第六話 沈黙の涙
第五章 暁に立つ
第六話 沈黙の涙
奥座敷の襖が閉まったその刹那、清雅は仮面の少年の背を見送ると、わずかに口元を引き結び、踵を返した。
「宗近──来るぞ」
襖の向こうから、襲い来る気配。音もなく忍び寄るのは、刀を持つ者の気配ではない。だが、それゆえに危うい。殺意は研ぎ澄まされた細糸のように、空気に溶けていた。
「清雅様、念のためこの場で迎え撃ちますか」
宗近が問う。軽い頷きで応じた清雅は、無言のまま一歩前へ出た。結界も術もない、ただの屋敷──だが、ここは我が子の居場所。敵に一歩たりとも踏み込ませてはならぬ。
廊下の奥、障子が音もなく開いた。
──来た。
影のような姿が一つ、廊下に滑り込む。全身を覆う黒装束。顔の下半分を覆い、瞳だけがぎらりと光る。身のこなしは軽やかで、まるで床に触れていないかのようだ。
清雅は一歩も動かず、ただ睨む。
「白鐘清雅……やはり、ここにいたか」
低い声が漏れる。その声音に、清雅は眉をひそめた。
「お前は……水無瀬ではないな。だが、あの仮面を継ぐ者か」
襲撃者の胸には、刺青が見える。
歪んだ狐面が彫られていた。額に裂け目のある歪な面。
「知っているかのような口ぶりだな」
「知っているとも。……あれは、私が斬り伏せた。だが、お前は……そのただの影法師か」
清雅の声は冷たい。だが、怒りではない。研ぎ澄まされた緊張だけが、その声に宿る。
「吾子を狙う者には、容赦はせぬ」
次の瞬間、空気が割れた。
襲撃者が跳ねるように躍り出る。刃は細身の忍び刀、風を裂くように清雅へと伸びる。
「宗近!」
合図とともに、宗近が飛び出した。槍のような長物はなく、短い脇差一本。狭い屋敷の中ではそれが最も動きやすい。
金属が打ち合う音。宗近の一太刀を襲撃者が躱し、反撃の一閃が襲う。
だが、その背後に清雅がいた。
「甘い」
静かな声とともに、清雅の太刀が走る。
相手は反応した──清雅の胸に深々と傷を負与えた。
その一刀が、影の命取りになった。
宗近脇差が、影の背から胸にまで貫いた。
「く……っ!」
それでも、襲撃者は身を翻して距離を取った。だが、その目は笑っていた。
「さすがだ。貴様を倒せば、あの子を再び──いや、今度こそ……」
清雅の眼差しが鋭くなる。
「貴様、あの子の何を知る」
「知っているさ。……あれは、仮面の器。我らが主のための、捧げられるべき『かたち』」
「くだらぬ」
清雅の声音は冷酷だった。
「『かたち」ではない。──あれは、私の子だ」
影の刀が転がる音を立てて床を滑って止まる。
「……ぐ、あ……!」
血が、畳を濡らす。清雅の刀が静かに納められた。
「……終わったか」
宗近が肩を落とす。清雅はひとつ息を吐いた。
「まだ、始まりにすぎぬ……この者の背後に、あの仮面がある」
宗近は頷いた。
「水無瀬……」
「あるいは、もっと別の『黒き意志』がな」
ふと、清雅の横顔に苦味が滲む。過去が蘇る。あの炎の夜、仮面の男、水無瀬と対峙した日──そして、己のすべてを失った日。
「我が子には、もう……あの影を纏わせはせぬ」
その言葉に、宗近は何も返さなかった。
清雅が崩れるように、座る。忠太が慌てて医師を呼びに行く。
ただ、沈黙の中で──朝の気配が、屋敷を包んでいた。
朝の気配が、障子の向こうにうっすらと漂っていた。
仮面の少年は、静かに膝を折って座していた。背筋を伸ばし、両手は膝の上。
だが、その瞳は、夜を越えてなおなお、醒めぬままであった。
昨夜、何者かが白鐘家を襲った。
その騒ぎの中、忠太がかすり傷を負い、太郎丸が敵を噛み、宗近と清雅が剣を抜いた。
──そして自分は、面のままに逃げ、そして立ち止まっただけ。
戦いの詳細は語られなかったが、襲撃者は斃され、混乱も収まりつつある。
しかし、それで全てが済んだわけではない。
「……」
暁狐は仮面を外さなかった。
いや、外せなかった。否、それが──己に課した『覚悟』であった。
(声を発さぬまま、面を被ったまま、何が守れるか)
誰にも、誓ってなどいない。
けれど、己にだけは誓ったのだ。
少年が手にしたのは、力でも血筋でもない。ただ、「迷いを抱いたまま進む」という、脆く頼りない自制心であった。
仮面を被った主。
その異様な姿に、屋敷の者たちは戸惑いと困惑を隠さない。
けれど、声を上げる者はない。誰もが、当主たる清雅の『承認」』を見たからだ。
(……ならば、今は耐えるしかない)
廊下の向こうから足音がした。静かに、けれど確かな足音だ。
やがて忠太の声が障子越しに届く。
「坊……いや、主様。宗近様が広間にて、皆の前で話をなされると。参られますか」
忠太の声には、わずかな躊躇いがあった。
