第ニ話 静謐の都
第六章 風の記憶
第ニ話 静謐の都
京の風は、江戸のそれと異なり、どこか乾いて澄んでいた。
暁狐──面の少年は、風の中に微かに匂う懐かしさを感じ取っていた。
面の奥、瞳が細められる。
六歳まで育った都。十五の折に再び足を踏み入れたが、今こうして主として戻るのは、これが初めてだった。
「ここが……白鐘家の京の隠れ屋敷か」
忠太の声がぽつりと漏れる。
かつて町屋であったのだろう。総二階で間口の割には細長い。俗に言う鰻の寝床である。
井戸も水屋内にあり、竈門もしっかりしている。
裏木戸が狭く、急襲にも対処しやすいよう改築された跡がある
元々は清雅がかつて隠れ家のように使っていた町屋だと聞いている。表向きには白鐘家との繋がりを持たぬよう細工され、周囲の者たちにも特別視されていない。
左近が荷を運びながら振り返る。
「けど、ここ……人の気配がしませんな。ほんとに誰も住んでないんですか?」
忠晃が微笑むように首を振った。
「表から見ればそうだが、もとは殿がお忍びに用いていた別邸。必要最低限の設備だけ整っている。京の本流に属していない今の我々には……むしろ好都合さ」
忠晃は、仮面の少年の横顔を一瞥し、言葉を継ぐことはなかった。
暁狐は、風音を懐に抱きながら、周囲に一瞥をくれた。
風音はまだ眠気が取れていないのか、大きな欠伸をしている。
屋敷の門が音もなく開いた。
迎え出てきたのは数名の老僕たち。清雅の隠密経由で連絡があったのか、最低限の準備はなされていた。
その中で、一人が深く頭を下げる。
「ようこそ、お帰りなさいませ。主様」
その言葉に、隠れ屋敷の空気がわずかに引き締まった。
(……また、この名で呼ばれるのか)
面の下で、少年は静かに目を閉じた。
江戸にて『主』として認められたその日から、すでにその覚悟は胸に宿していたはずだった。
けれど、またこの地でも──。
なぜなら今の自分は、面の主。言葉なき者。主であるという責務の仮面をつけたまま、父ですら庇い、泣いた日から進むと決めたのだから。
京の白鐘家──朝廷に重用され、今は江戸幕府との間を取り持つ高家と言う役を担う。
しかし、それは京では裏切りとされ、冷遇を受けている。
それでも、清雅……父は暁狐を守り、慈しんでくれた。
静けさに包まれた京の夕暮れ──。
白鐘邸の庭を、晩秋の風が撫でてゆく。
仮面の少年は、廊下に一人、腰を下ろしていた。
中庭の坪庭が、陽を受けてかすかに色を帯び始めている。京の景色が、どこか他人のもののように映った。
(……変わらぬはずなのに)
風音が傍らで、細い鳴き声を漏らした。暁狐の膝に頭をすり寄せてくる。その温もりに、仮面の奥で少しだけ表情が緩む。
「主様──」
屋敷の奥から、清秋の声がした。
音もなく現れたその姿は、昔と変わらず涼やかな衣をまとい、白い髭を指で撫でながら歩み寄ってくる。
「久しいな、暁狐」
声に、懐かしさと哀しみが滲んでいた。
暁狐は仮面のまま、立ち上がる。深く、頭を下げる。
「……相変わらず、礼儀はよいのう」
清秋は微笑み、傍らに腰を下ろした。
「そなたの姿を見るのは、二度目か。──十五のとき、そして……今」
暁狐は何も返さなかった。ただ、面越しに彼の姿をじっと見つめる。
「左近より聞いた。江戸では……よく耐えたとな。清雅殿のことも、すでに承知しておる」
その名に、仮面の下の表情がわずかに揺れた。
「今は、そなたが主じゃ。清雅殿や尚成殿の代理として、この家を背負わねばならぬ」
重い言葉だった。だが、清秋の声音に責める色はなかった。ただ、静かに。
「その面を取るつもりはないか?」
少年は、わずかに顔を逸らす。
清秋は深くため息をついた。
「──まあ、よい。かつての私も、面にこだわりすぎて多くを見落とした。……ならば、いまのそなたが何を守るために面をつけるのか、それを見届けるとしよう」
沈黙のまま、暁狐は再び腰を下ろした。清秋も隣に並ぶように腰を下ろし、ぽつりとつぶやく。
「それにしても、風音……よう主を支えてくれたの」
