第三話 影の歩み
第六章 風の記憶
第三話 影の歩み
京の空は高く澄んでいた。
白鐘家本邸の庭に射す光は柔らかく、竹垣の影が長く落ちていた。
麻佐は、縁側に静かに座していた。
花橘の重ねの小袿と袴。
小袿の膝を整え、脇には白湯を満たした茶碗がひとつ。朝露がすでに乾き、風は冷たくもない。だがその風に、麻佐は微かな乾きと、古い痛みを感じていた。
──この都の風は、笑って人を斬る。
そう思ったのは、いつからだったか。
ここは、かつて栄えた朝廷の都。だが今では、名家の屋敷と旧いしきたりばかりが幅を利かせ、どこもかしこも枯れたように息苦しい。
笑みを浮かべる者ほど腹に刃を持ち、何も語らぬ者ほど真実を知っている。
(また今日も、誰かに測られる日……)
麻佐は目を伏せ、そっと白湯を口にした。
「お方様、お支度整いました」
控えていた侍女が、そっと声をかけてくる。
薄紅の唇を整え、花橘の小袿と袴を身に纏う。飾り気のない衣ではあるが、その選び方ひとつにも意味がある。
──私は、隠してなどいない。ただ、語らぬだけ。
それが、この京で女として生きる者の、ひとつの武装であった。
曲水の宴が宮中に近い公家屋敷の離れで開かれていた。
本格的な曲水の宴ではなく、ただの集まりに、理由づけしただけである。
集まったのは、三、四人の公家の妻や娘たち。見目は華やか、言葉は柔らか、笑みは絶やさず──だがその裏には、誰もが『探るべき何か』を持っている。
「まあ……江戸の方は、秋でもにぎやかなのでしょう?」
ひとりが問いかける。
「ええ、けれども私は……ずいぶんと、静かな方が好きでございますの」
麻佐は、薄く笑って返す。
「京には京の気品がございますもの。目立たずとも、息づいているものが多くございます」
「まあ、お言葉が深いわ」
誰かが笑い、誰かがすぐに言葉を継ぐ。
「そういえば最近──仮面の子が、京に戻ったとか……ご存じ?」
空気が、微かに沈んだ。だがそれは一瞬で、また波のように柔らかな声が重なる。
「まあまあ、物騒なお話。仮面だなんて」
「でも、昔の話ではなく? あれは確か、天皇様に近しかった誰ぞの……」
「やめなさいな、下賤なうわさに過ぎませぬ」
その声を制したのは、麻佐だった。
目は伏せたまま、指先でそっと茶碗を撫でる。
「この都では、口が過ぎると、思いもよらぬところから刃が降ることもございますから」
一瞬の沈黙。
そして、全員がまた、笑った。
──そう、笑って流す。それが京だ。
麻佐は、手の中の茶がもう冷めていることに気づいていた。
夜、白鐘家本邸の庭に、ひとり佇んでいた。
女の顔に戻った自分は、もう誰の仮面もつけていない。けれど、たぶん──そのぶんだけ、深く疲れていた。
(私が、仮面を持たぬことを、誰も気づかぬほどには……)
風が吹いた。
屋敷の奥から誰かが見ている気配があった。だが、それを気にする素振りは見せなかった。
麻佐はそっと、懐から紙片を取り出した。
清秋からの手紙。淡墨で書かれた文字はすでに読み終えている。
『影、すでに京に入る』
それだけ。
折りたたみ、指先で火をつける。
小さな火はぱちぱちと紙を焼き、最後の文字まで呑み込んでゆく。
(あの子は、来た……)
──仮面の少年。
もう、かつての「ただの子供」ではない。言葉を封じ、感情を殺し、己の命で家を守ろうとしている者。
その胸に何が宿っているのか、麻佐は正確には知らない。
だが、感じている。
(あの子が、再び京の土を踏むということ──それは、もう後戻りができぬということ)
空を仰ぐ。
月は澄み、光は鋭く、まるで何もかも見透かすようだった。
(ならば私も……語らぬだけでは、もう済まぬのかもしれない)
女の指先が、無意識に髪に手を伸ばす。
