第二話 虚を孕む仮面
第七章 鶏鳴の先へ
第二話 虚を孕む仮面
風が、落ち葉をひとひら、縁側へ運んできた。
その葉を追うように、小さな影が畳を鳴らして駆ける。
風音だった。
朝餉を終えたばかりの隠れ家には、まだ湯気の残る器の匂いがうっすらと漂っていた。だが、その空気の中に混じる何かに、猫は落ち着かず、部屋の端から端を行ったり来たりしている。
左近が、箸を置いた。
「……なあ、主様。風音がこんなふうに歩き回るの、久しぶりじゃねえか?」
声をかけられた面の少年──暁狐は、返事をしなかった。ただ、静かに湯飲みを傾け、その面の向こうで何を思っているのか、誰にも分からない。
忠太が縁側に出て、鼻をすするように空を仰いだ。
「なんかさ、空気が変だよ。乾いてんのに、ぬるい。雨でも降るんかな」
返ってきたのは、風音の短い鳴き声だけだった。
忠晃は茶をすすりながら、微笑のように口を綻ばせる。
「……空気が重たい、そう思われたのですか? 忠太殿」
「うん。変に、静かすぎるっていうか……昨日と違う」
それは事実だった。
昨日までは、隠れ家の周囲に微かな喧騒が漂っていた。朝市の声、寺子屋の童たちの笑い声、町人の吐く溜息。それらが、今朝はほとんど聞こえない。
左近が、じっと風音を見つめたままつぶやく。
「……なんかさ、今日、何かあるような気がする。勘だけどさ、俺、嫌な夢見て起きたんだ」
忠晃が頷いた。
「こういう時こそ、静けさが最も不吉にございます」
それでも──少年は動かない。
ただ、僅かに眼差しだけが揺れる。
風音がぴたりと止まり、暁狐の足元へ戻ってくる。そしてそのまま、小さく鳴いた。
その瞬間だった。
少年の肩が、かすかに震えた。
そして──面の下から、笑いが漏れた。
「……ふっ」
それは明らかに、冷笑だった。
他の誰に向けたものでもなく、ただ『感じ取った何か』に対する反応。
不可解な空気、押し寄せる予感、そして、自らをあざけるような静かな笑み。
左近がわずかに目を見開く。
忠晃は表情を変えず、ただその笑みを受け止めるように視線を投げた。
「主様、動かれますか?」
少年は答えなかった。
ただ、風音の背を指先で一度、そっとなぞり──ゆっくりと立ち上がる。
そのまま縁側に向かい、外の風を全身に浴びる。
風が仮面の縁を撫で、かすかに音を立てる。
だが、それは確かに『始まり』の音だった。
京の町は、いつもと変わらぬ顔をしていた。
だがそれは、面にも似た表情だった。何も知らぬ顔をしながら、内側では何かを隠している──そう言いたくなるような、妙な静けさがあった。
左近は、通りを歩きながら周囲の空気を何度も確かめるように見回していた。
手には竹の柄の箒を持ち、町人のような振りをしているが、その目は鋭い。
忠晃は一歩後ろを歩き、視線を逸らさぬまま、呟くように言った。
「仮面の噂……再び町に広がり始めております」
「なんで今さら……」
「昨夜、誰かが『面をつけた者』を神社で見たと。供え物の前で、じっと佇んでいたらしい」
左近は眉をひそめた。
「坊は昨夜、どこにも出てねえよな……」
「ええ。間違いなく、我らと共に隠れ家におられました」
その証言が事実だとすれば──仮面をつけて現れたのは、誰か別の者ということになる。
京の町には、迷信と噂話が生きていた。
狐の面は『祟り神』の象徴でもある。目撃談はすぐに尾ひれをつけられ、庶民たちの間で囁かれる。
「『目が光ってた』ってさ。おっかねえ話になってんぞ。神隠しが始まるとか、言い出す奴までいる」
左近の口ぶりは軽いが、その瞳は険しい。
「誰かが、わざとやってるな」
そのとき──
裏通りの方で、何かが走り去る足音が聞こえた。
左近が顔を上げた瞬間、そこに別の気配がすっと忍び込む。
そのころ、隠れ家から離れた裏通りでは──
忠太が気配を探るように歩いていた。布を被って身分を隠し、町の雑踏に紛れ込んではいたが、朝から胸のどこかに残る違和感を、彼は拭いきれずにいた。
(尾けられてる……?)
