表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
影越しの使い 仮面の問い  作者: 月城玉菜
第五章 暁に立つ
29/45

第五話 仮面の剣

第五章 暁に立つ


第五話 仮面の剣


 朝の冷気が、屋敷の敷石を淡く濡らしていた。春といえど、夜明け前の空気はまだ冬の残り香を含み、吐息は白く空へ消える。


 面の少年──暁狐あぎとは、誰もいない廊下を歩いていた。足音ひとつ立てず、面の奥に宿る瞳は、廊下の向こうを静かに見据えている。


 屋敷の空気が変わった。


 それは、藤吉が殺されたあの夜から──いや、もっと前からかもしれぬ。言葉にはできぬ、ひりついた気配。屋敷に染みつくような、ざらついた空気。


 それにいち早く気づいたのは、風音だった。


「……ニャッ」


 廊下の先、仄暗い陰に、白い影がするりと現れた。風音が暁狐の足元へとすり寄る。だが、その尻尾は警戒心に満ち、毛を逆立て、空気の一部を威嚇するかのように左右に揺れていた。


 (……また、来ている)


 少年は足を止める。庭の向こう、見えぬ場所に、確かに『気配』がある。見知らぬ誰かの、だが、明らかに人のものではない、どこか捻じれた存在の気。


(……まだ動く時ではない)


 手を腰の晨星にかけて、しかしやめる。


 今は、黙して待つとき。己が何者かを知らぬ者の前では、なおさら。動けば『理由』を問われ、語れば『立場』を失う。


 風音がふたたび鳴いた。音のない廊下に、彼女の声だけが響いた。


 暁狐は振り返らずに歩を進める。


 沈黙のまま、面の主は、剣の気配を帯びてゆく。



「……おい、太郎丸。やっぱ変だぞ」


 忠太は太郎丸の頭を撫でながら、小さく呟いた。

 縁側の端に腰を下ろし、耳を澄ませている。太郎丸は忠太の足元に伏せ、耳をぴくぴくと動かしていた。


 この犬も、何かを感じている。


 藤吉が斃れたあの夜から、屋敷に潜む『何か』がはっきりと輪郭を得てきている。目には見えぬが、肌が覚える。不穏な気が、じわじわと忍び寄ってきていた。


「……ま、暁狐様が動かねぇうちは、俺の役目ってこったな」


 忠太は立ち上がると、庭の端へ目を遣った。


 空は白み始めている。だが、その白さが妙に薄く、色を失っているように感じる。まるで、何かが夜の闇に染み出し、空までも侵食しているかのようだ。


 太郎丸が一声、低く唸った。


「おっと……お前さんも感じたか」


 忠太は庭の塀の上に目を向ける。誰もいない。だが、誰かが『視ていた』気配だけが、ほんのわずかに残っていた。


(来る……)


 その確信が、胸の奥で鈍く灯った。



 尚成は、少年を『視て』いた。


 部屋の障子の隙間から、わざとらしいほど真っ直ぐな目で、何を思うでもなく、ただ『測って』いる。


 あれが、あの方の──


 心のうちに渦巻くものは、多くあれど、言葉にはせぬ。ただ、じっと視る。あの少年の沈黙が何を守ろうとしているのか、その仮面の下に何を抱いているのか。


……だが、それが尚成にとって不安なのだ。


 何も語らぬ者ほど、時に、最も多くを知っている。


 暁狐は中庭を渡っていた。


 扇はまだ懐にある。あの刃が、肌に冷たく押し当たる感覚が、今の自分を『あるじ』であると教えてくれる。


 言葉は封じた。未熟である自分が、語っていいことなど、今はひとつもない。だからこそ、動くのだ。見る者に、『何者であるか』を示すために。


 そのときだった。


 庭の向こう──木立の陰に風音が立ち上がる。


「……!」


 風音が低く体を低くし、尾を左右にふる。先ほどとは違う。より鋭く、より明確に、何かを『狙って』いる目。


 (来た──)


