第五話 仮面の剣
第五章 暁に立つ
第五話 仮面の剣
朝の冷気が、屋敷の敷石を淡く濡らしていた。春といえど、夜明け前の空気はまだ冬の残り香を含み、吐息は白く空へ消える。
面の少年──暁狐は、誰もいない廊下を歩いていた。足音ひとつ立てず、面の奥に宿る瞳は、廊下の向こうを静かに見据えている。
屋敷の空気が変わった。
それは、藤吉が殺されたあの夜から──いや、もっと前からかもしれぬ。言葉にはできぬ、ひりついた気配。屋敷に染みつくような、ざらついた空気。
それにいち早く気づいたのは、風音だった。
「……ニャッ」
廊下の先、仄暗い陰に、白い影がするりと現れた。風音が暁狐の足元へとすり寄る。だが、その尻尾は警戒心に満ち、毛を逆立て、空気の一部を威嚇するかのように左右に揺れていた。
(……また、来ている)
少年は足を止める。庭の向こう、見えぬ場所に、確かに『気配』がある。見知らぬ誰かの、だが、明らかに人のものではない、どこか捻じれた存在の気。
(……まだ動く時ではない)
手を腰の晨星にかけて、しかしやめる。
今は、黙して待つとき。己が何者かを知らぬ者の前では、なおさら。動けば『理由』を問われ、語れば『立場』を失う。
風音がふたたび鳴いた。音のない廊下に、彼女の声だけが響いた。
暁狐は振り返らずに歩を進める。
沈黙のまま、面の主は、剣の気配を帯びてゆく。
「……おい、太郎丸。やっぱ変だぞ」
忠太は太郎丸の頭を撫でながら、小さく呟いた。
縁側の端に腰を下ろし、耳を澄ませている。太郎丸は忠太の足元に伏せ、耳をぴくぴくと動かしていた。
この犬も、何かを感じている。
藤吉が斃れたあの夜から、屋敷に潜む『何か』がはっきりと輪郭を得てきている。目には見えぬが、肌が覚える。不穏な気が、じわじわと忍び寄ってきていた。
「……ま、暁狐様が動かねぇうちは、俺の役目ってこったな」
忠太は立ち上がると、庭の端へ目を遣った。
空は白み始めている。だが、その白さが妙に薄く、色を失っているように感じる。まるで、何かが夜の闇に染み出し、空までも侵食しているかのようだ。
太郎丸が一声、低く唸った。
「おっと……お前さんも感じたか」
忠太は庭の塀の上に目を向ける。誰もいない。だが、誰かが『視ていた』気配だけが、ほんのわずかに残っていた。
(来る……)
その確信が、胸の奥で鈍く灯った。
尚成は、少年を『視て』いた。
部屋の障子の隙間から、わざとらしいほど真っ直ぐな目で、何を思うでもなく、ただ『測って』いる。
あれが、あの方の──
心のうちに渦巻くものは、多くあれど、言葉にはせぬ。ただ、じっと視る。あの少年の沈黙が何を守ろうとしているのか、その仮面の下に何を抱いているのか。
……だが、それが尚成にとって不安なのだ。
何も語らぬ者ほど、時に、最も多くを知っている。
暁狐は中庭を渡っていた。
扇はまだ懐にある。あの刃が、肌に冷たく押し当たる感覚が、今の自分を『主』であると教えてくれる。
言葉は封じた。未熟である自分が、語っていいことなど、今はひとつもない。だからこそ、動くのだ。見る者に、『何者であるか』を示すために。
そのときだった。
庭の向こう──木立の陰に風音が立ち上がる。
「……!」
風音が低く体を低くし、尾を左右にふる。先ほどとは違う。より鋭く、より明確に、何かを『狙って』いる目。
(来た──)
暁狐は、晨星の柄に静かに手を添えた。
……だが、何も起きなかった。
庭は静かで、風の音だけが残された。
暁狐は晨星から手を離し、仮面の奥で眉を寄せる。
(殺気は確かにあった。けれど……姿は、見せない)
それが、逆に不気味だった。
昼の陽が、屋敷の瓦を鈍く照らしていた。
春の空は晴れていながら、風はまだ肌を切る冷たさを持つ。
門前に足軽が並び、家臣たちも片膝をつく。使用人たちは後ろに控え、緊張した空気が漂っている。
尚成と宗近は式台に座していた。
面の少年──暁狐はまた、廊下の柱の影に立っていた。
面の下、その瞳は閉じられていたが、耳はすべてを聞いていた。
門の外から、馬蹄の音が近づく。緩やかな、けれど確かな足取り。
それは、誰よりも聞き慣れた、胸を満たす気配だった。
(……帰ってきた)
静かに目を開ける。
廊下の敷居を踏みしめ、足音をひとつも立てず、玄関へと歩を進める。
足軽がざわめきを呑み込むように背を正す。尚成が清雅に声をかけようとした時、尚成の隣に暁狐が座る。
