第二話 怒りに舞う影
第三章 月隠れの声
第二話 怒りに舞う影
冬の朝。
冷たく鋭い風が庭を撫でる。竹の根元には霜柱が並び、草履越しにじわりと冷えが滲んだ。風が肌を刺し、葉を落とした木々が黒々と立ち尽くしている。
面の内側が、薄く湿っていた。朝露か、呼気か、それとも……。
暁狐は構えを取った。
晨星──清雅から授けられた小太刀を、正眼に据える。
十五歳となった今、その動きには幼さはなく、型に無駄はなかった。呼吸も足捌きも、面の下の眼差しも、静かで鋭い。
型を繰り返すことは、もはや日常だった。面をつけたままの鍛錬も、当然のように馴染んでいる。
けれど──今朝の剣には、わずかな揺らぎがあった。
「……肩の力が抜けておらぬ」
縁側から清雅の声がかかった。
冬の陽に浮かぶその姿は、いつも通り静かで、だが曇りなき目を持っていた。
暁狐は短く「はい」と答えた。
面越しでも、清雅の視線は刺さるように届く。だが、それはもはや怖れではなかった。
晨星を納めると、竹の根元で座っていた風音が、ひと声、短く鳴いた。
すでに仔猫と呼ぶには大きくなった風音。白く艶やかな毛並みを揺らしながら、静かに暁狐に歩み寄る。
その歩みとともに、緊張に張っていた心が少しだけほどけた。
「……今日の稽古はここまで。後ほど、文を届けに行ってもらう」
「文、ですか」
「ああ。薬種問屋へ。先日届けた薬代の確認だ。使いの者に任せてもいい。だが、お前に道を歩かせることに意味がある。心得よ」
「承知いたしました」
面の奥で、瞼を伏せる。
外出はもう幾度目かになる。もはや『初めて』ではないが、それでも面をつけて町を歩くには覚悟が要る。
だが、躊躇いはなかった。
午後、長めの外套に身を包み、文を懐に収めた暁狐は、風音に一声かけて屋敷を出た。
背筋を伸ばし、顔を伏せず、裏路地を選びながら歩く。できるだけ、人の目を避けるように。
薬種問屋で用件を済ませた帰り道、町の一角がざわついていた。
裏通りの近く、人の集まる声、誰かの叫び──ただ事ではない空気が流れていた。
暁狐は足を止める。
「庄太! 澪!」
聞き覚えのある声──鳴海武元だった。
白鐘家の警護を担う若い剣士。冷静で寡黙だが、忠義厚き人物である。
駆けつけると、騒ぎはすでに収まりかけていた。
澪は左腕を押さえ、うずくまっている。庄太がその傍に膝をつき、支えていた。
ふたりとも顔には擦過傷があり、特に澪の顔色は、蒼白だった。
「……ごめんね」
澪が面越しにこちらを見上げ、掠れた声で言った。
胸の奥に、何かが落ちた。
冷たく鋭いものだった。
武元がこちらを見た。
「……暁狐殿、お戻りでしたか。詳しいことは後にします。澪の腕が……庄太も意識が不安定で」
武元は澪を抱き上げた。
暁狐も庄太に肩を貸す。
「支えなんか、いらねぇ……」
そう呟いた庄太の足取りは、それでもふらついていた。
澪は小さな笑みを見せた直後、すっと力を失って意識を手放した。
屋敷に戻った後、武元の手配で腕利きの医師が呼ばれる。
澪の左腕には深い裂傷があり、腱にまで達していた。
庄太は打撲と擦り傷程度で命に別状はなかったが、張り詰めていた意識が崩れ、ぐったりとしていた。
治療のあいだ、多喜がつきっきりでふたりを看ていた。
暁狐は仮面をつけたまま、障子の陰に座し、声もなくそれを見守っていた。
やがて、背後に清雅が座る。
並んで座る二つの影。しばし沈黙が流れたのち、清雅の声が落ちる。
「屋敷を出たお前を、澪と庄太が見かけ、後をついて行った……一緒に行きたかったのだろうな」
暁狐は袴を強く握った。
