第三話 旅立ちの道(前半)
第三章 月隠れの声
第三話 旅立ちの道(前編)
夜が明けきらぬ庭に、霜を踏む音がひとつ。
長い外套に包まれた長身のすらりとした影が、静かに門へ向かって歩いていた。
面をつけた少年──暁狐あぎとである。その足取りは、もう幼き日のものではなかった。
両手には風音が入った小さな籠。中には老女の蓮が用意した座布団が敷かれている。
風音はもう仔猫ではない。純白の毛並みを揺らしながら、籠の中で不満げに鳴き声を上げていた。
「……留守番、嫌なのか?」
囁くような声が、面の内側からこぼれた。吐く息が白く凍る。
風音はじっと暁狐を見上げ、ひときわ大きく鳴いた。金色の瞳が懇願の色に染まる。
「風音、それでも……其方は留守番ぞ。澪や庄太に可愛がってもらうといい」
言い聞かせるように続けたが、風音は聞こうとしなかった。
籠から這い出し、懐へ潜り込もうと身をよじる。引き剥がそうとすれば、爪を食い込ませて離れなかった
面の下、笑っていたのか、眉をひそめていたのか──自分でもわからなかった。
その様子に、門前で待っていた澪と庄太は思わず噴き出しかける。
やがて、どうにか風音を籠に戻し、澪に預けると、風音はくるりと背を向けた。
もう鳴き声もあげない。拗ねたように顔を背けたまま。
今日、暁狐は京へ向かう。
澪と庄太、そして風音とも、しばしの別れとなる。
九年近く過ごした屋敷での時が、今では長い夢のようにも思えた。
「……寒そうだったから、連れてきた」
暁狐がぽつりと漏らすと、庄太は唇を引き結びながら、懐から布に包んだ包みを差し出した。
薬草、干した果物、小さな布袋──旅支度らしき品々が入っている。
「これ、持ってけ。……腹だけは壊すなよ」
「ありがとう」
素直な声で応じると、庄太は照れ隠しのようにそっぽを向いた。
澪はあれからずっと左腕に包帯を巻いている。傷痕が気になるのか、動かぬ指が気になるのか……それを隠すように後ろへ回し、暁狐を見つめて静かに言った。
「……ご無事でね」
「強くなって、帰ってこい。……俺の分まで、ちゃんと見てきてくれ」
「うん」
短いその一言に、暁狐はすべての思いを込めた。
その背中を追いかけるように、籠の中からひと声──切なげな鳴き声が、朝の空に滲むように響いた。
門が開く。
面をつけた少年と、それを護衛する二人の武士、そして荷を担ぐ足軽が町へ歩み出る。
照柿色の外套、面、共を連れた声を発さぬ少年。
暁狐を見慣れていた人々もその一行に目を引き、通り過ぎるたび、低い囁きが広がる。
「……なんだ、あれは……仮面? 白鐘の殿様の子か?」
「呪いか? 病か? いや、白狐様の使いかもしれねえ」
「気味が悪い……目を合わせるな」
暁狐は、すべての視線を面越しに受け止めていた。
俯くことなく、まっすぐ前だけを見据えていた。
けれど、その拳は、無意識に硬く握られていた。
自分が『面の者』であること。
それが、人々の心を遠ざけること。
──それが、この世の理。
同行する家臣は、清雅が信頼を寄せ、自ら鍛えた腕利きである。
隣には、白鐘家家臣・綾小路忠晃が控えていた。
文官らしく穏やかな表情と所作ながら、背には長剣を負い、周囲の気配をひとときも見逃さない。
その後ろには、鳴海武元。
粗野なところもあるが、剣の腕に優れ、町での一件以降正式に護衛として京まで同行することとなった。
武元の目は鋭かったが、暁狐と目を合わせようとはしなかった。
最後尾には、荷物を担ぐ足軽──忠太。
猫背気味で笑顔を浮かべてはいるが、目は笑っておらず、人の顔色ばかりを伺っている。だからこそ、油断ならない。
清雅は、今朝早く屋敷を発っていた。
宿や京での手配をするため、一足先に出立していたのだ。
当主としてあるべきではない姿──
だが、それこそが白鐘清雅という男だった。
白鐘家の政務は、すでに長女の婿が預かっており、表も裏も隙はない。
