吉。よう来てくれましたね」
皺深きその顔に、柔らかな微笑が浮かぶ。右頬に走る薄い刀傷だけが、過去の影を物語っていた。
「花、持ってきた。おっかが言うてた、ばーちゃん好きやろ、白菊」
正吉が差し出した花束を、妙香尼は丁寧に受け取った。染みの浮いた手が小刻みに震えているのを、暁狐は見逃さない。
「ありがとう。とても綺麗や……」
その背後に、白い子猫が三匹、遊ぶように走り回っていた。風音がそれを目で追いながら、暁狐の肩からゆっくりと首を回して見ている。
暁狐も、無言のまま、正吉のあとに続いた。
冷たいの風のなか、かつての仇と、かつての子が、ふたたび向かい合う。
「……大きゅう、なられましたな。雅永……いえ、暁狐様」
妙香尼が頭を下げようとすると、暁狐は静かにそれを制した。
「……頭を上げてください。今、あなたにそれを求める者は、誰もいない」
風音がそっと暁狐の頬に頭をつける。
暁狐は少しの沈黙ののち、ぽつりと、背を向けたまま言った。
「……あなたに、もう恨みはありません」
その言葉に、妙香尼は微かに目を伏せる。
「許すと、言うのですか?」
「いいえ。許すには血が流れすぎました。……ただ、私は『前を向く』と決めたのです」
そして、静かに続けた。
「……風音は、こんな小さな体で水無瀬に向かっていきました。決して勝てぬとわかっていて、命をかけて守ってくれました」
その目には、曇りのない光があった。
妙香尼は、わずかに身を震わせ、思わず口を開いた。
「……雅永、あなたも、親になれば……」
その言葉に、暁狐は表情を消し、淡々と言った。
「その名の子は、六歳のあの日に死にました。あの名も、その血も──継がせぬと決めました」
「……それで、いいのですね」
「自分の子が、誰かの思惑で利用され、傷をつけられる。そんなことに加担するなら、生涯娶らずにいることなど、些細なことです」
「それでも……」
老尼の声は、春の風にかき消されそうなほど弱々しかった。
だが、暁狐は、風音の方へ目を向け、老尼には見せなかった優しい笑みを浮かべる。
風音が、そっと彼の頬に頭を寄せた。
老いた身体のぬくもりが、問いに代わるように暁狐を包む。
暁狐は、何も言わなかった。
そして、庵を後にした彼の背に、後悔はなかった。
別邸の庭には、秋の光が柔らかに降り注いでいた。
庭の隅には、咲き始めた白菊が風に揺れている。誰かの墓前に捧げられ、また誰かの手で育てられた花。
縁側に腰を下ろす暁狐の膝に、風音がそっと頭を預ける。
老いた身体は少し痩せ、片足はまだ庇っていたが、金の瞳は凛と冴えていた。
庭の中央、踏み石の先に、一人の男が立つ。
清秋──すでに隠居の身ではあるが、その姿は今も舞の師として、気高く、美しかった。
月光のような白装束に身を包み、ゆっくりと袖を広げる。
その動き一つひとつに、過ぎし年月が映る。
微かな龍笛の音が、秋の風をまとって流れ始めた。
奏でているのは清雅。
彼もまた、当主の座を尚成に譲るべく、静かに準備を進めている。
けれどこの瞬間は、ただ一人の父として。
愛する者たちのため、笛を吹いていた。
庭を渡る音。舞う袖。菊の香。風音のぬくもり。
すべてが重なりあい、やがて──
静かに、風音が立ち上がった。
老いた足で、一歩、また一歩。
暁狐は立ち上がり、膝をついて風音と目を合わせる。
「……風音」
その一言に、風音が小さく鳴いた。
白菊の花びらがひとひら、風に乗って舞い、二人の間に落ちる。
もう、仮面はない。
問いは、背負っていくものになった。
そして、帰る場所はここにある。
青年は、そっと風音を抱き上げた。
風音のぬくもりを抱いて、彼は静かに、陽の中へと歩き出す
暁狐、二十八歳晩秋。




