第三話 旅立ちの道(後編)
第三章 月隠れの声
第三話 旅立ちの道(後編)
「下がっていろ!」
鳴海武元の怒声が響く。
暁狐は言われるまま、木の陰へと身を引いた。
霧の中で、剣が交錯する。
鋼が打ち合う音、荒い息遣い、足を踏み込む地の響き、そして、血の臭い。何かが空を切る音もする。
それらすべてに混じって、自身の鼓動がうるさく響いていた。
剣を、持っていた。握っていた。
だが、抜けなかった。
(動けなかった)
足が動かなかったのは、剣を抜けば何かが『壊れる』気がしたからだ。そんな、得体の知れぬ予感が胸を縛っていた
(見ているだけだ。また……)
あの日を思い出す。
母を、守れなかった夜。
庄太の手を、ただ握ることしかできなかった自分。
今も同じ。
目の前で誰かが斬り合っているのに、自分はまた、ただ立ち尽くしている。
そのとき──面の奥に、声が響いた。
──けれど、それが『お前』だ。何もできぬ者。面だけが、お前を形作る。
静かな声だった。冷たいが、怒りでも嘲りでもない。
まるで、『事実』を告げるだけのように。
暁狐は唇を噛んだ。
指の中で、柄が震えていた。
草を揺らす風の音ばかりが耳を打つ。
刃が交わり、一人が斬り伏せられた。
鳴海が返り血を浴び、忠晃が息を呑んだ。
残る者たちは警戒しつつも、一歩、後退する。
そのとき──
霧の奥から、新たな走ってくる足音が響いた。
すうっと空気が変わる。
現れたのは、濃藍色の外套に身を包んだ男。それは白鐘清雅であった。
「遅くなったな」
そう呟いた瞬間には、すでに鞘から太刀を抜いていた。
踏み込む。
風が鳴った。一閃──
それだけで、一人を沈めた。
残る一人は目を見開いたまま後ずさる。
「お、おい……面の……」
震える声が漏れる。
清雅は太刀を静かに下ろしながら言った。
「面を狙うなら、我が相手だ。……この子は、守るべき『我が子』だ」
面の奥で、何かが揺れた。
「……ち、ちくしょう……また会おうぜ、『仮面の小僧』!」
捨て台詞を吐き、最後の一人も霧の中へ逃げ去っていった。
静寂が戻る。
風が霧を流し、枝葉がざわめいた。
残されたのは、剣の余韻と、血の匂い。
暁狐は、木陰でじっと身を縮めていた。
鳴海武元が振り返った。
血に濡れた剣を静かに下ろし、暁狐の方を見た。
その目に、怒りも責める色も浮かんでいなかった。
「……無事で、よかったよ」
そう言った声は低く、温かかった。
「なぁ、剣ってのはな。……振るわなきゃならん時もある。だが、振るえなかったってことは、それだけ『自分』と向き合ってたってことだ」
武元は刀を鞘に収めると、それ以上は何も言わず、踵を返した。
そして清雅が、ゆっくりと暁狐の前へ来た。
面の前で立ち止まり、ただ一言、問いかける。
「……暁狐。立てるか?」
暁狐は、こくりと頷いた。
膝に力を込める。少しよろめきながらも、なんとか立ち上がる。
その背に、清雅の手が添えられた。
温かい掌だった。
冬の冷えを、心の芯まで融かすようなぬくもり。
その夜、一行は峠を下った先の宿へと身を寄せた。
面のまま、暁狐は床に就かず、縁側に座って夜空を見上げていた。
(結局、何もできなかった……)
心の奥に沈むその想いに、あの『声』が静かに応える。
──いや。……見ていた。感じていた。それは、『始まり』だ
それは、かつてのような冷たい声ではなかった。
面の奥から、優しく響くような音だった。
そして、もう一つ。
「……剣を抜けなかったことを、恥じるな」
その声に振り返ると、そこには清雅がいた。
薄手の羽織のまま、そっと傍らに腰を下ろす。
「『抜かぬ剣』もまた、強さだ。……心が向かう先を見極めぬうちは、抜かぬがよい。お前は、それを理解していた。だから、抜けなかった」
暁狐は黙って頷いた。
面の奥で、目を伏せる。
「『誰かを守る』とは、ただ斬ることではない。己を知り、問いを抱え、それでもなお剣を持とうとすることだ」
その言葉が、深く、静かに胸に染み込んだ。
清雅は、面越しに、その奥を見据えるように目を細めた。
「今日のお前は、『進んだ』。……一歩、確かに」
暁狐は、自分の手を見下ろした。
小さな、けれどしっかりと剣を握る力を持った手。
その手に、まだ血はついていない。
だが、冷たさも、恐れも、少しずつ消えていく。
面の奥で、初めて、言葉が生まれた。
(これは『自分の旅』だ)
面の下で、声にならぬ言葉がそっと響いた。
守られてばかりの旅ではない。
怯えていた過去に立ち返る旅でもない。
問いを抱えたまま歩く、自らの意思による旅。
たとえ面をつけていても。
誰かの目に怪物と映ろうとも。
それは、何よりも強い支えだった。
面と共に歩む旅が、静かに、そして確かにここから始まるのだ。
暁狐、十五歳晩冬。




