第一話 継ぐものたち
第六章 風の記憶
第一話 継ぐものたち
晩秋の風が、遠く東から吹き抜けてくる。
江戸の空には薄曇りが広がり、白鐘家上屋敷の庭先にある紅葉が、その身を震わせていた。陽射しは鈍く、庭の池には落ち葉がいくつも浮かんでいる。
その縁に、ひとりの少年が佇んでいた。落ちる紅葉を拾い、池に浮かべている。
仮面をつけた姿──暁狐である。
年は十七。声はなく、身動きも少ない。だが、その姿には、春の嵐を越えてなお残った痛みと、今を生きる強さが宿っていた。
その隣には、白く小さな一匹の猫。
風音──仮面の少年を慕い、そして共に生きることを決めた存在。
彼女は仮面の視線に気づいたのか、小さく鳴いて見上げた。
(……風が変わった)
庭に舞い降りた風が、かすかに潮の香を含んでいるのに気づき、暁狐は胸の奥で何かが動くのを感じていた。季節の移ろいだけではない。白鐘家にも、確かな変化が訪れようとしている。
「主様、失礼いたします──」
庭の向こうから声がして、屋敷付きの下男が頭を下げた。
この男──数ヶ月前より屋敷に入った新参であり、当初は仮面の少年に怯えた様子も見せていたが、最近では多少馴染んだらしい。
「先ほど、家老様よりお言葉がございました。忠晃様、お戻りとのことでございます」
忠晃が戻ってきた。
春の襲撃後、政の混乱を抑えるため、宗近と共に外を駆けずり回っていた彼が、ようやく帰還したのだ。
(……皆が、揃う)
──その時の少年の胸には、微かな予感があった。
「それから、御家老様が、皆様お集まりゆえ、主様もお越しくだされとのよし」
──白鐘の御家騒動の決着。
襲撃を受け、そして清雅が長く床に伏したこの半年。宗近らは、混乱した家中をまとめるべく尽力してきた。そして今、家の『次代』を巡る正式な決断が下されるというのだ。
暁狐はゆっくりと縁側に座り、風音の頭を撫でる。
その指先には、わずかな震えがあった。仮面の下の瞳は、いつもより深く揺れていた。
(……私は、本当に、継ごうと望んでいるのだろうか)
──私は、白鐘家の実子ではない。
そのことを、尚成も、宗近も、忠晃も、知っている。
清雅に拾われ、生かされ、育てられた──それだけの存在でしかない。
けれど、今の自分は、誰よりも白鐘の「影」として動いてきた。
影であることを選び、父の名を背負わず、ただ静かに剣を振るってきた。
風がまた、吹いた。
風音が小さく鳴いて、少年の膝に前足を乗せる。
そのぬくもりに、暁狐はそっと顔を伏せた。
(……風音。其方がいてくれて、よかった)
その時、屋敷の奥で襖が開く音がした。
「──暁狐様。海藤でございます」
堂々たる足音が、廊下を伝ってくる。
それは、白鐘家の中でもっとも古い影──宗近その人の訪れを告げていた。
襖が開かれ、静かに入ってきたのは宗近であった。武士としての威厳を崩さぬまま、膝を折って座し、仮面の少年を見据える。
「主様、皆の者が揃いました」
返答の代わりに、暁狐は一礼して立ち上がる。奥座敷に入る。
仮面越しの視線が、部屋の奥へと向けられる。
奥座敷には、白鐘家の主要な者たちが顔を揃えていた。家老・海藤宗近、そして尚成、忠晃、武元。彼らの前に清雅が座す。暁狐は皆とは少し離れた所に座した。傍らには風音が大人しく座っている。
「よう来たな、暁狐」
清雅の声が、いつもより柔らかく感じられた。夏の暑さが過ぎ、肌寒い秋風が屋敷を撫でる。どこか、すべてが落ち着いて見えた。
──だが、穏やかさの裏に、決意の場がある。
暁狐が座した瞬間、宗近が低い声で口を開いた。
