第三話 鏡裏の声
第七章 鶏鳴の先へ
第三話 鏡裏の声
夜は静かだった。
町の家々は戸を閉ざし、風さえも息をひそめたように感じられる。灯の落ちた路地には、仄白い月の光がぽつり、ぽつりと石畳を照らしていた。
その道を、ひとりと一匹が歩いている。
少年は面をつけていた。紐を結ぶ手には迷いがなかったが、内に渦巻く想いまでは隠せない。傍らを歩く白猫──風音がちらと見上げると、面越しの目が、夜の闇の奥を睨んでいるのがわかった。
昨日、幼い子どもが文を持ってきた。
「夜、社にて。
仮面を継ぐ者へ。
来るならば、月の刻を越えて来い。
待つ。」
──それだけ。
それが、どんな意味を孕むのか。敵意か、試練か、あるいは……。
暁狐は、面の内側で目を細めた。
(問いを持たねば、仮面に呑まれる……か)
かつて面の声が囁いた言葉だ。問いとは何か、自分にとっての『面』とは何なのか。長らく答えを求めてきたが、それはいつも霧の奥にあった。
だが、何かが変わった。いや、自分が変わったのかもしれない。
──十八になった。
数日前、そう口にした者がいた。
「もう子ではないな、若宮」と。
そうだ、自分はもう子どもではない。けれど、面の下の顔は、ずっと変わらぬままそこにある。
変わったものと、変わらぬもの。
そして、変わってしまったことにすら気づけなかった己。
面をつけて過ごした十余年の自分が、まるで仮面そのものだったかのように思えた。
「……若宮だと」
誰にも聞こえぬよう、小さく呟く。
今の帝には男子がおらぬ──だから、自分が『若宮』と呼ばれるのだと、そう言われた。
ならばこの名は、血の証か。
それとも、呪いのように背負わされた影なのか。
風音が足を止め、耳をふるふると震わせた。
暁狐も立ち止まり、周囲を見やる。
路地の先に、社へ続く石段がある。
「……行くぞ」
囁くように言い、足を踏み出す。風音が静かにその後を追う。
石段を登る音だけが、夜の町に残された。
石段を登りきると、そこにはぽつねんと佇む小さな社があった。
木立に囲まれた高台。夜の帳が降りて久しいというのに、社のまわりには灯りの一つもなく、ただ月光だけが瓦にかすかな白を映していた。
暁狐は、足を止めた。
風音が一歩、先に出る。猫の体に宿る微かな緊張──耳がふるえ、尻尾がふっと立つ。
何かが、いる。
けれど、姿はない。気配も風に紛れ、音も匂いも掴めぬ。
それでも、確かに『何か』が、そこにいる。
「……来ているのか」
面の奥から、低く呟いたその声に応じるように、社の影がわずかに揺れた。
次の瞬間──
ぬるり、とした感触のように、それは現れた。
木の影から、まるで絵の具を垂らしたように、ゆらゆらと浮かび上がる人影。
面をつけた少年──暁狐に酷似した姿だった。
だが、それは暁狐ではない。動きが、立ち姿が、あまりに『つくられて』いる。
似ているのは面だけ。体格も、歩き方も、どこか粗い。まるで、見よう見まねで拵えた贋物。
「……誰だ」
問うた声に、相手は返さない。ただ、静かに一歩前へ出る。
そして、ひとつ──
「……問いを持て」
その声は、酷く平板だった。
仮面に宿ったあの声に、似ていながらも違う。
語りかけるのではなく、なぞるだけの響き。
暁狐の眼差しが鋭くなる。
ただの模倣ではない。あれは、何かの『意思』に動かされている。
風音の全身の毛が逆立つ。体を斜めにし、精一杯大きく見せる。
「貴様……どこで、その言葉を……」
言いかけたそのとき、影が一瞬、揺らいだ。
目の前の『仮面』が、まるで霧のようにぼやけ、次の瞬間──掻き消えた。
