第二章 - 丘 / 5月13日
「また明日ー!」
「プリント忘れてるよ!」
「駅まで一緒に行く?」
「やべっ、部活始まる!」
終礼が終わると、一分もしないうちに教室の半分以上が空っぽになった。
私は焦らず鞄を閉じる。帰宅部だから急ぐ理由もない。2年A組でまっすぐ家に帰る生徒なんて、私と健を含めて五、六人しかいない。しかもその半分は塾へ向かう。
「行こうか」
健がカバンを肩に引っかけて、私の机の横に立った。
「うん」
二人で廊下に出る。昇降口へ向かいながら、ふと思ったことを口にしてみた。
「……そういえば、うちのクラスって帰宅部少ないよね」
「そうか?」
「数えた」
「文抄記ってさ、たまに変なとこ数えるよな」
「そう?」
ちょっと考えてから思い出す。
「……あ、でも確かに。通学路のお地蔵さんなら数えたことある」
健の足が止まった。
「……ちなみに何体?」
「二十三体」
三秒ほど沈黙が流れる。
「聞かなきゃよかった」
◇
昇降口を出ると、グラウンドから乾いた快音が響いてきた。野球部が練習を始めている。
「……あれ」
グラウンドの真ん中に、麻里が立っている。
「志田ちゃん! せっかくだし一球投げてみる?」
三年生らしき先輩が、予備のボールを麻里に放った。
「え?」
横から鈴木くんが笑う。
「フォームとか気にしなくていいから、とりあえず投げてみて!」
「えっと……普通に?」
麻里はボールを握ると、いかにも投げ慣れてなさそうなフォームで一歩踏み出した。
――バシィィィンッ!
凄まじい衝撃音がグラウンドに轟いて、キャッチャーが一歩後ろによろめいた。
グラウンドが一瞬で静まり返る。
キャッチャーは目を丸くしたまま、煙でも出そうな自分のミットを見つめていた。
「……え?」
陽斗くんが目を見開く。
「今の、すごくない……?」
三年生の先輩が口笛を鳴らした。
「肩、強すぎだろ……うちのエースより球威あるぞ」
「普通に野球部に欲しいレベルじゃないっすか……?」
一年生の部員も、いま見た光景が信じられないって顔で呟く。
部員たちがざわつき始めた途端、麻里の顔色がサッと青ざめた。
「あっ、ご、ごめんなさい! そんなに強く投げるつもりじゃ……!」
何度も頭を下げる麻里に、キャッチャーが苦笑いしながら手を振る。
「いやいや大丈夫、ちょっとびっくりしただけだから」
「本当にごめんなさい!!!」
必死に謝り続ける麻里を、私と健は遠くから見つめていた。
「……本当に何なんだろ、あいつ」
健がポツリと呟く。
「……少なくとも、普通じゃないのは確かだね」
◇
グラウンドを後にして、いつもの帰り道を歩く。五月の風が心地よくて、日差しもまだそんなに暑くない。
見慣れた分かれ道に差し掛かったときだった。
「なあ、文抄記」
「ん?」
「『丘』寄ってみる? せっかくだし」
「いいよ」
住宅街の中にある、小さな丘。
いや、正確には「丘」なんて呼べるほど高いものではない。昔からそう呼んでいるだけの、少し盛り上がった場所だ。
子どもの頃から、私と健はよくここへ来ていた。
町が少しだけ見渡せる高台で、一番上には摩利支天堂がある。
古びた小さな木造のお堂で、長い年月のせいか、全体的にだいぶ傷んでいる。
お堂の前に立っている案内板の前で、私は眼鏡をちょっと押し上げた。すっかり色あせて端っこも少し錆びついた板は、文字がかすれていてかなり読みづらい。
「鎌倉末期から……室町初期の創建……江戸時代には摩利支天講が……」
「お前、毎回読むよなそれ」
健がお堂の縁側に腰を下ろす。
「……にしても、昔はここにいっぱいお参りの人が来てたなんて、今じゃ想像つかないよね」と私が健に言う。
「確かに。今ここに来るのなんて、ほぼ俺たちだけじゃね」
案内板の隣には、風雨にさらされた古い石碑が立っている。三つの顔に六本の腕、足元には猪。表面の刻印は欠けちゃってるけど、その険しい表情だけはハッキリ残っていた。
「小さい頃、それめちゃくちゃ怖かったんだよな」
健が石碑のほうを見ながら言った。
「初めて見た時なんて、健は泣いておばさんの後ろに隠れてたもんね」
「泣いてない」
健は即座に否定した。
「いや泣いた」
「泣いてないって」
思わずくすっと笑った、その時だった。
「ねえ――何見てるの?」
「うわっ!?」
健が飛び上がり、私もしゃっくりが出そうになって振り返る。
