第1章:1.3 序幕:大肚山下の湿り冷える雨季
SUVは量販店の進入路の分岐へとゆっくりと近づいていった。
大肚山の麓に位置するこの老舗の量販店は、フロアごとの導線が非常に明快で、地上三階と四階は開放的な屋上および室内の立体駐車場、そして地下一階は売り場へ直接繋がる地下駐車スペースとなっている。
闕恆遠は少しのためらいも見せず、迷わずステアリングを切り、車首を地下へと続く傾斜スロープに向けた。
「恆遠兄」
「上の階には停めないの?」
頭上の電光掲示板に三階の空車ありの表示が出ているのを見上げながら、玥映嵐が何気なく尋ねた。
「上には停めない」
闕恆遠は地下へのスロープの両脇にあるコンクリート壁を落ち着いた目で見据え、ブレーキを踏んで減速しながら冷静に説明した。
「今日は外の風雨が強すぎる」
「屋上の駐車場じゃ雨風に吹き晒されるのは当然として」
「上の立体駐車場は螺旋状のスロープが狭すぎるんだ」
「新学期前の買い出し客のカートの波とか車の接触事故なんかが起きたら」
「坂道の途中で一列丸ごと身動きが取れなくなっちまう」
「地下一階へのスロープのほうがまっすぐで幅も広い」
「上に行くみたいに狭い螺旋スロープをぐるぐる回る必要もないしな」
「この古い車であんな急カーブを何度も曲がってたら腕が筋肉痛になっちまうよ」
「それに地下ならエスカレーターからカートのまま直結してるだろ?」
「あとでトイレットペーパーの箱や洗剤、それにでかい水ボトルを買い込んでも」
「トランクの真横までカートごと転がして一気に積み込める」
「雨風に打たれることもないし」
「ずっと楽だからな」
SUVは緩やかな傾斜を下り、地下一階へと滑り込んでいった。
地下の空気には、湿った泥土と排気ガス、そして年季の入ったコンクリート建築特有のひんやりとした匂いが混ざり合っていた。
旧正月の五日の午前中とはいえ、東海大学や弘光科技大学、静宜大学といった近隣三大学の学生たちが早めに戻ってアパートに荷物を運び込み始めているせいか、地下一階の駐車場も四、五割ほどの車で埋まっていた。
闕恆遠は慣れた手つきで非常階段の近くにある広めの駐車スペースへとバックで車を収め、サイドブレーキを引き、シフトをパーキングに入れてキーを捻った。
老朽化したエンジンは、わずかな振動とともに完全にその息を潜めた。
車内はふいに奇妙な静寂に包まれ、遠くの換気扇が低く唸る微かな重低音だけが響いていた。
「着いたぞ」
「みんな降りてくれ」
闕恆遠はシートベルトを外し、ドアを押し開けて冷気漂う地下駐車場へと足を踏み出した。
四人の少女たちも次々と車外へと降り立った。
車から降りるなり、悦清禾は思わず身震いをし、すかさず闕恆遠から差し出された厚手の防風ジャケットを肩に羽織ると、伊凝雪の腕へとしがみつくように手を回した。
千慕羽は静かにトレンチコートの襟元を整え、闕恆遠のすぐ隣に立った。
玥映嵐は身の回り品を入れたタクティカル仕様の小型バックパックを背負い、スマートフォンとタブレットをしっかりと収めた。
五人は少し湿って滑りやすい床を踏みしめ、重厚な自動防火扉をくぐり抜けて、エスカレーターでゆっくりと一階の売り場フロアへと上がっていった。
一階に足を踏み入れた瞬間、鉄板のソースやフライドチキンの油、そして色とりどりのスープが混ざり合った温かな湯気が真っ正面から押し寄せてきた。
正面の鉄板焼き店のグリルからはジュージューと小気味よい炒め物の音が響き渡り、食欲をそそるニンニクと玉ねぎの香りが鼻腔をくすぐる。
右手側にはフードコートの店舗が一列にずらりと並び、紅焼牛肉麺から立ち上る白い湯気、濃厚なカレーの芳香、そして鉄板ステーキのブラックペッパーの刺激が空気の中で絡み合っていた。
左手側にはケンタッキーの鮮やかな赤い看板が掲げられ、その隣には和風の丼ものや定食、そして白い湯気を噴き上げる一人鍋の店が軒を連ねている。