「清雅様、家老として進言いたします。白鐘家の次期当主の件、そろそろご決断を」
その一言で、室内の空気が張り詰めた。
清雅は、一周視線を宙に泳がせ、そして、穏やかに微笑む。
「……うむ。ならば、ここにて命ずる」
彼は一度、仮面をつけた暁狐に目をやり、そして尚成を見た。
「白鐘家の嫡男は、尚成──綾乃との婿にして、我が家をよく支えてくれた。よって、尚成に次の白鐘を任せることにした」
尚成は静かに頭を垂れた。宗近もそれに倣い、深く礼をする。
「尚成よ、白鐘は高家筆頭、半端な覚悟ではできぬ。これからも毎日が学びぞ。公家は手強いぞ」
忠晃が顔を上げ、暁狐に視線を送った。何か言いかけたが、口を噤んだ。
(私ではない……)
暁狐の胸に、安堵と同時にわずかな痛みが走った。だが、それは予期していたことでもある。
──私は、白鐘の者ではない。
だからこそ、ここにいるのだ。
「尚成、これよりはお主が家を守る柱となる」
清雅の言葉に、尚成は再び「はっ」と応えた。
その時、不意に襖が勢いよく開いた。
「お、おい太郎丸、待て!」
忠太の声とともに、大型の犬──太郎丸が勢いよく座敷へ飛び込んできた。仮面の少年の傍らに走り寄ると、その足元にぴたりと座り込み、尻尾をぶんと振る。
場の空気が一瞬、和らいだ。
忠太が慌てて入ってきて、皆の前で恐縮しつつ頭を下げる。
「申し訳ありませぬ! おい太郎、また勝手に……」
だが清雅は微笑んで言った。
「よい。太郎丸も、家の者だ」
忠太はほっと息をつき、太郎丸の頭を撫でる。風音も軽く尻尾を揺らし、隣に並んだ犬に寄り添うようにすり寄った。
秋の陽が障子越しに射し込み、穏やかな光が二匹の動物を照らしていた。
それを見ていた忠晃がぽつりと呟く。
「……この家は、守りたがるものが多いな」
それは、誰にともなく告げられた言葉だったが、仮面の少年の心には確かに届いていた。
夕刻、空が群青に染まる頃。
白鐘家の書院に、一人の少年が大の字になっている。仮面をつけたまま、ただ黙って、天井を見つめている。その足元には、白い猫が寄り添っていた。
外では、風が吹く。冷たく乾いた風が、枝を揺らし、草を撫でる。あの春の夜に似ていながら、どこか違う。もう、あの時の少年ではない。十七になった今、彼の背中には、確かに「主」の影が宿っていた。
「……江戸は、変わらぬな」
ぽつりと漏れた声は、仮面の内側からではなかった。傍らに立っていた清雅が、静かに言葉を置いたのだ。
暁狐はゆっくりと体を起こす。そして、仮面に手をかけ、外す。
その素顔は、淡い月明かりに照らされ、どこか儚げで、それでいて決意に満ちていた。
「父上」
低く、確かに紡がれた声に、清雅は目を細めた。
しばし沈黙ののち、仮面を外したその顔をじっと見つめ──
「……ようやく、聞けたな。その一言を、どれほど待ち望んだか」
暁狐は頷き、そして小さく息を吐いた。
「父が誰であろうと、もうどうでもいいのです。ただ、私が仰ぎ見るのは、父上……あなたしかいない」
それは叫びではなく、静かな吐露だった。すでに涙は枯れている。けれど、胸の奥から溢れ出る想いは、確かに清雅に届いていた。
「私は……白鐘の影として生きる。あなたの傍にいて、あなたを支えたい。例え、陽の当たる場には立てなくとも」
風音が、にゃあと小さく鳴いた。まるでその言葉に同意するかのように。
清雅はしばし沈黙し、そして微かに頷いた。
「ならば──その意志、父として、家の主として、受け取ろう」
月が昇る。暗雲の晴れた家に、猫と犬が静かに寄り添い、新たな絆の光が宿る。
暁狐、十七歳晩秋。