その瞬間──場の空気が、ふっと変わった。
少年は、ただ一礼した。
深く、静かに、けれど確かな意志を込めて。
面は言葉を持たぬ。
だがその沈黙は、誰よりも雄弁だった。
馬から下りた男──白鐘清雅は、動きを止めた。
一瞬だけ、仮面の少年に視線を注ぐ。
その涅色 《くりいろ》の瞳が細められる。
「…………」
言葉は交わされない。
けれど、仮面の内で少年の瞳がわずかに揺れた。
視線を伏せ、また深く、頭を垂れる。
それは、沈黙のままの「おかえり」だった。
清雅は、小さく頷き──それきり何も言わず、屋敷の中へと足を運ぶ。
少年もまた、その背を追わず、静かにその場を後にした。
すれ違いざま、仮面越しに見た背は、思いのほか痩せていた。
けれど、確かにそこに『還るべき者』はあった。
風が吹いた。
門が閉まり、屋敷の空気が少しだけ、緩んだような気がした。
そのまま部屋に戻ろうとした、その時──ふいに、廊下の奥から現れた人影があった。
宗近である。
「……戻られましたね、殿が」
宗近は、暁狐の面越しに視線を注いだ。
何も言わず、ただ静かに頷く少年。
「少し、話せますか」
その声には、責めも咎めもなかった。ただ、事実を伝え、意思を確かめようとする温度。
暁狐は頷き、障子の向こう、控えの間へと招き入れる。
茶を淹れる宗近の所作は、まるで風のように穏やかだった。
「……私が見誤っていたのかもしれません。殿が留守の間に、我々がすべきことは、暁狐様を疑うことではなかったはずだと──今になって思います」
暁狐は返事をしない。ただ、正面に正座し、宗近の言葉を仮面越しに受け止めていた。
「それでも、貴方様の沈黙が皆を不安にさせていることもまた、事実です。……どうか、それだけはご理解を」
宗近の声が静かに落ちる。
だが、暁狐はその言葉に動じなかった。仮面越しのまなざしは、むしろ冷ややかだった。
(理解している。だが、まだ『語る』時ではない)
宗近が手にした湯飲みの湯気が、仮面の表面に微かに触れる。
しばしの沈黙が、二人の間に流れた。
「……今宵、警備を固めます。屋敷の周囲に、また気配がありました」
その言葉に、仮面の奥の瞳がわずかに鋭くなる。宗近はそれに気づいた。
「やはり、気づいておられましたか」
暁狐は頷く。声にせずとも、それで十分だった。
障子の外で足音がした。今度は重く、ゆっくりとした歩み──
清雅だった。
宗近が、襖を開ける。
「……お帰りなさいませ」
「うむ」
静かな返事とともに、清雅が現れた。
仮面の少年は、一礼だけして、立ち上がった。
「……暁狐」
その声に、仮面の下の表情が、かすかに揺れた。
だが、少年は何も言わず、ただ深く頭を垂れ──その場を後にした。
廊下の陰に身を隠しながら、背中で清雅の気配を感じる。
──あの声が、痛いほど懐かしい。そのまま抱きしめてほしい、子どもの頃のように。
それでも、今はまだ、応えられない。
それが、自ら選んだ『沈黙』の覚悟だった。
廊下の隅に目をやると、そこに忠太の姿があった。
彼は襖の影に身を潜め、ひとり、拳を握っている。
その視線の先は、清雅ではなく、尚成の部屋だった。
(……何かある)
暁狐はその様子にわずかに眉を寄せた。
忠太は、何かを隠している。
屋敷のどこかで、静かに進行する歪み──
その中心に、誰かが立っている。
仮面の少年は、廊下をゆっくりと歩き出した。
扇は手の中。いつでも開けるように。
動くべき時が、近づいていた。
陽が落ちて、屋敷の灯がぽつぽつと灯り始める頃。
白鐘家上屋敷の空気が、わずかに変わった。
少年──暁狐は、廊下の突き当たりから庭を眺めていた。
風音が足元に座り、耳をぴくぴくと動かしている。
(……また、来ている)
警戒の気配は、昼よりもはっきりしていた。
柊の葉が妙にざわつき、軒先の影に『何か』が潜んでいる。
風音が小さく鳴く。怯えではない。警戒だ。
そのとき──
「……坊」
声がして、暁狐が振り返ると、忠太が立っていた。
その表情にはいつもの軽さがなく、強い覚悟が宿っている。
「今夜、見張りを強化するって話だったがな……あいつら、どこか気が緩んでる。まるで、殿が戻ったことで全部終わったとでも思ってるみてぇだ」
暁狐は動かずにそれを聞いていた。
「けどな、俺は……あの夜を忘れてねぇ。藤吉の……声を、血の匂いを」