 暁狐は、晨星の柄に静かに手を添えた。


……だが、何も起きなかった。


 庭は静かで、風の音だけが残された。

 暁狐は晨星から手を離し、仮面の奥で眉を寄せる。


(殺気は確かにあった。けれど……姿は、見せない)


 それが、逆に不気味だった。



 昼の陽が、屋敷の瓦を鈍く照らしていた。

 春の空は晴れていながら、風はまだ肌を切る冷たさを持つ。

 門前に足軽が並び、家臣たちも片膝をつく。使用人たちは後ろに控え、緊張した空気が漂っている。


 尚成と宗近は式台に座していた。


 面の少年──暁狐あぎとはまた、廊下の柱の影に立っていた。

 面の下、その瞳は閉じられていたが、耳はすべてを聞いていた。

 門の外から、馬蹄の音が近づく。緩やかな、けれど確かな足取り。

 それは、誰よりも聞き慣れた、胸を満たす気配だった。


(……帰ってきた)


 静かに目を開ける。

 廊下の敷居を踏みしめ、足音をひとつも立てず、玄関へと歩を進める。


 足軽がざわめきを呑み込むように背を正す。尚成が清雅に声をかけようとした時、尚成の隣に暁狐が座る。


 その瞬間──場の空気が、ふっと変わった。


 少年は、ただ一礼した。

 深く、静かに、けれど確かな意志を込めて。


 面は言葉を持たぬ。

 だがその沈黙は、誰よりも雄弁だった。


 馬から下りた男──白鐘清雅は、動きを止めた。

 一瞬だけ、仮面の少年に視線を注ぐ。

 その涅色 《くりいろ》の瞳が細められる。


「…………」


 言葉は交わされない。

 けれど、仮面の内で少年の瞳がわずかに揺れた。

 視線を伏せ、また深く、頭を垂れる。


 それは、沈黙のままの「おかえり」だった。


 清雅は、小さく頷き──それきり何も言わず、屋敷の中へと足を運ぶ。

 少年もまた、その背を追わず、静かにその場を後にした。


 すれ違いざま、仮面越しに見た背は、思いのほか痩せていた。

 けれど、確かにそこに『還るべき者』はあった。


 風が吹いた。

 門が閉まり、屋敷の空気が少しだけ、緩んだような気がした。


 そのまま部屋に戻ろうとした、その時──ふいに、廊下の奥から現れた人影があった。

 宗近である。


「……戻られましたね、殿が」


 宗近は、暁狐の面越しに視線を注いだ。

 何も言わず、ただ静かに頷く少年。


「少し、話せますか」


 その声には、責めも咎めもなかった。ただ、事実を伝え、意思を確かめようとする温度。

 暁狐は頷き、障子の向こう、控えの間へと招き入れる。


 茶を淹れる宗近の所作は、まるで風のように穏やかだった。


「……私が見誤っていたのかもしれません。殿が留守の間に、我々がすべきことは、暁狐様を疑うことではなかったはずだと──今になって思います」


 暁狐は返事をしない。ただ、正面に正座し、宗近の言葉を仮面越しに受け止めていた。


「それでも、貴方様の沈黙が皆を不安にさせていることもまた、事実です。……どうか、それだけはご理解を」


 宗近の声が静かに落ちる。


 だが、暁狐はその言葉に動じなかった。仮面越しのまなざしは、むしろ冷ややかだった。


(理解している。だが、まだ『語る』時ではない)


