第1章:3.2 商圏の潰走
「嘘でしょ……」
後部座席の悦清禾は冷え切った窓ガラスに顔を寄せ、両手でシートベルトを強く握りしめたまま、一瞬にして目頭を赤く滲ませ、かすれそうな震え声をもらした。
「あの人たち……」
「靴すら脱げたままで走ってる……」
空のベビーカーを押した若い母親が、片足を素足のまま、冷たく濡れたアスファルトの端を狂ったように人の波に逆らってレストランの入口へと駆け戻ろうとしていた。髪を振り乱し、張り裂けんばかりの声で男の子の名前を叫び続けるその痛々しい姿は、見ている者の胸を抉るようだった。
だが、足を止めて彼女を助けようとする者など誰一人いなかった。誰もが逃げ惑い、周りで悲鳴を上げる群衆にただ盲目に従って外へ外へと狂ったように走り続けていた。
「清禾」
「見ちゃだめ」
千慕羽はそっと手を伸ばし、悦清禾の頭を優しくこちら側へと向けさせたが、彼女自身の瞳にも計り知れない重苦しさが満ちていた。
社会福祉学科の学生である千慕羽には、集団パニックがもたらす破壊力がどれほど絶望的なものか、痛いほど理解できていた。
理性を失った極限状態において、将棋倒しや押し合いによる死傷者は、真の脅威が眼前へ到達するよりも前に、目の前の秩序をすでに木っ端微塵に引き裂いてしまうのだ。
通りの四車線の車道もまた、同じように急速な狂乱の泥沼へと沈み始めていた。
中科ショッピングプラザの前に整然と並んでいたはずの有料パーキング枠や路肩の白線エリアは、今や新年の会食に訪れていた無数のSUVやセダンで埋め尽くされていた。
大汗をかいた何人かの男性ドライバーたちが慌ただしくドアを開けて車内に飛び込み、後方から直進してくる車の有無など一切確かめることもなく、アクセルを狂ったように踏み込んで本線へと強引にバックで割り込もうとしていた。
ドンッ!
一台のシルバーのSUVが焦ってバックしすぎたあまり、そのリアバンパーが対向してきた黒い小型セダンのヘッドライトを無残に叩き潰し、二台の車はその場で一番外側の緩行車線にガチガチに噛み合って立ち往生した。
二人のドライバーがドアを押し開けて飛び出し、片方はスマホを耳に当てたまま狂ったように怒鳴り散らし、もう片方は相手の鼻先を指差して罵倒していたが、周囲に渦巻くけたたましい悲鳴がその怒声を跡形もなく呑み込んでいた。
「外側の車線は逃げ出そうとする車で完全に塞がってる」
闕恆遠の眼差しは水のように静まり返っており、両手でステアリングを寸分の狂いもなく操作していた。目の前の惨状に動揺する気配など微塵も見せない。
「中央寄りの追越車線に切り替えるぞ!」
「中央分離帯にぴったり張り付いて走る」
「あっちなら飛び出してくる人間もいない」
「路面の状態もまだマシだ!」
古いSUVのアクセルが力強く踏み込まれ、エンジンが重厚で安定した唸りを上げた。
ノーズは内側車線で巧みに一本の直線を紡ぎ出し、西屯路の上り坂の方向を目指して真っ直ぐに突き抜けていく。
「スマホ、まだネットは全然繋がらない?」
伊凝雪が助手席から振り返り、後部座席の玥映嵐へと問いかけた。
玥映嵐はスマートフォンを両手で狂ったように操作していたが、画面上部のアンテナピクトの隣、「4G」と表示されるべき場所には白抜きの警告マークが虚しく浮かぶだけで、画面下のチャットアプリのアイコンの上では灰色の歯車が絶望的な遅さで回転し続けていた。
「ダメ、全滅だよ」
「モバイルデータ通信は完全に死んでる」
玥映嵐はスマホの画面を消し、悔しげに奥歯を噛みながら首を横に振った。
「基地局のデータ回線が完全にパンクしたんだと思う」
「テキストメッセージ一行すら送信できないよ」
「ウェブページも開かないし」
「ナビの地図データも読み込めない」
「今ニュースの生配信を見ようとしたり、政府の防災警報を確認しようとしたって」
「サーバーにすらアクセスできないよ」
「ネットが繋がらないならもういいわ」
伊凝雪は深く息を吸い込み、胸を激しく一度上下させたあと、無理やりにでも冷徹な理性を引き戻した。
「固定電話にかけてみて!」
「従来の音声通話回線を使うのよ」
「台北の実家へ直接かけるの!」
「まずは家の固定電話よ!」
「実家の電話なら地下の光回線や銅線を通ってるはず」
「こっちの電波を飛ばすのは難しいかもしれないけれど」
「基地局の通信の隙間さえ掴めれば」
「携帯同士にかけるより固定電話のほうがまだ繋がる可能性があるわ!」
その言葉はまるで一撃の重い鉄槌のように、車内の全員の意識を一瞬にして覚醒させた。
五人の両親は全員、台北の実家にいた。
さっき台糖量販店で警察の無線から響いたあの凄惨な救難の声を耳にして以来、全員の神経は物資をいかに確保するか、駐車場をどう突破するか、どのルートを選んで生き延びるかだけに極限まで張り詰めさせられており、息をつく暇すら微塵もなかった。
こうして車がようやく最も過密だった福林路の交差点を抜け、短いながらも平穏な上り坂の区間に入ったことで、胸の奥深くに押し殺されていた、遥か北部にいる家族への骨身を削るような不安が一瞬にして津波のように押し寄せてきた。
悦清禾は震える手でポシェットからピンクのスマートフォンを引き抜いたが、指先の震えがひどく、二度押し直してようやく画面のロックを解除した。
記憶を頼りに、台北の実家の固定電話の番号をプッシュする。
静まり返った車内において、キーの電子音は異様なほど乾いて甲高く響いた。
ツッ――
受話器の向こうから返ってきたのは、いつもの聞き慣れた長い呼び出し音ではなく、極めて短く耳障りな話し中のノイズだった。
『ツーツーツーツー……』
『ただいま回線が大変混み合っております。』
『しばらく経ってからお掛け直しください……』
『ツーツー……』
悦清禾の瞳から大粒の涙が一気に溢れ出した。彼女は通話終了ボタンを強く押し込むと、憑りつかれたように狂った手つきでリダイヤルを叩き続けた。
「お母さん……っ」
「早く出てよ……」
「お願いだから電話に出て……!」
千慕羽も同様にスマートフォンを握りしめ、父親の携帯電話の番号へと発信していた。
通話ボタンを押したものの、受話口の奥からは底知れぬ静寂が返ってくるばかりで、話し中のビープ音すら鳴らない。ほんの数秒の後、画面は非情にもホーム画面へと跳ね返り、「通話終了」の文字が虚しく浮かび上がった。
「だめ」
「回線システムが完全にキャパオーバーしてる」
千慕羽の顔は白く抜け落ちていたが、それでも声のトーンだけは必死に落ち着きを保とうとしていた。
「みんな手を止めないで」
「リダイヤルを押し続けるの!」
「完全に回線が切断されたわけじゃない」
「今、台湾中の人間が一斉に狂ったように電話をかけてるせいで」
「無線の通信チャンネルがパンクしてるだけ!」
「諦めずに何度も試し続ければ」
「ほんの一瞬でも空いたスロットを拾えるかもしれない」
「そうすれば繋がるチャンスはあるはずよ!」
古いSUVの後部座席には、三人の少女たちの荒い息遣いと、ひたすらに画面をタップし続ける爪の乾いた音だけが響き渡っていた。