忠太は拳を握った。
「だから、今夜は俺が屋根の上で見張ってる。誰かが来るなら、まず俺が喉笛を喰らいつくつもりでいる」
暁狐の肩が、わずかに動いた。
「坊が黙ってる理由、全部はわかんねぇ。けどな──」
忠太が顔をあげる。
「それでも、守らなきゃなんねぇもんがあるってのは、わかる」
その言葉に、暁狐はゆっくりと頷いた。
言葉を交わさずとも、通じるものがある。
「じゃあな。今夜は……風が吹くぜ」
忠太は軽く笑って、闇の中に消えていった。
──夜が深まる。
暁狐は部屋に戻り、舞扇を膝に乗せていた。
静けさが包む中、風音が膝の上に丸くなる。
仮面の奥、瞳が細められる。
(……来る)
その確信が、胸に根を張っていた。
そして──
闇が、動いた。
屋敷の外れ、物陰から、音もなく影が滑り込む。
複数だ。気配が三つ……いや、四つ。
どれも訓練されている。足音がない。殺意だけが、風に混じって流れ込む。
(……あの夜と、同じだ)
扇を手に、暁狐は立ち上がる。
仮面の中の瞳に、冷ややかな光。
風音が「シャッ」と威嚇音を漏らす。
障子をすべて閉め、部屋の灯りを消した。
夜の闇に溶けるように、身を伏せる。
──庭を渡る影。
一人は屋根の上。もう一人は裏手。
さらにもう一人が、正面の障子を開けかけた──その瞬間。
「……!」
晨星が抜かれ、仮面の少年が躍り出た。
刃は月明かりを帯び、一直線に影を裂く。
「くっ……!」
気配が跳ねた。声を上げたのは一人だけ。
それ以外の者は、声を殺して応戦の構え。
「どうして……子供のはず……」
──仮面の少年は答えない。
ただ、静かに剣を構え直す。
廊下を跳ねる影。屋根の上から弓の音。
暁狐は扇を投げた。
夜の空間に扇がひらき、矢の軌道を逸らす。投げた扇は地に落ち、月明かりに一度だけ煌めいた。
舌打ちをした影が次矢をつがえようとした時、影の胸に火矢が刺さる。
火は影の装束に燃え移り、影は悲鳴をあげて転がりまわる。
「……っ!」
敵の一人が腰を落とし、退く。と、もう一つ影が飛び込んできた。
唸り声をあげ、敵に腕に噛み付いたのは、太郎丸であった。
太郎丸は体格も顎の力も申し分ない。噛みついたまま、体を捩じって振り回した。
敵はたまらず太郎丸を蹴り飛ばした。
だが、背後に別の刺客の気配。
(……そこだ)
仮面の少年は、身を翻し、晨星で逆手に斬り払う。
影が飛び退く。
「……やはり、殺すしかないか」
敵の声が、初めてまともに響いた。
だが、そこに──
「やかましいわァ!!」
屋根の上から、忠太の声とともに、煙玉が放たれた。
屋敷の中に、瞬く間に白煙が満ちる。
「坊!! 奥へ!!」
忠太の叫びに、暁狐は頷く。
風音が先に走り、暁狐は後を追った。
晨星を片手に、扇をもう一方に。
「主を狙うとは、どこの阿呆だッ!!」
忠太が叫びながら飛び降り、敵と交錯する。
太郎丸は逃げた敵を追う。
混乱の中、暁狐は奥座敷へと逃れる。
仮面の奥で、暁狐は眉をひそめた。
──騒がしいはずの屋敷が、あまりに静かすぎる。
あれほどの物音と殺気があってなお、他の家臣たちは姿を見せぬ。
誰も、来ない。
(……気づいていて、動かない?)
忠太が一度、屋根の上から何かを見たあと、すぐに引いたことを思い出す。
その眼差しにあったもの──それは、怒りでも焦りでもなく、「了解」だった。
(……清雅殿が、『動かすな』と命じた……?)
もしそうなら、すべてを知ったうえで、黙して見守られている。
仮面のまま、『主』として、この夜を越えよと。
そこに、清雅が立っていた。
「……暁狐」
その声に、初めて仮面の少年が、ほんのわずか立ち止まった。
だが、わずかに首を振る。
(今はまだ、語る時ではない)
清雅が頷く。
「ならば、我が守る。──我が子が、面のままでも」
その言葉に、少年の手が震えた。
そして──そのまま背を向けたまま、面の少年は部屋を出ていく。
宗近が後から駆けてきて、清雅に問うた。
「お守りするのですか……あの姿のままの」
清雅は言った。
「……あれが、今の『主』であり、吾子だ」
その背に、夜の風が吹き抜ける。
──主が、沈黙をもって立つならば。
その声を誰も知らぬとしても、我らが剣となる。
静かなる面が、夜の中に光った。
嵐は、まだ、始まったばかり──
暁狐、十六歳春。




