第四話 剣に映る顔
第三章 月隠れの声
第四話 剣に映る顔
霧の晴れた箱根路を抜け、白鐘家の一行は関所に差しかかっていた。
黒塗りの門の前に、槍を構えた番士たちが並ぶ。その奥には、石畳の広がる敷地が冷たく静まり返っている。
仮面をつけた少年の姿に、門番のひとりが眉をひそめかけたが、すぐに前に立った男の威厳に言葉を失った。
「我、高家白鐘家当主・白鐘清雅。この者は養子──白鐘暁狐だ。通行手形はあるが、要らぬ波風は避けたい」
声に威が宿っていた。番士たちは息を飲み、形ばかりの礼で頭を下げる。
「顔を隠しているが……病では?」
誰かが恐る恐る口にする。
清雅は一切の揺らぎなく答えた。
「病ならば、養子などにせぬ。面をつけているのは、志による」
沈黙が流れた。誰も、それ以上の言葉を紡がなかった。
そして、暁狐は一歩、門をくぐる。
背には清雅。左右に綾小路と鳴海武元。最後尾に忠太──いずれも、清雅に見込まれた者たちである。
関所を越えて、山路を進む。
背後には、なお消えぬ視線と槍の気配。それでも、面の奥で、暁狐の視線はまっすぐに前を向いていた。
朝の冷たく澄んだ風が三島の森を渡っていく。杉の葉を揺らし、鳥を眠りから覚ます。
狭く曲がりくねった山道を、彼らは静かに進んでいた。
その時──面の奥、耳ではないどこかに、ふと「声」が届いた。
(……また、だ)
あの夜から、折に触れて現れるようになった。
耳にではなく、胸の奥に触れるような感触。囁くような、問いかけるような──そんな声。
(黙ってればいいのに……)
心の中でそう応じると、声はすっと消えた。
けれど、それが終わりでないことは、暁狐自身が誰よりも知っていた。
仮面の奥に、何かがある。
その確信は、日を追うごとに、否応なく育っていた。
「前、よく見て歩けよ」
鳴海武元の声が飛ぶ。暁狐ははっとして顔を上げた。
後ろにいた清雅がわずかに目を細め、武元は肩をすくめる。
鳴海武元──あの夜、霧の中で剣を振るい、敵を退けた者。
暁狐にとっては、どこか『怖い』存在であると同時に、頼れる『背中』でもある。
(……まだ、守られている)
その事実が、悔しかった。
十五歳になった体。鍛えた剣筋。清雅や忠晃に学んだ知識。
けれど──いざというとき、自分は剣を抜けなかった。
朝陽が木々の影を裂くように、心に細く差し込むようだった。
落葉した木々は骨のように細く、緑もくすんでいた。
まるで、面をつけた自分の心を映しているようだった。
昼近く、一行は峠の開けた場所に辿り着く。古びた祠がひとつ、ぽつねんと佇んでいた。
綾小路忠晃が周囲を確認し、休息を提案。清雅の頷きで荷を下ろすと、皆が思い思いに腰を下ろした。
暁狐は、祠の影にひとり座る。
風が少し強まってきたのか、落葉が転がる音が耳に触れる。
(また……声が来るかもしれない)
その時だった。
「……にゃあ」
風に紛れるような、小さな鳴き声。
その音に胸がどきりと騒めく。
(……風音?)