暁狐は、清雅の不在を少しだけ寂しく思いながらも、背筋を伸ばして歩いた。
自分は、もう独りではない。
面は重い。けれど、歩く意志を持ったのは、自分だ。
日が傾き始める頃、一行は峠手前の小さな旅籠に辿り着いた。
茶屋を兼ねた宿で、木造の簡素な建物だが、旅人たちの賑わいがそこにはあった。
だが、面の少年が現れると、空気が変わった。
「……お面を……?」
宿の者が一歩退き、目を見開いた。
「御身分に差し障りがあるゆえ、顔をお隠しだ。病ではない」
綾小路忠晃が穏やかに告げると、宿主は頭を下げたが、視線は怯えていた。
「は、はい……かしこまりました……」
その夜。
廊下を歩くたび、ひそひそと声が漏れた。
夕餉の間でも、面を避けるように席が離され、視線は常にどこか冷たい。
暁狐は、面の下では、笑っていたのか、あるいは……。そんな自分の心さえ、よくわからなかった。
宿の一室の隅に座り、月を見上げていた。
風の音、夜鳥の声。
その中にふと、かすかな音が混じる。
「……にゃっ」
聞き間違いかと耳を澄ますと、すぐに、障子の向こうで何かが鳴いた。
「……まさか……」
暁狐が立ち上がり、障子を開ける。
大きな猫が座っていた。こげ茶と黒の縞が交互に走る、雉虎だった。
宿の飼い猫なのだろう。がっしりした体躯に大きな丸顔。太い手足が、この辺りの『主』たる風格を物語っていた。
暁狐はふっと苦笑を浮かべた。ここに風音がいるはずがない。己は何を期待していたのだろう。
雉虎が近くの林を見つめ、威嚇の声をあげる。その時、遠くから小さく猫の鳴き声が聞こえたが、雉虎が追いかけていった。
「……風音」
翌朝。
霧が立ちこめる峠道を、一行は静かに進んでいた。日が高くなっているのに、霧は晴れる気配がない。
「ここで少し休もう」
忠晃が周りを見渡して、静かに口を開いた。暁狐は近くにあった大きな石に腰かける。石の冷たさが、じんと腰に伝う。
武元は立ったまま、腕組みをする。
忠太が立ち止まり、荷を下ろした。
暁狐は水を飲もうと懐に手を入れたが、そこはいつもよりずっと冷たかった。風音の温もりの消えた懐──その空白が、胸に沁みた。
だが、霧の奥。
枯れ枝を踏む音が、じりじりと近づいてくる。
綾小路と武元が、即座に気配を察知し、剣に手をかけ霧の中へと目を凝らす。
やがて、巡礼装束をまとった男たちが姿を現した。
だがその腰には、明らかに武士の刀。
「……おやおや、お偉い方々がこんなところで休憩とは」
男の一人がにやりと笑う。
「火を借りに来ただけでさ。……ついでに、珍しいもんを拝みに来たんだ」
その視線が、暁狐へと注がれる。
武元が一歩、前に出る。
暁狐を背にして、刀の柄に手をかけた。
「……子どもを狙うとは、下劣な趣味だな。……こいつは、まだ十五だ」
「十五? 立派な大人だ。女ならもう客を取れるぜ。仮面をかぶって剣を持つ小僧が、『ただの子ども』かよ」
男たちがにやりと笑う。
「噂は聞いてるぜ。白鐘の屋敷にいる凄腕の『仮面の小僧』。……腕前、見せてもらおうか!」
その男たちは、金で動くならず者か、それとも『仮面』という異形を狩ることに興じる愚か者か──いずれにせよ、命を惜しまぬ輩であることは確かだった。
(……面をつけた自分を、ただの『獲物』だと……)
次の瞬間、鋭い剣閃が霧を裂いた。
一人が抜刀し、綾小路が即座に応じる。
霧の中で鍔音が響き、武元も別の男を斬撃で牽制する。
敵は三人。こちらは実質二人と、仮面の子と足軽。
足軽──忠太は腰に小刀を差していたが、それを抜いた姿を見た者はいない。今も後方でじっと体を縮めている。
「下がっていろ!」
武元の声が響く。
暁狐は、立ち上がった。
恐怖がなかったわけではない。けれど、逃げようとは思わなかった。
守られてばかりではいけない。
この『面』を選んだのは、自分だ。
風音と歩むと決めたのも、自分だ。
──ならば、目を逸らしてはいけない。