気配すら残さぬ消え方だった。
「……あれは、私ではない」
そして──あれを仕向けた『何者か』が、この京に蠢いている。
暁狐は、ひとつ息を吐き、風音に目配せをした。
風音が歩み寄り、ふいに彼の足元へ額をすり寄せる。
その温もりに、暁狐は目を閉じた。
(問いを持て、か──)
ならば、問い返そう。
(誰が、俺の問いを奪ったのか)
暁狐は一歩、社から退き、周囲を見渡した。
社の背後は竹林。濡れた地面に落ち葉が重なり、踏めばしっとりと吸い付くような感触が伝わる。
視線だけで確認しきれぬものがあると悟り、足音を殺して回り込んでいく。
風音がその後を追った。彼女は何も言わず、ただぴたりと暁狐の足元に寄り添う。
草の葉が揺れ、蜘蛛の巣が月の光を掠める。だが、獣の気配も、敵の残滓も見えない。
それでも、仮面の気配は、残っていた。
(これは、問いを投げかけるだけのものではない)
(答えを、試している)
無言のうちに、風音が一度だけ耳を伏せた。
まるで、そこにいる「何か」に身構えるように──。
──燭の明かりが、壁に影を揺らしていた。
そこは、古びた屋敷の一室か。格子も障子もあるはずの場所に、外の光は一切差していない。ただ、火の揺らぎだけが空間を照らし、そこに座する数人の姿を、仄かに映し出す。
「……姿を見せたか、若宮が」
声がした。
低く、張りのある声。女か男か、判然としない。だが、その声音には、誰も逆らえぬ重みがあった。
床に膝をついている者が一人。
面をつけていた。暁狐のそれと酷似した、だがどこか歪んだ意匠──
頬に罅の走った、割れた面を無理やり繋ぎ合わせたような代物。
「申し訳……ありません」
跪く者の声は掠れていた。面の奥の表情は窺えない。だが、その身の震えに、ただの『命令』ではなかったことが知れる。
「問うたか」
「……はい」
「応えたか?」
「……まだ、です。だが──『問いを持て』と告げました」
部屋の奥にいた影が、静かに身じろぎする。
「そうか。それで良い。問いが定まらねば、道は見えぬ」
その言葉に、面の者が再び深く頭を垂れた。
「若宮が仮面を捨てるのは、まだ早い」
別の者が、ぽつりと呟いた。
その声もまた、抑えられた熱を孕んでいた。
「『若宮』の名は、もはや過去のもの。我らが彼に求めるのは、かつての血筋ではない。問いに応え得る者としての価値だ」
誰とも知れぬその者の言葉に、場の空気が静かに引き締まる。
「京の終わりが近い。──その時こそ、仮面は意味を変える」
そして、篝火がぱちりと弾けた。
──焚かれた香が、かすかに香る。
篝火の奥、暗がりの中で声が響いた。
「仮面は、己を語り始めたようだな」
「だが、旧き鋳型を引きずる者に、真の問いは持てぬ」
沈黙が一つ。仮面をつけた影──その主は、声に応えず、ただ地に額を擦りつけた。
やがて、もうひとつ別の影が、静かに火前へと歩み出る。
「水無瀬は……不要になったか」
そう呟いたのは、声を持たぬ者のようだった。だが、その吐息には情がなく、冷たく澄んでいる。
「破られし面に、価値など残らぬ。あれは剣に溺れた偶像──鏡を持たぬ影にすぎぬ」
場の空気が、少しだけ動いた。仮面の影がひとつ、火を背にして立ち上がる。
背は低く、年若い影。だが、面をつけている。
今、京に現れた『模倣者』と酷似した──いや、まるで写し鏡のような仮面をつけた少年。
彼は、無言のまま立ち上がる。
そして、ゆっくりと月の射す方角に顔を向けた。
面の奥、唇がゆっくりと──微笑んだ。
暁狐、十八歳晩秋。