そこには、かつて清雅が贈ってくれた銀の簪。今も変わらず、漆黒の髪を飾ってくれる。
仮面をつけぬ者にも、守るものはある。
ならばこの命は、その者たちのために使ってもよい。
「──いいえ。そうあるべきね」
誰に言うでもないその言葉が、夜風に溶けていった。
風が、再び吹いた。
庭の草木がざわめき、小さな音が塀の向こうから返ってきた。
麻佐は、目を細める。
あの子は、もうすでに動いている。
仮面のまま、夜の都を歩いている。
そう確信して、麻佐はゆっくりと振り返った。
仮面の主は、言葉を持たぬ。
ならば、自分は──言の葉の刃で、戦おう。
夜の気配が、京の町を静かに包み込んでいた。
隠れ屋敷の裏手──人目につかぬ潜り戸を、ひとつの影が音もなく抜ける。
仮面の少年──暁狐。その背には、軽やかに並ぶ白猫と、数歩遅れて歩くふたつの影があった。
忠太と左近である。
「やれやれ、夜歩きなんて性に合わねぇけど……まあ、これも主命ってやつだ」
そう呟く忠太の横で、太郎丸がひと声鳴いた。
夜風に揺れる門の影が、そのまま四人と一匹を京の路地裏へと誘う。
京の町は、昼間とは違う顔を見せていた。
灯の乏しい通りには、行き交う人の数もまばら。
だが、そんな中にあっても──仮面の少年の姿は、否応なく目を引いた。
「……あれ……仮面の……」
「見た? あれって、例の……」
囁きが、背後で生まれた。
それは恐れというよりも、好奇と畏れの入り混じった、得体の知れぬ視線。
だが、暁狐は足を止めなかった。
風音が一歩、仮面の影に寄り添い、しっぽで軽く脚を叩いた。まるで「気にするな」とでも言いたげに。
「……坊がこれを平気でやるようになるとはな」
忠太が、ぽつりと漏らす。
「昔なら、面の下で震えてたんじゃねぇか?」
左近は何も言わなかった。ただ、少しだけ歩調を早め、主の脇に並ぶようにして歩く。
「……人は、変わるものだ」
左近の低い声が、それだけを告げた。
彼らが向かったのは、市井の裏通り。
小さな茶屋の奥、竹垣で囲われた敷地にある木戸を、忠太が三度ノックする。
「……合言葉は?」
中から、若い男の声。
「鯖は焼くより煮た方がうまい、だ」
「……あんたか」
軋む音と共に開いた木戸の向こうから、痩せた若者が顔を出す。顔に煤がついたまま、薄汚れた小袖を襟を乱したままだった。
「久しいな、猫丸」
「……その呼び方、やめてくれよ。こっちはもう真っ当に生きてるんだ」
「そりゃ何より。だが今夜だけは、昔の義理ってやつで、情報をひとつふたつ、頼むぜ」
茶屋の奥に通され、忠太と猫丸はひそひそと話し始める。
その背後、仮面の少年は一言も発さず、影のように立っていた。よく見ると口元には冷たい笑みが浮かんでいる。
猫丸がちらと、面を見た。
「……あの噂、本当だったんだな。仮面の主が、また京に来たって」
「そうだ。こいつが、俺の今の主様さ」
「……すげぇな。息、止まりそうになる」
冗談めかしてそう言った猫丸の額には、かすかな汗が滲んでいた。
沈黙の中に漂う圧。仮面の奥にあるはずの「声なき意思」に、彼は確かに気圧されていた。
「最近、町で妙な話が多いんだ」
猫丸は、低く語り始める。
「金の回りが急によくなった連中がいてな。どれも、何かしら『顔のきく者』に取り入ったらしい。……でも、相手が見えねぇ。裏にいるのは、たぶん……朝廷筋だ。いや、そこから外れた『何か』かもしれねぇ」
忠太が顎をさする。
「……誰か、見たやつはいないのか?」
「いや。だが、ひとつだけ──『片目に傷のある男を見た』って噂を聞いた」
その言葉に、左近の目が鋭くなる。
そして、仮面の下の瞳が、わずかに揺れた。
(──水無瀬)