石灯籠の陰から、麻里が顔を出してニヤニヤしている。
「あはは、ごめんごめん!」
「絶対ごめんって思ってないだろ」
健が胸を押さえてハァと息を吐く。
「いつ来たの? 足音ぜんぜん聞こえなかったんだけど」と私が訊く。
「今だよ。昔から足音しないってよく言われるんだよね」
そう言って、何でもないことみたいに笑う。
それから、麻里はお堂へ近づいていった。
「……これが摩利支天堂ね」
「うん。ここ初めて?」
健が尋ねると、麻里は一瞬だけ言葉を詰まらせた。
「……うーん、そうでもないかな」
ちょっとだけ引っかかる言い方だったけど、健は特に気にしていないみたいだった。
三人でお堂の縁側に腰を下ろす。目の前に広がっている町並みを、爽やかな風がすうっと通り抜けていく。
麻里が辺りを見回した。
「いい場所だよね、ここ」
「子どもの頃からよく遊んでたんだ。夏なんて毎日ここ来てさ、セミ捕ったりカブトムシ探したりさ。文抄記なんて図鑑まで作ってたし」
「それ、うちにまだある」
「まだ持ってんのかい」と健が突っ込む。
「あと、ゴミ拾いもしてたよね」
「ゴミ拾い?」麻里がこっちを向く。
「高校生とかがジュースの缶を置いていったりするから、ゴミ袋持ってきて拾ってた。遊ぶ場所が汚いのはイヤだったし」
麻里は一瞬、何も言わなかった。
私と健の顔をじっと見つめると、ふっと微笑む。
「……ありがとう」
その一言だけ、妙に静かで、深く胸に響く声だった。
「なんでお礼?」
健が首をかしげる。
「あ、いや」
麻里は目をぱちくりさせて、ちょっと頬を赤くした。
「その……こういう古い場所を大事にしてくれる人がいるのって、いいなぁと思って! ほら、文化財だし!」
麻里は案内板の方を指差しながら、ちょっと早口で言った。
「そういえば」健が話を戻す。「麻里ってどの辺に住んでんだ? 学校から歩きだよな」
麻里は一瞬だけ間を置いた。
「……えっと、あっち」と、東の方をぼんやり指差す。
「あっちって広すぎるだろ。どの辺?」
「静かなところで……家があって……道もあるところ」
「それ町中どこでもそうだから」
「まだ地名がぜんぜん覚えられなくて」
「まあ、転校してきたばっかりだもんな」
健があっさり納得すると、麻里はほっとしたように笑っ
た。
「そうそう!ここのことはまだ勉強中なの!」
完全に誤魔化された気がしたけど、それ以上は突っ込まなかった。
◇
しばらくして、私たちは丘を下りた。
「じゃあ二人とも、また明日ねー!」
お団子ヘアを揺らしながら、大きく手を振る麻里を見送る。
「……本当にあの辺に住んでるのかな」と健が呟く。
「さあ」
私にもわからない。
「でも、悪いやつじゃないよな」
「……うん」
そう思う。
そう思いたい。
それから私たちは、ほとんど言葉を交わさないまま歩いた。
やがて健の家の前に着く。
「じゃ、俺ここまで」
「うん、また明日」
健は手を振ると、生け垣の向こうへ消えていった。
一人になって歩き出す。
夕日に染まっていく町を見ながら、ふと、フィリピンのラグナにいた頃の景色を思い出した。
(おじさんおばさんたち、元気にしてるかな……)
家に近づくにつれて、昨日読んだあの英語の本の一文が、また頭をよぎる。
«あるインドの伝説では、摩利支天は光の矢を放ち、阿修羅王を打ち破ったという。»
どうしても気になる。今日の『諸仏図像』にも、やっぱりそんな話は載っていなかった。
でも、家に帰ればまだ目を通していない仏教の本がたくさんある。
それに、もしかしたら、おじいちゃんなら何か知っているかもしれない。
そう思いながら、私は少しだけ足を早めて、夕暮れの住宅街を歩いた。
【摩利支天堂(久古崎市鷺浜)】
久古崎市指定文化財 摩利支天堂
この堂宇は、鎌倉時代末期から室町時代初期の創建と伝えられ、鷺浜村および周辺地域における摩利支天信仰の拠点として栄えた。江戸時代には摩利支天講も組織され、地域の人々によって大切に守られてきた。
かつては春秋に大祭が行われて賑わいを見せたが、現在は谷戸の聖光寺にてその伝統が受け継がれている。
当堂に伝わる二体の摩利支天像のうち、一体は秘仏として現在もここに安置され、もう一体は明治初期に聖光寺へ移された。
摩利支天は、太陽の光や陽炎を神格化した、除災・勝運の仏である。
久古崎市教育委員会




