第五話 剣の問い
第四章 京の月、狐の影
第五話 剣の問い
あの夜──女の叫びと、仮面のまま流した涙から、季節は巡った。
その後、暁狐は『面のまま』都を歩いた。子どもたちの行く先を視て、誰にも名を告げずに仮面のまま寺の縁先に立ち、屋敷に出入りする者の動きを黙して記した。
暁狐の行動により、子どもらは親元に帰る者、養い親に引き取られる者もいた。
その上、人買いの頭領や主だった者は捕縛された。
やがて、清雅の命を受け、時には朝議の場へ、時には公家の私邸へ。言葉は持たず、ただ“視る者”として送り込まれた。
一度だけ、剣を抜いたことがある。
怒りを抑えきれず、仮面のまま、男の手を斬った。
清雅は何も言わなかった。ただ、「問いを抱け」と繰り返した。
そうして──迎えた、十六の秋。
朝の風は、あの夜よりも静かで、冷たかった。
暁狐は、仮面をつけたまま庭に出た。
秋の風が、頬をかすめてゆく。乾いた空気に、虫の声もまばらだ。
草の匂いに混じる、火の香。町のどこかで焚かれた落ち葉の煙が流れてくる。
風音が後をついてくる。ふわりと足元に寄り添い、鳴き声ひとつ。
仮面の奥で暁狐は微かに目を細めた。
(……十六か)
もう「子ども」と呼ばれる齢ではない。
それは、誰よりも自分自身がよく知っていた。
ふと、廊下の向こうから足音。麻佐が現れる。
盆を手に、静かに一礼する。
「おはようございます。……御生誕の日、おめでとうございます」
声に、暁狐の肩が少し揺れた。
仮面越しの顔は読めない。それでも、麻佐は笑んだ。
「……仮面のままでも、ちゃんと伝わりますよ。嬉しゅうございますのが」
盆には、菜飯のおむすび、薄焼き卵、香の物、そして一輪の白い花。
質素ながら、丁寧に整えられた祝い膳だった。
「お館様の許しもいただいております。ほんの、ささやかなお祝いです」
暁狐は静かに頷き、膳を受け取った。
風音がそっと鼻を近づける。その姿も、体が少しだけ伸びたように見える。
祝膳を食し終えた頃、清雅に呼ばれた。
座敷の奥。簾の向こうに、秋の陽が差し込んでいる。
「来たか。こちらへ」
清雅はいつもと変わらぬ姿で、座していた。
だが、目元にわずかな柔らかさがあった。
「十六。もう、『子』ではあるまいな」
暁狐は黙って頷いた。
「都において十六とは、元服の齢。お前もまた、『選ぶ者』と見なされよう」
清雅は、一枚の布に包まれた細身のものを差し出す。
白鞘──中身のない、未完成の剣。
「これは、空の鞘だ。中身は、己で見つけよ」
暁狐は、ゆっくりと手に取った。
問いのような贈り物。それが、清雅の誕生日の言葉だった。
「剣は、ただ斬るためのものではない。……何のために剣を持つのか、それを問うがよい」
「……承知しました」
静かな返事が、部屋に落ちた。
その夜。膳を囲む間もなく、屋敷に駆け込んできた足音。
「暁狐様!」
左近だった。息を切らし、髪を乱している。
「……子どもが、一人──消えました。あの時、保護された子のひとりが……!」
暁狐は、何も言わずに立ち上がった。
仮面を結ぶ。
風音が、心配そうに鳴いた。
背を向けたまま、呟く。
「心配ない。……すぐ戻る」
そして、夜の町へと足を踏み出した。
(問いを抱け。怒りに呑まれるな──)
清雅の言葉が、胸に残る。
だが、心の奥で灯るものがあった。
それは『剣』ではない。けれど、仮面を貫く熱。
(……私が、行く)
晩秋の夜気は、肌を刺すほど冷たかった。
仮面の内側にも、乾いた風が吹き込んでくる。
町の灯はまばらに灯り、遠くの山陰には木枯らしが唸っていた。
暁狐はひとり、裏通りを抜けてゆく。
目指すのは、先日子どもたちが見つかった廃屋から近い、古い寺の跡地だった。
左近の報告によれば、その近辺で「仮面の者に連れられた子供を見た」という目撃があったという。