「……!」
暁狐が驚きに身をこわばらせる。
清秋はその仕草に、ゆるく目を細めた。
「そなたが黙しても、風音の声が語ってくれるよ。……あの仔は、そなたの心を大事に温めておるのじゃよ」
風音が鳴いた。まるで、肯定するかのように。
「私はな、暁狐。今でも信じておる。……そなたがこの国を救う『声』になると。仮面を纏おうが、沈黙を選ぼうが、かまわぬ。──そなたの中にある『真』だけが、大事なのじゃ」
その言葉に、暁狐の肩が震えた。
「……いずれ、そなたの前に、また『影』が現れるやもしれぬ」
清秋の目が鋭くなる。
「面を継ぐ者、剣を捨てられぬ者、政に蠢く者たち……。そなたが『仮面』を貫けば、彼らは再び寄ってくる。……そのとき、そなたはどうする?」
少年は、面の奥でゆっくりと目を閉じた。
そして、静かに懐から扇を取り出す。
舞扇──清秋が贈った、護身の刃。
それは、面の主が選び取った『言葉』のかわり。
そして、『覚悟』の証。
暁狐は、それを胸元に抱いたまま、うなずいた。
清秋はそれを見て、ようやく小さく笑った。
「……うむ。それでよい。そなたは、わしの弟子じゃ。そなたの『舞』が、いつかこの世を照らすと、わしは信じておるよ」
立ち上がる。
風が、白い髭を揺らした。
「そなたの道は、険しかろう。だが、そなたの背を守る者も、もうおるようじゃ」
そう言って、視線を屋敷の奥へと向けた。
そこには──忠晃と左近の姿。
そして、外を警戒の気配の中に、忠太の気配すら潜んでいる。
「……今宵は、穏やかに明けるだろうて」
清秋が歩み去っていったあと、暁狐はひとり、仮面の奥で空を仰いだ。
夕暮れの空に、ひとつ星が淡く浮かんでいた。
その下で、風音が静かに鳴いた。
──『主様、ここにおります』とでも言うように。
そして、夜が、京を包んでいった。
月が昇っていた。
白鐘家の隠れ屋敷──その中庭には紅葉した葉が風が吹くごとに散っていく。冷たさを増した風が面を撫でた。
面の少年──暁狐は、ひとりで二階の外を見える場所に陣取っていた。
清秋との対話のあと、誰にも何も言わず、二階のこの部屋で外を見ていた。
風音もまた、音もなく寄り添っている。白い毛並みをなびかせ、仮面の横に座り、同じように夜空を見上げている。
人語は交わさぬ。それでも、確かに分かち合えるものがあるようだった。
(──帰ってきた、はずなのに)
幼き日を過ごした京の地。
けれど、記憶にある景色はどれもぼんやりとして、遠い。人の顔も、声も、風景も、面の奥では霞んで見える。
それでも、確かに感じている。
誰も彼も、自分を『主』として見る目が変わっていた。
……まるで、仮面を通してしか、見えていないようだった。
(面を外せば、また──)
外したところで、何も戻るまい。
名も家も、失った日々は戻らない。
ただ、己が誰であるのかを知る者が、数人いるだけだ。清雅、清秋、そして……風音。
そっと手を伸ばし、風音の頭を撫でる。
温かい。生きている。傷ついても、逃げずに傍にいてくれる命。
その温もりが、いつのまにか仮面の内側まで沁み込んでいた。
(……私は、まだ、ここにいてもいいのか)
そう問いかけた心に、風が吹く。
冬の匂いをまとった風が、木枯らしを待つ庭を渡っていく。
風音が低く喉を鳴らした。まるで「大丈夫だよ」と言うように。
──人は、一人では生きられない。
そう、清秋は語った。
そして、清雅は命を賭して自身を守ってくれた。
言葉を選ばぬ忠太も、黙して隣にいてくれる左近も、決して軽んじることなどなかった。
皆が、自分という『仮面』を支えてくれた。
ならば──その思いに、応えるだけの者であろう。
静かに仮面を外す。
そして、そのまま縁側に腰を下ろすと、風音もひょいと膝に乗った。
金の瞳が、夜の空に向けられる。
(……明日も、戦だな)
そう呟いた唇は、わずかに笑みを浮かべていた。
影に呑まれぬよう、仮面を捨てず、けれど、己を失わず。
静かな決意が、夜の庭に溶けてゆく。
暁狐、十六歳初夏。




