第四話 影の灯し
第四章 京の月、狐の影
第四話 影の灯し
秋の夜風が冷たくなりはじめていた。
屋敷の縁先に腰かけた暁狐は、仮面のまま、遠くの町を見ていた。山の中腹にある屋敷からは京の町がよく見える。
京の町の灯は美しく、まるで星が地に降ったように見える。だがその光の届かぬ奥には、決して見えぬ深い闇がある。
彼の膝の上には、風音が丸まっている。白の毛がわずかに震えていた。冷える夜だった。風音のからだを撫でながら、暁狐はふと、ひとつの声を思い出す。
──仮面は、見て見ぬふりをするためにあるのじゃ。
あの仮面の声だ。
(……違う)
心の中で、否定する。
(私は──仮面のままでも、見る)
そう、誓った。
夜の町へと降りたのは、ふたたび人買いに関する噂が耳に入ったからだった。
清雅からの許可は出ていない。けれど、それでも、足が勝手に向かっていた。
仮面の姿は目立つはずなのに、京の人々は誰も気にしない。ただの面白半分か、あるいはまた、見て見ぬふりか。
──仮面のままでも、目を背けぬ。それが自分の選んだ道。
ひとつの廃屋に灯りが見えた。細い声。子供の声だった。
その中に、嗚咽が混じっていた。
暁狐は迷わず扉を開ける。
鼻を衝く臭いと、目を伏せたくなる光景が広がった。
裸足の子供たちが、ぼろ布にくるまってうずくまっていた。
誰かの手が届くことのない場所で、見捨てられた者たちが、息を潜めている。
「……誰?」
幼い問いに、暁狐は何も答えなかった。
ただ、懐から包みを取り出し、ひとつ、ふたつと手渡していった。
麻佐が用意してくれた握り飯と、僅かな菜だ。
「食え。……まだ、間に合う」
その声が震えていたのは、怒りか、それとも──
仮面の視界は狭く、曇っていた。
泥と煤で黒ずんだ廃屋。そこに、幼い子らが怯えた目で身を寄せ合っている。着物は擦り切れ、裸足の足元には乾ききった地面が広がっていた。
「お面……のお兄ちゃん……?」
一人の子が声をかけた。
暁狐は何も言わず、そっと膝を折る。懐から取り出した握り飯を、その子の手にそっと握らせた。
子供の目に、ふわりと光が戻った。
それだけで、胸がいっぱいになる。
何もできぬと思っていた。
自分が動けば、誰かに疑われ、傷つくと。
けれど──
たった一人でも、救える命があるなら。
「……食え。皆で、分けろ」
かすれた声が、仮面の奥から零れた。
子供たちは、驚いたように見つめ、そして静かに頷いた。
……妙だった。
人買いの棲家にしては、あまりに無防備すぎる。
物見一人、気配すらない。
(まさか──先に、誰かが……)
仮面の奥で、暁狐は目を細めた。だが、今は考えるべき時ではなかった。
暁狐は立ち上がり、隣の部屋の板戸を蹴破った。そこには壊れかけの囲炉裏と、埃をかぶった木箱がある。
燃やせるものをかき集め、炭を探し、火を起こした。鍋もあった。水は……底に少し残っていた。
たとえ、ただの湯でも、冷えた体には沁みる。
やがて、かすかな湯気が立ちのぼる頃──
「……ほぅ。これはまた、なかなか興趣深きものを見せてもろうたな」
背後から低い声がした。
賀茂であった。
いつの間にか背後に立ち、懐手のまま仮面の少年を見下ろしている。
「まさか、そなたが救いの手を差し伸べるとは思わなんだ。ましてや、仮面のままで涙を落とすとは──」
……涙?
暁狐は、咄嗟に手で顔を拭う。
ぬぐった指先に、ぬるい感触。目尻から、いつの間にかこぼれていた。
誰かのために、涙を流したのは──これが、初めてだった。
「……これは……」
言葉が出ない。
けれど、賀茂は何も言わず、背を向けた。
「よい。今宵のことは、麿が見んかったことにしておこう。……麿も少しばかり、人の情けにあてられてしもうたようじゃ」
そう言って歩きかけた賀茂が、ふと振り返る。
「屋敷へ戻られよ。ここは麿が引き受ける。……そなたのその涙、値打ちあるもんじゃ。決して、無駄にはいたさん」
その言葉が、胸に響いた。
暁狐は仮面の奥で目を閉じ、そっと子供たちに背を向けた。
背中に、微かなぬくもりと、鍋の湯気が沁みる。
涙の跡が乾くころ、彼は闇に紛れて去っていった。
──誰にも知られぬ、月の灯の下で。
暁狐、十五歳晩春。