 宗近が手にした湯飲みの湯気が、仮面の表面に微かに触れる。

 しばしの沈黙が、二人の間に流れた。


「……今宵、警備を固めます。屋敷の周囲に、また気配がありました」


 その言葉に、仮面の奥の瞳がわずかに鋭くなる。宗近はそれに気づいた。


「やはり、気づいておられましたか」


 暁狐は頷く。声にせずとも、それで十分だった。


 障子の外で足音がした。今度は重く、ゆっくりとした歩み──


 清雅だった。


 宗近が、襖を開ける。


「……お帰りなさいませ」


「うむ」


 静かな返事とともに、清雅が現れた。

 仮面の少年は、一礼だけして、立ち上がった。


「……暁狐」


 その声に、仮面の下の表情が、かすかに揺れた。

 だが、少年は何も言わず、ただ深く頭を垂れ──その場を後にした。


 廊下の陰に身を隠しながら、背中で清雅の気配を感じる。


──あの声が、痛いほど懐かしい。そのまま抱きしめてほしい、子どもの頃のように。


 それでも、今はまだ、応えられない。

 それが、自ら選んだ『沈黙』の覚悟だった。


 廊下の隅に目をやると、そこに忠太の姿があった。

 彼は襖の影に身を潜め、ひとり、拳を握っている。


 その視線の先は、清雅ではなく、尚成の部屋だった。


(……何かある)


 暁狐はその様子にわずかに眉を寄せた。

 忠太は、何かを隠している。


 屋敷のどこかで、静かに進行する歪み──

 その中心に、誰かが立っている。


 仮面の少年は、廊下をゆっくりと歩き出した。

 扇は手の中。いつでも開けるように。


 動くべき時が、近づいていた。



 陽が落ちて、屋敷の灯がぽつぽつと灯り始める頃。

 白鐘家上屋敷の空気が、わずかに変わった。


 少年──暁狐は、廊下の突き当たりから庭を眺めていた。

 風音が足元に座り、耳をぴくぴくと動かしている。


 (……また、来ている)


 警戒の気配は、昼よりもはっきりしていた。

 柊の葉が妙にざわつき、軒先の影に『何か』が潜んでいる。


 風音が小さく鳴く。怯えではない。警戒だ。


 そのとき──


「……坊」


 声がして、暁狐が振り返ると、忠太が立っていた。

 その表情にはいつもの軽さがなく、強い覚悟が宿っている。


「今夜、見張りを強化するって話だったがな……あいつら、どこか気が緩んでる。まるで、殿が戻ったことで全部終わったとでも思ってるみてぇだ」


 暁狐は動かずにそれを聞いていた。


「けどな、俺は……あの夜を忘れてねぇ。藤吉の……声を、血の匂いを」


 忠太は拳を握った。


「だから、今夜は俺が屋根の上で見張ってる。誰かが来るなら、まず俺が喉笛を喰らいつくつもりでいる」


 暁狐の肩が、わずかに動いた。


「坊が黙ってる理由、全部はわかんねぇ。けどな──」


 忠太が顔をあげる。


「それでも、守らなきゃなんねぇもんがあるってのは、わかる」


 その言葉に、暁狐はゆっくりと頷いた。

 言葉を交わさずとも、通じるものがある。


「じゃあな。今夜は……風が吹くぜ」


 忠太は軽く笑って、闇の中に消えていった。


──夜が深まる。


 暁狐は部屋に戻り、舞扇を膝に乗せていた。

 静けさが包む中、風音が膝の上に丸くなる。


 仮面の奥、瞳が細められる。


(……来る)


 その確信が、胸に根を張っていた。


 そして──


 闇が、動いた。


 屋敷の外れ、物陰から、音もなく影が滑り込む。


 複数だ。気配が三つ……いや、四つ。

 どれも訓練されている。足音がない。殺意だけが、風に混じって流れ込む。


(……あの夜と、同じだ)


