第1章:1.4 序幕:大肚山下の湿り冷える雨季
「恆遠兄……」
千慕羽は冷たくなった指先を伸ばし、闕恆遠の上着の袖口をそっと引き留めるように掴んだ。
その声はごく低く抑えられていたが、騒々しいおめでたい音楽に紛れることなく、かえって異様なほど明瞭で重々しく響いた。
「何か感じない……?」
「ここの空気」
「すごく張り詰めてて、絶対におかしいよ」
闕恆遠は足を止め、振り返って千慕羽の静けさの中に微かな警戒を滲ませた横顔を見つめた。
「どうしたんだ」
「慕羽?」
千慕羽はわずかに下唇を噛み、少し離れたパーソナルドラッグストアのカウンターへと視線を走らせた。
「あのドラッグストアのレジの前に群がってる人たちを見て」
「みんなの目がすごくピリピリしてて」
「隣の人をずっと警戒してるの」
「まるで突然何かとんでもない大事故に巻き込まれた時みたい」
「それに……」
千慕羽が言葉を結ぶよりも早く、カート半分ほどの日用品を積んだ伊凝雪と悦清禾が、生鮮エリアの脇道から小走りで駆け寄ってきた。
悦清禾の顔色はいくらか青ざめており、彼女は小走りで闕恆遠のそばに歩み寄ると、その上着の袖をそっと引きながら小声で言った。
「恆遠……」
「さっき凝雪と前の薬局の前を通ったんだけどさ」
「あそこ、本当に何か変だったの」
「カウンターの中にいた当直の女性薬剤師さん」
「ものすごい大汗をかいてて」
「顔色がどす黒く青ざめてて」
「胸の上下動が激しすぎて」
「ハァハァって荒い息を何度もついてたのよ」
「バーコードを読み取るスキャナーや解熱剤の箱を両手で持つこともできなくて」
「カウンターの上に何度も落としちゃってさ」
普段から生命科学科で実験に親しんでいる悦清禾は、人間の身体の異常な生理状態に対して人一倍敏感だったため、その声には隠しきれない不安が滲んでいた。
「あれはただの風邪とか疲れとかそんなものじゃないの」
「あんなに息が切れてるのはひどい酸欠みたいだったし」
「それに顔の赤みも異常だったし」
「体の中で何かものすごく恐ろしい急性の炎症や高熱が起きてる感じがしたの」
「なのに周りで薬を待ってる人たちは早くしろってずっと急かしててさ」
「その人はもう返事すら満足にできない状態だったのに」
「みんな、マスクをつけて」
伊凝雪は少しの迷いも見せず、コートのポケットから新品の活性炭入り不織布マスクを一袋取り出すと、手際よく外袋を破り、悦清禾、千慕羽、玥映嵐へと順番に手渡し、最後の一枚を闕恆遠へと差し出した。
「感染症かどうかにかかわらず」
「換気を完全に中央空調に依存しているこんな閉鎖された大型量販店の中では」
「最低限の自己防衛をしておくことだけが唯一の正しい選択よ」
伊凝雪は冷静な手つきで鼻梁の金属ワイヤーを押さえつけながら、声を低くして言葉を重ねた。
「さっきカートを押して戻ってくる間」
「生鮮エリアの頭上に吊るされた液晶テレビをずっと見ていたの」
「大手ニュース各局のテロップが十分前に一斉に深紅に切り替わって」
「台北市のいくつかの大規模な大学病院が、午前十時の時点で一斉に敷地内の立ち入り制限に入ったわ」
「ニュースの映像では救急外来の外に規制線が張られたところしか映していなかったけれど」
「カメラの奥には真っ黒な暴動鎮圧用の装甲車まで出動していたのよ」
「黒い対暴動装備に身を包んで長銃を構えた特殊警察が大勢取り囲んでいる姿まで映っていたわ」
「こんなの、絶対に普通のインフルエンザなんかじゃない」
闕恆遠はマスクを受け取って装着すると、その瞳の奥の光を一瞬で張り詰めたものへと変えた。
工学部の学生として、彼の脳裏では本能的に現場の環境リスクの計算が始まっていた。
閉鎖空間、パニックを起こしかけている大勢の群衆、限られた主要な出入口、そして電力に頼りきった照明と換気システム。
「これ以上選ぶのはやめだ」
「カートに入ってる分だけでいい」
「今すぐレジに向かって会計を済ませ——」
だが、闕恆遠の言葉が最後まで言い切られるよりも早く、売り場のメイン通路のあたりから、突如として激しく重々しい革靴の足音が響き渡ってきた。
台中市政府警察局の制服を身にまとい、警棒と拳銃を腰に佩いた二名の巡査が、フードコートの方向から売り場の中へと足早に入ってきた。
その制服の腕章から見て、管轄である第六分局協和派出所の現場警察官であることが見て取れる。
二人の警察官の表情は極度の疲労と焦りに満ちており、もともとは売り場の中にある巡回連絡箱にサインをし、ついでに温かい弁当でも買い求めるつもりだったようだった。
しかし、前を歩いていた若い警察官の肩にある警察用無線機から、突如として耳を劈くような激しいショートノイズが響き渡った。
ジジッ――ジジジッ――!
直後、無線機のスピーカーから、受話器を張り裂かんばかりの怒号と絶叫が爆発した。
それは台中市警察局の通信指令センターの通信員による、今にも崩壊しそうなほどの悲痛な叫び声だった。その叫びは、売り場の半分ほどの通路にまで響き渡るほどに凄まじかった。
『全網へ通達!』
『全網へ通達!』
『分局各パトロール部隊は直ちに通常警邏を中止せよ!』
『繰り返す!』
『協和、西屯、市政の各署、全警邏隊は』
『直ちに対暴動装備を携行し、中港澄清病院へ支援に向かえ!』
『澄清病院の救急外来が、暴走した複数の民間人による強行突入を受け破壊された……』
『現場にて大規模な無差別咬傷および襲撃事案が発生中……!』
『繰り返す!』
『すでに現場では複数の医療従事者および臨場した警察官が深刻な咬傷被害を受けている……』
『襲撃者は理性を喪失している模様……!』
『直ちに台湾大通り四段の市街地方面を完全封鎖せよ!』
『直ちに執行せよ――』
激しい金属同士の衝突音と、耳を刺す極限の断末魔とともに、通信は唐突に途絶した。
売り場の通路全体が、この刹那、まるで真空の底に沈んだかのような死寂に呑まれた。
周囲でカートを押し、品定めをしていた何十人もの客たちは、その全員がその場に石のように凍りつき、恐怖に染まった瞳で二人の警察官を凝視していた。
その若い警察官の顔色は紙のように青ざめ、腰のホルスターに手を添えながら、年長の相棒へ向けて震える声で言った。
「先輩……」
「澄清病院って……」
「うちの分局のほんの数百メートル先じゃないですか……」
年長の警察官は奥歯を噛み締め、若い警察官の腕を力任せに掴んだ。
「無駄口を叩くな!」
「まず車に戻って盾と暴動鎮圧ヘルメットを取るぞ」
「派出所に連絡して、重装備とデカい獲物を全部持ち出させろ」
「急げ!」
二人の警察官は巡回連絡箱にサインをする間すら惜しみ、踵を返して正面出入口の方向へ脱兎のごとく駆け出していった。
空気の温度が、まるで一瞬にして氷点下まで叩き落とされたかのようだった。
大肚山の外から吹き付ける冷たい風雨は、今も無情に大型量販店の明かり取りの窓を激しく叩き続けている。
そして五人の周囲の空気は、この唐突にもたらされた警報によって、完全に凍りついていた。