心臓が強く打ち、口の奥が乾いていく。
「途中で、暴漢に襲われた。澪が前に出て、咄嗟に庄太を庇った……そう聞いている」
喉が詰まった。言葉が、出ない。
「町の者たちも、あの二人の仲を微笑ましく見ていた……澪の腕、痕が残る。動きに支障が出る可能性もある。……覚悟はしておけ」
暁狐は面の下で息を呑んだ。
澪の細い指が、もう自由に動かなくなるかもしれない──その現実が、身体の芯を凍らせた。
「庄太は?」
「軽傷だ。命に別状はない」
それは、せめてもの救いだった。だが──
「……犯人は……?」
絞り出すような声に、清雅は一拍、沈黙した。
「逃げた。澪も顔は見ていない。だが──我は、ふたりが『狙われた』とは思わぬ」
「……仮面の剣士、ですか」
ぽつりと呟いた声に、清雅は静かに頷いた。
面をつけて町を歩くこと。それが、誰かの目を引いた。
そして、襲撃を誘った。
──自分が、呼び込んだのだ。
仮面の剣士として歩くと決めた日から、彼は『視られる者』になった。
剣を持つ者として、町の目に晒されることを選んだ。
けれどその視線は、ときに自分だけでなく、大切な人々にも向かう──その現実が、突きつけられた。
七日が過ぎた。
庄太は元気を取り戻し、いつもの調子を取り戻しつつあったが、澪の包帯はまだ外せないままだった。
彼女は笑おうとしていた。無理に口角を上げて、痛みに堪えながら、いつもの声を出そうとしていた。
だが、目の奥に──影があった。
ある夕方。
廊下の片隅で、彼女はぽつりと呟いた。
「……おでかけ、できなくなるかな」
その声に、暁狐は言葉を返せなかった。
ただ、俯き、何もできずに立ち尽くすしかなかった。
夜。
膝の上に、風音が静かに乗ってきた。
ふわりとした毛並み。白い尾が、膝から腿へと柔らかく撫でる。
その温もりが、張り詰めていた心にそっと染みこんでいく。
暁狐は、そっとその小さな体を抱き寄せた。
風音はただ寄り添う。
「……守れなかった」
誰にともなく、ぽつりと零した
「誰も……守れなかった。自分さえも」
仮面の奥で、瞳を閉じる。
風の音が、遠く竹の葉を揺らす。
そのとき──
心の奥から、声が響いた。
──弱さは、罪ではない。だが、恐れは、守るべきものを傷つける。
それは、己の声か。仮面の声か。もう区別はつかなかった。
胸の奥が熱かった。怒りがあった。悔しさもあった。
けれど、それをどうすればよいのかが分からなかった。
ただ、願った。
──強くなりたい。誰かを、もう二度と泣かせたくない。
けれど、その『強さ』とは何か。
剣を振るうことか。敵を斬ることか。
それとも、誰かを守りきることか──。
それは、まだ掴めないままだった。
翌夜。
月が昇った庭に、面をつけた少年がひとり立っていた。
空を仰ぐ面の少年。その足元に、風音が寄り添っている。
清雅は縁側に立ち、その背を見つめている。
声はかけなかった。いや、かけられなかった。
ただ、彼の中で、確かな思いが去来していた。
(怒りを知らぬ者は、人を守れぬ。だが、怒りに呑まれた者は、自らをも斬る。)
だからこそ、
己を知り、問いを抱け。
それが、仮面と『共に在る者』となるための──第一歩だ。
面の奥に、まだ言葉にならない問いが、静かに芽吹いていた。
それでもいい。
まだ名前がなくても、その問いは確かに、心の内にある。
少年は、歩き出している。
弱さを知り、痛みを知り、
それでもなお、剣を握る理由を求めながら。
いつか、その理由を自らの言葉で語れるようになるその日まで。
そして──その時こそ、仮面は彼の「顔」となるだろう。
暁狐、十五歳厳冬。