名を発することはなかった。だが、暁狐の記憶に焼きついた仮面と傷、そして剣の気配が、脳裏を過った。
「……あの者が、動き出すか」
左近の呟きに、仮面の少年は、静かに首を横に振る。
──まだ、動いていない。だが、気配はある。
風音が、ぴくりと耳を動かした。
茶屋の外、風が通り抜ける音に混じって、遠く犬の声が聞こえた。
帰路。月は高く、影は長く伸びていた。
忠太が、ぽつりと漏らす。
「……ほんと、変わったな。何も言わねぇで、あれだけ場を締めるなんてよ。まるで、ほんとの『影法師』だ」
「……主とは、そういうものだ」
左近の声には、かつての尊敬よりも、一歩深い『共に戦う者』としての響きがあった。
風音が暁狐の体を駆け上がり、また肩に乗る。
その重みに、仮面の少年はわずかに歩を緩めた。
屋敷の灯りが見えてくる。
そこには、忠晃が静かに立っていた。
仄かな光の中、彼は手に文を持っている。
「今宵の動き、殿にも伝えよう。──だが、おそらく……近いうちに、主自身が『あの者』と対峙せねばならぬだろう」
その言葉に、仮面の少年は頷いた。
風は冷たくなかった。ただ、静かに、京の空気を撫でていた。
月のない夜だった。
灯の届かぬ裏路地を、ひとつの影がゆっくりと歩いていた。
足音はない。
ただ、地を這うように、冷たい風とともに現れる気配──
仮面をつけた男。
その面は、かつて割られたまま無理やり継ぎ合わせたように、歪んでいた。
「影狐」の仮面。
男は、京の外れにある無人の蔵に入った。
奥には数人の人影がいた。どれも京の賤民に紛れて潜んでいる者たちで、武器や黒装束を携えている。
「……水無瀬殿。動かれるおつもりで?」
ひとりがそう問いかけた。
だが、仮面の男は答えない。代わりに、奥にあった木の柱を、すっと手で撫でる。
「……この都には、また『声』が戻ってきた」
低い、掠れた声だった。
だが、言葉にあるのは『気配』ではない。悪党が顔を背けるほどの『瘴気』であり『愉悦』だった。
「仮面をつけた小童が……まだ、生きいるらしい」
蔵の者たちがざわつく。
「まさか、江戸で死んだのでは……?」
「死ぬような奴なら、とっくに斬り捨てている」
水無瀬は仮面の奥で笑った。
笑ったとわかるのは、声がわずかに歪み、空気が凍りついたからだった。
「我が仮面を割った『あの男』の影を背負ってなお、生きているとは──ならば、試してやるさ。今の奴が、仮面の価値を持つに足るかを」
水無瀬は、仮面をゆっくりと外す。
だがその顔は、手下たちには見せぬまま、背を向ける。
「『主』として立つ覚悟があるならば……立たせてやろう。『斬る』ことの重さと共に、な」
夜が深まるにつれ、風が冷たさを増していった。
一方──白鐘家隠れ屋敷。
暁狐は、再び屋敷の一角、中庭に面した縁側に座していた。
仮面のまま、ただ庭の闇を見つめている。
風音がその隣で、静かに丸くなっていた。
──気配があった。
風ではない。音でもない。
だが、確かに感じる。何かが動き始めたという、肌の奥が疼くような感覚。
(……来る)
仮面の奥の瞳が、わずかに細まる。
言葉にせずとも、知っている。あの『影』が、また姿を現す時が近い。
扇は懐にある。
清秋の想い、そして己の意志を継ぐ刃。
風音がふと顔を上げ、身震いした。
暁狐は、ゆっくりとその頭を撫でる。
──自分は、もう逃げない。
影となっても、仮面を外さずとも、この地で背を守る者として生きていく。
廊下の奥に、忠太と左近の気配があった。
言葉は交わさぬが、それぞれが、自分の『位置』を知っている。
その夜、月は昇らなかった。
だが、仮面の少年は、夜の帳の中に座し、
すでに次なる戦いの気配を、その沈黙の中で受け入れていた。
暁狐、十七歳晩秋。