“主様”という呼びかけ。──それは、自身の中でもまだ馴染まぬ響きなのだろう。
暁狐は無言で立ち上がる。扇を手に取り、そっと懐に入れる。
仮面のまま、足音もなく廊下を進み出す。
途中、左近と擦れ違った。
少年の姿を認めて、彼は一瞬、目を丸くした。けれどすぐに頭を垂れる。
「……御無事で、何よりです」
その言葉に、暁狐は黙したまま頷いた。
面越しの視線が、左近の顔を掠めて過ぎていく。
──その視線が、幼い頃とは変わっていることを、左近は気づいていた。
広間にはすでに何人かの家臣が集まっていた。
宗近が一歩前に出て言う。
「昨夜の襲撃は、未然に防がれた。詳細は追って伝える。が、清雅様が討たれた敵の遺体を見聞しておる」
ざわめきが走る。
その中で、仮面の少年が音もなく歩み出ると、皆の息が止まった。
その異様さ、異形さ──面をつけ、沈黙を保つ若き主の姿。
宗近がそれを静かに受け止め、そして頭を垂れた。
「……主様も、お聞き届けを」
その一言に、家臣たちも次々と頭を下げる。
ただし、その中にはまだ懐疑を隠せぬ者もいた。沈黙の主など、偽りの主に過ぎぬと。
(それでもいい)
暁狐は思う。
すべてを語れば、それは『真実』として重くのしかかる。
己の出自を語れば、この場で口にすれば、ただちにこの家に災いが及ぶ。
ゆえに、今は──黙して、耐えよ。
「…………」
扇を胸元でそっと開く。
清秋から受け取った、護身用の舞扇。その中骨に仕込まれた刃の存在が、いまはただの象徴に思えた。
『力」を示すのではなく、『覚悟』を示すための──面と共に歩む決意の証。
沈黙の主として、ただ立つ。
それでも、見上げる空はあまりにも高く、風はまだ冷たい。
──そのすべてを、背負って立つのだ。
面の奥で、少年はそっと目を閉じた。
この夜を超え、次の朝が来るまで──己が主であり続けるために。
広間で集まりの後、宗近は暁狐に清雅の負傷を告げた。
胸に斬りつけられたと。幸い内臓には至っていない。すでに医師の……
だが、少年は宗近の言葉を最後まで聞いていなかった。
足音を立てずに長い廊下を走る。
そして、面の少年は、清雅のもとへ駆け戻ってきた。
清雅の上半身は白い包帯に覆われ、ところどころ滲む赤が、痛みの在処を物語っていた。
肩で息をしているが、平然を装っている。
暁狐は手負いの父を見つけた瞬間、胸の奥で、何かが激しく軋む音がした。
(……何故、傷つく。何故、私が傍にいたのに)
硬直したように立ち尽くす。目だけが大きく揺れる。
だが、声はない。叫びもない。ただ、拳を握る。冷笑を浮かべよう顔を歪めた。
そのとき、清雅が顔を上げた。
額に汗を浮かべながら、笑っていた。
「……其方が無事でよかった」
声に滲むのは労りと、誇り。
暁狐はその言葉に、膝から崩れ落ちた。
「……っ……う……」
喉の奥から、押し殺した嗚咽が漏れた。
少年の目に涙が溢れる。
それは、あの日──すべてを失った晩に流したきり、封じてきたもの。
「もう、いい……もう、抑えずともよい」
清雅が手を伸ばす。暁狐はその手にしがみついた。
「……父上……父上っ……!」
初めての呼び名だった。
それは、血を分けた者に向けた言葉ではない。
だが、この十年。共に過ごした日々の重さが、暁狐の胸を突き動かしていた。
「嫌だ……もう……一人にしないで」
「……それは、私もだ」
清雅の声は静かだった。
揺れる灯のように、温かく、確かなものだった。
「其方が面をつけ、沈黙を選び、己を律しようとしたその意志、私は知っている」
「……でも……私は、まだ……」
泣きじゃくりながら、言葉が途切れる。仮面がずれて、涙に濡れた頬が覗く。清雅は手を伸ばし、面の紐を解き、面は静かに滑り落ちた。
「父上……父上……」
そこにはわずか六歳の幼子がいた。
親を失い、全てを失った幼子が泣いている。
面の下の少年は、ただの幼子だった。血を流し、剣を取り、沈黙を選びながらも、心は──誰よりも、傷ついていた。
清雅は、ゆっくりとその肩を抱き寄せる。
「よいのだ。泣け。怒れ。其方は人だ。まだ幼き者だ。そして、私の大事な子だ」
暁狐は、その胸に顔を押しつけ、嗚咽を漏らし続けた。
それは、あの夜──肩に背負われたあの夜と同じ。
誰にも言えなかった痛みが、今ようやく解けていく。
宗近が一歩退き、膝をつく。
尚成も、深く頭を垂れた。
忠太がぽつりと呟く。
「……ずっと、抑えてたんだな」
その言葉に、誰も返せなかった。
ただ一つ、仮面が床に落ちて転がった。
光を受けて、かすかに揺れたその面は、
これまで背負ってきた沈黙そのものだった。
暁狐、十六歳春。