目立つ真似はできない。だが、わずかに歩調をずらしながら、忠太はその気配の正体を探る。
その瞬間、脇道に細く延びた影が、すっと横切った。
──仮面、だった。
忠太の心臓がひとつ、大きく跳ねた。
瓦屋根の上、短く白い髪が風に揺れていた。
赤黒いような装束、そして──明らかに、自分たちが仕えている『あの仮面」』と同じ形。
忠太は思わず追いかけようとした。だが、一歩足を踏み出す寸前、冷静な声が脳裏をよぎる。
(罠かもしれねえ)
立ち止まった彼の前で、影は一瞬、こちらを振り返った。
見えたのは、あの面。だが──
仕草が違う。所作が、暁狐が纏う静の剣とは異なる、ざらついた動きだった
忠太は強く奥歯を噛んだ。
──あれは、坊じゃない。
そう確信した瞬間、瓦の影はひらりと消えた。
しばらくその場で立ち尽くし、忠太は静かに息を吐いた。
「ふざけやがって……誰が、あれを──」
その手が震えていることに、自分でも気づかなかった。
そのころ、隠れ家の座敷では──
忠太が急ぎ戻り、荒い息を整える間もなく言葉を発した。
「いた……面の野郎が、瓦の上に……」
その声に、左近が顔を上げた。
「殿じゃなかったのか?」
「ちげえよ。所作が違った。主様はあんな風に、身体を……こう、雑に動かしたりしねぇ」
忠太の語る『違和感』は、剣士として鍛えられた者にしかわからない。
動きの癖、立ち姿、目線の配り方──そうしたすべてが、彼の記憶にある主とは異なっていた。
「でもな……面は、あれと同じだったんだよ」
視線が自然と、暁狐の面へ向けられる。
床几に腰かけたままの少年は、やはり何も言わなかった。
ただ、ほんの僅かに首を傾けて忠太の報告を受け止める。
風音が膝元で小さく鳴いた。
その音を合図にしたように、忠晃が口を開いた。
「なるほど……彼の目的は『攪乱』かもしれません」
「挑発ってことか?」
左近の声に、忠晃は静かに頷いた。
「はい」
忠太が奥歯を噛む音が聞こえた。
「ふざけやがって……。俺らがどんな気持ちで、あの面を見てきたと思ってんだ……」
左近が声をかけるより早く、空気がひときわ張り詰めた
──と、そのときだった。
窓辺にいた風音が、ぴたりと動きを止めた。
耳がぴんと立ち、金の瞳が、ある一点を見つめ、全身の毛が逆立っている。
そこは、東の高台にある社の方角だった。
風の音すらも吸い込むような、妙な静寂が部屋を包む。
その視線を追った忠晃が、ふと息をのむ。
「……風音が、あの社を?」
仮面の少年が立ち上がる。
まるで、風音と心を通わせたかのような動きだった。
外を見つめる仮面の眼差しに、感情の色は宿っていない。
だが、誰の目にもそれは明らかだった。少年は──『決めた』のだ。
左近が無意識に問いかけるような視線を向ける。
だが、返る言葉はなかった。
沈黙が、ただひとつの命令としてそこにあった。
陽が傾きかけていた。
隠れ家の障子を透かして、淡い光が畳に斜めの線を描いている。
忠太が報告を終え、左近が短く吐き捨てるように言った。
「動きたくても、命令がねえってのが一番きついな。……そいつが水無瀬なのか、あるいは別の奴なのか、それすらわかんねえなんて」
その言葉に、誰も答えなかった。
暁狐は再び床几に腰を下ろしていた。
膝の上には風音が丸まり、静かな寝息を立てている。だがその耳は、いまも社の方角を向いたままだ。
忠晃が湯を汲み直し、ひと口だけすすった。
その所作すら、妙に静まり返った部屋では音として際立っていた。
左近が重ねるように呟く。