ありえない。
風音は江戸にいるはずだ。
けれど、その声音は──間違えようがなかった。
暁狐が立ち上がる。目の前、木立の隙間からよろよろと現れたのは、痩せた小さな影。
毛は汚れ、痩せて、もとの姿がわからない。
だが、その金の双眸だけが、まっすぐに──暁狐だけを、見ていた。
「……どうして……」
足が、無意識に前へ出る。
這うように近寄ってきたその小さな影は、彼の足元にすり寄る。
膝をついて抱き上げる。黒く汚れた毛が、細く震えていた。
抱き上げた瞬間、その軽さに胸がざわついた。
胸の奥に、針のようなものが突き刺さる感覚が広がった。
言葉にならぬ想いが、喉の奥を押し上げてくる。
「……馬鹿だよ、お前……」
あの日と同じ眼差しが、ここにあった。
今はただ抱きしめたかった。
その場にいた誰もが、言葉を失っていた。
清雅は目を伏せ、綾小路は目頭を拭い、武元はそっと空を仰いだ。
すぐに忠太が姿を消し、一羽の兎を抱えて戻ってきた。
「暁狐様、この子に……少しずつ、食わせてやってくだせぇ」
暁狐は小さく頷き、風音を地に下ろす。
傷だらけの足で、ふらりと肉に近づいた風音は、少しずつ食べ始める。
そのたびに、何度も、暁狐を振り返る。
──まるで、目を離せば、またいなくなってしまうとでも言いたげに。
午後、朝の晴れ間が嘘のように雲が湧き、はらはらと雪が舞い始めていた。
狭く滑りやすい山道の途中、武元が手を挙げる。
「……止まれ」
短く鋭い声に、全員が即座に反応した。
綾小路が周囲を見渡し、清雅が一歩、前に出る。忠太は鋏箱を木の陰に置き、気配を消すように動いた。
そのときだった。雪の向こうから、複数の足音。
斜面を滑るようにして現れたのは、あの夜と同じ──仮面の少年を狙う野盗の残党たちだった。
「よう。また会ったな、『仮面の小僧』」
先頭の男が口の端を吊り上げるように笑う。
その目はまっすぐ、暁狐を見ていた。
「……やはり、来たか」
清雅が冷ややかに応じる。
「貴様らの狙いがこの子であるなら、前に出よ。我らは退かぬ」
「ふん……そのつもりさ。だが今度は、『守るだけ』で済むかな?」
言葉と同時に、剣が閃き、雪が舞う。
綾小路と鳴海が同時に抜刀し、清雅も応じるように踏み込む。
金属音が霧の中に跳ね、怒声と足音が交錯する。
火薬の匂いが漂い、誰かの発した小さな破裂音が、空気を震わせた。
暁狐は風音を抱きかかえ、素早く木陰へと身を隠した。
懐の猫が小さく鳴いたが、暁狐は声をひそめて囁く。
「大丈夫だ、ここにいて……」
手を伸ばせば、抜ける。小太刀《晨星》は腰にある。
鍛えた技も身体も、今なら使える。けれど──
「……抜けない」
面の奥で、声が漏れる。恐怖だけではない。
今、自分の中に『何か』が決定的に欠けていることを、暁狐ははっきりと理解していた。
足は動いていた。目もそらしていない。
それでも剣を抜けない『理由』が、自分の中に在る。
──問い。
面の奥に、あの声が囁く。何度も問いかけられた言葉。
──なぜ、自分は剣を持っている? 誰のために? 何のために?
答えは、まだない。
面の奥で、暁狐は皮肉めいた笑みを浮かべる。
──それは自嘲か、諦めか、それとも。
目の前では、清雅が刃を舞わせ、鳴海と綾小路が連携し、忠太の放った火矢が敵の胸に突き立ち、炎があがる。
暁狐はただ、黙ってそれを見ていた。
心のなかに芽生えた問いだけが、確かにそこに在った。
夕暮れ、一行は戦を終え、山を下りて一軒の農家に身を寄せた。
囲炉裏の火が赤く揺れ、布団が敷かれる。部屋の隅、暁狐は仮面を外し、縁側に腰を下ろしていた。
風音が懐で眠っている。その重みと温もりが、静かに胸を溶かしてゆく。
──問いを持たぬ者は、仮面に呑まれる。
面の奥から響いたあの言葉が、今は重く、確かに胸に刺さっていた。
澪の包帯、庄太の怯え、そして……守れなかった夜。
なぜ剣を握るのか。なぜ面をつけるのか。何を斬り、何を護るのか。
(……私は、まだ、何も答えられない)
そのとき、不意に背後から声がした。
「……剣を抜かなかったことを、悔いているか?」
清雅だった。静かに傍らに腰を下ろす。
「剣を抜かぬことは、敗北ではない。抜く理由がない時、人は抜くべきではない。それが我の考えだ」
暁狐は黙って聞いていた。
清雅の声は、いつもよりほんの少しだけ優しく、深かった。
「我は、『問い』を持ったお前を、誇りに思う」
その一言に、面の奥で何かが、ふっと揺れた。
涙は流れなかった。
だが確かに、それはあたたかかった。
面の奥では、声にならない問いが、まだ答えを探していた。
翌朝。
雨は上がり、空は晴れ渡っていた。
見送りに出た農家の娘が、少年を見上げて訪ねる。
「……また、くる?」
暁狐は立ち止まった。かつてなら、返す声も震えていたはずだった。
けれど──
「……うん。また来るよ」
その声には、『面の奥の顔』が、確かに在った。
そしてその日、旅路の途中。清雅がぽつりと呟いた。
「問いを持つ者は、仮面と共に在る資格を持つ……」
その言葉に、暁狐は静かに目を閉じる。
(……これが、私の旅だ)
(抜けない……)
(それは、まだ……自分でも、わかっていない)
(何のために剣を持つのか)
(誰のために抜くのか)
(何を護りたいのか)
(その問いが、今も胸にある)
面の奥の目が、まっすぐに、京を見据えていた。
暁狐、十五歳春。