まだ十一時を少し回ったばかりだというのに、フードコートの共用飲食エリアには、すでに子供連れの家族や今日から仕事始めを迎えた会社員たちが何組か腰を下ろしていた。
頭上から流れるおめでたい正月メドレーの賑やかなリズムとともに、空気の中にはありふれた、けれど確かな日常の温もりが満ちていた。
吹き抜けになった広々としたフロア内は照明が煌々と灯り、梁には金箔の文字で「新春大吉」と記された赤いビニールモールが吊り下げられ、天井のスピーカーからは伝統的な新年祝いのメドレー曲が疲れを知らないかのように延々とリピート再生されていた。
賑やかでおめでたい銅鑼や太鼓の「ドンドンロンドンチャン」という響きがホールの隅々にまでこだまし、目の前に広がる巨大な鉄骨構造の建築と溶け合って、どこか不思議な日常の情緒を醸し出していた。
闕恆遠はエスカレーター脇のカート置き場へと歩み寄り、手慣れた動作で深紅の特大金属製カートを二台引き抜くと、そのうちの一台を伊凝雪の目の前へと軽く押し出した。
「凝雪」
「このカートはお前と清禾で使ってくれ」
「二人は食い物と生活雑貨を頼む」
「冷凍水餃子、カップ麺、お菓子、それにトイレットペーパーの箱を先に放り込んでおいてくれ」
「ついでに横のドラッグストアで部屋の救急箱用のガーゼとイソジンも補充してきてほしい」
「俺と映嵐、慕羽はこのカートで重い物を運ぶ」
「でかいボトルの水と麦香紅茶のケースを先に積んで」
「それから映嵐の延長コードと工具を選びに行く」
「手分けしたほうが早いからな」
「だいたい三十分を目安にして」
「あとで下の階に降りるエスカレーター近くのレジ前で合流しよう」
「わかったわ」
「手分けして行きましょう」
伊凝雪はカートのハンドルを受け取り、隣の悦清禾に向けて手元のリストをひらひらと掲げて見せると、二人は身を翻して食品・乾物エリアへと歩き出した。
闕恆遠は千慕羽と玥映嵐を連れ、カートを押しながらパーソナルケア・生活金物売り場へと進んだ。
大型量販店の通路はとても広々としており、小山のように積み上げられた特売の茂谷柑ギフトボックスや、赤いパッケージに包まれたお正月用のお菓子が目立つメイン通路を埋め尽くしていた。
しかし、生活金物の通路に差し掛かったところで、千慕羽はカートを握る指先に無意識のうちに少し力を込めた。
彼女は普段、学科での事例面接や福祉施設の実習を通じて、周囲の人々の感情や些細な身のこなしに対して人一倍敏感だった。
ここまで歩いてくる間、彼女はどうしても周囲の空気が不気味なほど重苦しく、漂う空気そのものに言葉にできない苛立ちが満ちているように感じられてならなかった。
頭上からは相変わらず騒々しい正月祝いの音楽が鳴り響いているというのに、周囲でカートを押す大人たちの何人かは完全に上の空だった。
前方を歩く小さな子供の手を引いた若い父親は、片手で適当にカートを押しつつ、もう片方の手で狂ったようにスマートフォンの画面をスクロールさせており、その表情は見れば見るほど険しさを増していく。
隣の通路では、特売の醤油を手にした中年女性が、スマートフォンを耳に押し当てて切羽詰まった声で早口に通話していた。
「……そうなのよ」
「さっきグループチャットで動画を見たんだけど」
「新竹のほうで狂った奴らが何人か、手当たり次第に人を噛みついてるらしいのよ……」
「今日は絶対に孫を人の多いところへ連れて行っちゃだめよ」
「わかったわね?」
さらには、前方の客のひとりが風邪のせいで激しく二度ほど咳き込んだだけで、周りで菓子を選んでいた何人かの客が瞬時に眉をひそめ、まるで疫病神を避けるかのように無言でカートの距離を取り、上着の襟元を慌てて引き上げていた。
連休の終わりに漂うはずの気の抜けた空気などどこにもなく、誰もが買い物を装いながらも、その視線は警戒と落ち着かない動揺でいっぱいに揺れていた。