その仮面が、自分ではないとすれば──
模倣か、それとも囮か。
視界の端に、影が走った。
振り返る。誰もいない。だが、気配は確かに残っていた。
(……誰かが、視ている)
仮面の奥の目が細くなる。
その感覚──どこかで似たものを感じたことがある。
かすかな、だが、鋭く、冷たい気配。
まるで『剣』のように、視線そのものが刺さってくる。
だが今は、振り向いている暇はない。
踏み込んだのは、朽ちた土塀の裏手。板戸を押し開けると、かすかな呻き声が聞こえた。
いた。
奥の藁の山に、子どもがひとり、縛られていた。
だが──すぐに異変に気づいた。
足元に、崩れた薬壺。
土間に散らばった炭。
誘い出された、罠だ。
「よう来てくれたなあ、『仮面』の坊や」
その声は、天井裏から。
暁狐が身を翻すと、梁の上から三人が降りてくる。
布で口を覆い、手には鎖や短い棒。
「『面の小僧』ってのが、子ども連れ出して歩いとるって噂やったが、まさかほんまにおるとはなあ!」
「ほれ、ちょっと動いてみ? どこぞの公家様の養子でも、血ぃ流したら一緒やで?」
からかうような口調の中に、殺意が混じっている。
暁狐は、ゆっくりと手を構えた。
だが──剣には、触れなかった。
(斬ってはならない。……怒りに、呑まれるな)
清雅の言葉が、胸の奥に甦る。
仮面の奥で、唇を噛みしめる。
「おう、どうした。声も出せんのかい?」
男たちが近づく。その目には、子供を『物』として見てきた者の色があった。
暁狐は、腰の鞘を抜くふりをし──手にしていた布袋を床に投げた。
中から飛び出したのは、火薬を仕込んだ煙玉。
一瞬で土間に煙が立ちこめる。
咄嗟に視界を塞がれた男たちが咳き込み、騒ぐ隙に、暁狐は床を蹴った。
一人の背後に回り、膝裏を刈る。
倒れた男の手から棒を弾き、もう一人の顎を打った。
「ぐ……うあっ……!?」
残る一人が刀を抜こうとするより早く、その手首を蹴り上げる。
剣は抜かず、ただ、封じる。
倒れた男たちの呻きの中で、子どもが泣いていた。
暁狐は近づき、縄を解く。
「……もう、大丈夫だ。逃げろ」
「お、おにいちゃん……仮面」
泣きながらしがみつく小さな手。
その重みに、仮面の奥で何かが揺れる。
(私は、斬らなかった……)
震える手のひらを見つめる。
この手は、剣を使わずに──問いを貫いた。
帰り道、夜風が強くなっていた。
路地を抜け、表通りに出たとき──
遠く、屋根の上に、ひとつの影。
白い髪。黒い装束。仮面。
……歪んだ、『狐』の面。
それは、静かにこちらを見ていた。
声もなく、ただ、存在の重さだけを残して。
暁狐が立ち止まると、影は一瞬にして闇に紛れた。
(……あれが)
──名も知らぬ影。
だが確かに、あれは『剣』そのものだった。
殺気も、怒りも、悲しみすらない。ただ、斬るために在る存在。
(……いつか、私はあれと向き合うのか)
問いが、またひとつ、胸に灯る。
夜も更け、屋敷に戻ると、清雅が縁側にいた。
火鉢の前に座し、風音を膝に抱いている。
「戻ったか。……面のままで、ようやった」
暁狐は何も答えなかった。
その沈黙に、清雅が言葉を続ける。
「斬らずに済んだか」
「はい」
「怒りに呑まれなんだか?」
「……呑まれかけました。けれど、仮面が、踏みとどまらせてくれました」
清雅は目を細める。
「それが、面の役目だ。激情ではなく、矜持を保つ器。……問いを、宿し続ける者の顔」
暁狐は、仮面のまま、深く一礼した。
風音が、その膝へ飛び乗ってくる。
「……清雅様。ひとつだけ、聞いてもよろしいですか」
「申せ」
「剣は、何のために在るのですか」
その問いに、清雅は答えなかった。
ただ、静かに、風を受けていた。
答えはなかった。
けれど、問いは確かにあった。
問いの刃が、静かに鞘を離れた夜だった。
──暁狐、十六歳晩秋。