 扇を手に、暁狐は立ち上がる。

 仮面の中の瞳に、冷ややかな光。


 風音が「シャッ」と威嚇音を漏らす。


 障子をすべて閉め、部屋の灯りを消した。

 夜の闇に溶けるように、身を伏せる。


──庭を渡る影。


 一人は屋根の上。もう一人は裏手。

 さらにもう一人が、正面の障子を開けかけた──その瞬間。


 「……!」


 晨星が抜かれ、仮面の少年が躍り出た。

 刃は月明かりを帯び、一直線に影を裂く。


 「くっ……!」


 気配が跳ねた。声を上げたのは一人だけ。

 それ以外の者は、声を殺して応戦の構え。


「どうして……子供のはず……」


 ──仮面の少年は答えない。

 ただ、静かに剣を構え直す。


 廊下を跳ねる影。屋根の上から弓の音。


 暁狐は扇を投げた。

 夜の空間に扇がひらき、矢の軌道を逸らす。投げた扇は地に落ち、月明かりに一度だけ煌めいた。

 舌打ちをした影が次矢をつがえようとした時、影の胸に火矢が刺さる。

 火は影の装束に燃え移り、影は悲鳴をあげて転がりまわる。


「……っ!」


 敵の一人が腰を落とし、退く。と、もう一つ影が飛び込んできた。


 唸り声をあげ、敵に腕に噛み付いたのは、太郎丸であった。

 太郎丸は体格も顎の力も申し分ない。噛みついたまま、体を捩じって振り回した。

 敵はたまらず太郎丸を蹴り飛ばした。


 だが、背後に別の刺客の気配。


(……そこだ)


 仮面の少年は、身を翻し、晨星で逆手に斬り払う。

 影が飛び退く。


「……やはり、殺すしかないか」


 敵の声が、初めてまともに響いた。


 だが、そこに──


「やかましいわァ!!」


 屋根の上から、忠太の声とともに、煙玉が放たれた。

 屋敷の中に、瞬く間に白煙が満ちる。


 「坊!! 奥へ!!」


 忠太の叫びに、暁狐は頷く。

 風音が先に走り、暁狐は後を追った。

 晨星を片手に、扇をもう一方に。


 「主を狙うとは、どこの阿呆だッ!!」


 忠太が叫びながら飛び降り、敵と交錯する。

 太郎丸は逃げた敵を追う。

 混乱の中、暁狐は奥座敷へと逃れる。


 仮面の奥で、暁狐は眉をひそめた。

──騒がしいはずの屋敷が、あまりに静かすぎる。

 あれほどの物音と殺気があってなお、他の家臣たちは姿を見せぬ。

 誰も、来ない。


(……気づいていて、動かない?)


 忠太が一度、屋根の上から何かを見たあと、すぐに引いたことを思い出す。

 その眼差しにあったもの──それは、怒りでも焦りでもなく、「了解」だった。


 (……清雅殿が、『動かすな』と命じた……?)


 もしそうなら、すべてを知ったうえで、黙して見守られている。

 仮面のまま、『主』として、この夜を越えよと。


 そこに、清雅が立っていた。


 「……暁狐」


 その声に、初めて仮面の少年が、ほんのわずか立ち止まった。

 だが、わずかに首を振る。


(今はまだ、語る時ではない)


 清雅が頷く。


「ならば、我が守る。──我が子が、面のままでも」


 その言葉に、少年の手が震えた。


 そして──そのまま背を向けたまま、面の少年は部屋を出ていく。


 宗近が後から駆けてきて、清雅に問うた。


「お守りするのですか……あの姿のままの」


 清雅は言った。


「……あれが、今の『主』であり、吾子だ」


 その背に、夜の風が吹き抜ける。


──主が、沈黙をもって立つならば。

 その声を誰も知らぬとしても、我らが剣となる。


 静かなる面が、夜の中に光った。

 嵐は、まだ、始まったばかり──


 暁狐、十六歳春。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
やはり家臣は暁狐くんのことをよく思ってはいなかったようですね。敵が襲撃する中、暁狐くんは清雅さんや家臣たちの前で、「当主」としての姿を見せつけることができるのか? 楽しみです。
2025/06/19 20:23 退会済み
管理
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