「ほんとにいたんだな、偽の面……殿の存在を消せって命じられた連中の仕業か、それとも……」
「あるいは、面の『象徴性』を利用して混乱を起こそうとする者かもしれません。仮面など、使いようで神にも怪にもなるからね」
忠晃のその言葉に、仮面の少年がわずかに顔を上げた。
面の下で、何を思ったのか。
ただ──その仮面は、光を受けて、今までよりも深い影を落としていた。
「……『神』にも、か」
少年の声ではなかった。
だが、部屋にいた全員が、そう聞いたような気がした。
風音がぴくりと耳を動かした。
そして、再び顔を上げる。瞳は、やはり東の空──社の方角を見つめている。
左近が思わず尋ねた。
「なあ、殿……やっぱ、あの社に何かあるのか?」
少年は、答えなかった。
光を瞳を宿したまま、静かに立ち上がる。
面の動きに、風音がぴたりと寄り添う。
そのまま、風音を腕に抱き、彼は縁側へと歩いていった。
その背に、忠晃が声を投げる。
「行かれるのですか?」
返事はない。
だが、障子の影が夕陽を裂くように動いたその瞬間──
少年の背が、確かに『命を帯びた』ものに見えた。
夜の帳が静かに落ちてゆく。
晩秋の京は、昼と夜の温度差が激しい。風の冷たさが肌に染み、灯のない通りはなおさら寂寥としていた。
隠れ家の障子を閉めた忠晃が、火入れを確かめるように囲炉裏へ近づく。
そのときだった。
──コン。
不意に響いた扉を叩く音に、左近が素早く立ち上がった。
忠太が腰の脇差に手を添える。
暁狐は既に面のまま、廊下の奥に立っていた。
風音が彼の足元で、尾を激しく振っている。
もう一度、扉が叩かれる。
それは強くもなく、かといって遠慮がちでもなかった。
左近が問いかけた。
「どちら様で?」
返ってきたのは、幼い声だった。
「お届け物……文を、預かってきました」
戸を開けた左近の前には、十歳ほどの童が立っていた。
手には包み紙にくるまれた文がひとつ。
「誰に頼まれた?」
「さあ。町の人に銭を渡されて……これを届けてくれって」
左近が警戒を強めたが、童はそれ以上は語らず、手早く礼だけ言って去っていった。
手渡された文は、薄い赤茶の紙に、丁寧に折られていた。
封もなく、ただ無造作に折り込まれているだけ。
左近が開くと、そこに書かれていたのは──
筆とは思えぬ、乱れた墨の文字。
「夜、社にて。
仮面を継ぐ者へ。
来るならば、月の刻を越えて来い。
待つ。」
そこには名も、印もない。
ただ、文末に引かれていたのは、
『あの仮面』の輪郭を模したであろう滲んだ墨の円。
その一文字に、忠晃が顔をしかめた。
「……挑発、ですね。ですが、これを送った者が『誰であるか』は、依然として不明です」
忠太が言い捨てるように呟いた。
「水無瀬、か?」
左近がすぐに否定する。
「それを証明するもんは、何もねぇ」
風音が、低く唸った。
暁狐が一歩、音もなく前に出る。
文を手に取り、目を落とす。
そして──
ふ、と短く息を吐いた。
その音は、笑いとも、嘆きともつかない。
けれど、それは明らかに──応じる者の音だった。
暁狐が、誰にも何も言わぬまま、背を向ける。
風音が跳ねるようにその後を追う。
その後ろ姿を、誰も止めなかった。
ただ、忠晃が静かに呟いた。
「敵が『あの方』である保証もなければ、否定もできない。しかし、殿はそれを確かめに行かれる──『仮面の問い』を、断ち切るために」
……闇が、まるで面の奥のように、深く静かに、世界を覆い始めていた
暁狐、十七歳晩秋。




