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第二章 - 丘 / 5月13日

「また明日ー!」


「プリント忘れてるよ!」


「駅まで一緒に行く?」


「やべっ、部活始まる!」


終礼が終わると、一分もしないうちに教室の半分以上が空っぽになった。


私は焦らず鞄を閉じる。帰宅部だから急ぐ理由もない。2年A組でまっすぐ家に帰る生徒なんて、私とけんを含めて五、六人しかいない。しかもその半分は塾へ向かう。


「行こうか」


健がカバンを肩に引っかけて、私の机の横に立った。


「うん」


二人で廊下に出る。昇降口へ向かいながら、ふと思ったことを口にしてみた。


「……そういえば、うちのクラスって帰宅部少ないよね」


「そうか?」


「数えた」


文抄記みさきってさ、たまに変なとこ数えるよな」


「そう?」


ちょっと考えてから思い出す。


「……あ、でも確かに。通学路のお地蔵さんなら数えたことある」


健の足が止まった。


「……ちなみに何体?」


「二十三体」


三秒ほど沈黙が流れる。


「聞かなきゃよかった」



昇降口を出ると、グラウンドから乾いた快音が響いてきた。野球部が練習を始めている。


「……あれ」


グラウンドの真ん中に、麻里が立っている。


「志田ちゃん! せっかくだし一球投げてみる?」


三年生らしき先輩が、予備のボールを麻里に放った。


「え?」


横から鈴木くんが笑う。


「フォームとか気にしなくていいから、とりあえず投げてみて!」


「えっと……普通に?」


麻里はボールを握ると、いかにも投げ慣れてなさそうなフォームで一歩踏み出した。


――バシィィィンッ!


凄まじい衝撃音がグラウンドに轟いて、キャッチャーが一歩後ろによろめいた。


グラウンドが一瞬で静まり返る。


キャッチャーは目を丸くしたまま、煙でも出そうな自分のミットを見つめていた。


「……え?」


陽斗くんが目を見開く。


「今の、すごくない……?」


三年生の先輩が口笛を鳴らした。


「肩、強すぎだろ……うちのエースより球威あるぞ」


「普通に野球部に欲しいレベルじゃないっすか……?」


一年生の部員も、いま見た光景が信じられないって顔で呟く。


部員たちがざわつき始めた途端、麻里の顔色がサッと青ざめた。


「あっ、ご、ごめんなさい! そんなに強く投げるつもりじゃ……!」


何度も頭を下げる麻里に、キャッチャーが苦笑いしながら手を振る。


「いやいや大丈夫、ちょっとびっくりしただけだから」


「本当にごめんなさい!!!」


必死に謝り続ける麻里を、私と健は遠くから見つめていた。


「……本当に何なんだろ、あいつ」


健がポツリと呟く。


「……少なくとも、普通じゃないのは確かだね」



グラウンドを後にして、いつもの帰り道を歩く。五月の風が心地よくて、日差しもまだそんなに暑くない。


見慣れた分かれ道に差し掛かったときだった。


「なあ、文抄記」


「ん?」


「『丘』寄ってみる? せっかくだし」


「いいよ」


住宅街の中にある、小さな丘。


いや、正確には「丘」なんて呼べるほど高いものではない。昔からそう呼んでいるだけの、少し盛り上がった場所だ。


子どもの頃から、私と健はよくここへ来ていた。


町が少しだけ見渡せる高台で、一番上には摩利支天堂がある。

古びた小さな木造のお堂で、長い年月のせいか、全体的にだいぶ傷んでいる。


お堂の前に立っている案内板の前で、私は眼鏡をちょっと押し上げた。すっかり色あせて端っこも少し錆びついた板は、文字がかすれていてかなり読みづらい。


「鎌倉末期から……室町初期の創建……江戸時代には摩利支天講が……」


「お前、毎回読むよなそれ」


健がお堂の縁側に腰を下ろす。


「……にしても、昔はここにいっぱいお参りの人が来てたなんて、今じゃ想像つかないよね」と私が健に言う。


「確かに。今ここに来るのなんて、ほぼ俺たちだけじゃね」


案内板の隣には、風雨にさらされた古い石碑が立っている。三つの顔に六本の腕、足元には猪。表面の刻印は欠けちゃってるけど、その険しい表情だけはハッキリ残っていた。


「小さい頃、それめちゃくちゃ怖かったんだよな」


健が石碑のほうを見ながら言った。


「初めて見た時なんて、健は泣いておばさんの後ろに隠れてたもんね」


「泣いてない」


健は即座に否定した。


「いや泣いた」


「泣いてないって」


思わずくすっと笑った、その時だった。


「ねえ――何見てるの?」


「うわっ!?」


健が飛び上がり、私もしゃっくりが出そうになって振り返る。


石灯籠の陰から、麻里が顔を出してニヤニヤしている。


「あはは、ごめんごめん!」


「絶対ごめんって思ってないだろ」


健が胸を押さえてハァと息を吐く。


「いつ来たの? 足音ぜんぜん聞こえなかったんだけど」と私が訊く。


「今だよ。昔から足音しないってよく言われるんだよね」


そう言って、何でもないことみたいに笑う。


それから、麻里はお堂へ近づいていった。


「……これが摩利支天堂ね」


「うん。ここ初めて?」


健が尋ねると、麻里は一瞬だけ言葉を詰まらせた。


「……うーん、そうでもないかな」


ちょっとだけ引っかかる言い方だったけど、健は特に気にしていないみたいだった。


三人でお堂の縁側に腰を下ろす。目の前に広がっている町並みを、爽やかな風がすうっと通り抜けていく。


麻里が辺りを見回した。


「いい場所だよね、ここ」


「子どもの頃からよく遊んでたんだ。夏なんて毎日ここ来てさ、セミ捕ったりカブトムシ探したりさ。文抄記なんて図鑑まで作ってたし」


「それ、うちにまだある」


「まだ持ってんのかい」と健が突っ込む。


「あと、ゴミ拾いもしてたよね」


「ゴミ拾い?」麻里がこっちを向く。


「高校生とかがジュースの缶を置いていったりするから、ゴミ袋持ってきて拾ってた。遊ぶ場所が汚いのはイヤだったし」


麻里は一瞬、何も言わなかった。

私と健の顔をじっと見つめると、ふっと微笑む。


「……ありがとう」


その一言だけ、妙に静かで、深く胸に響く声だった。


「なんでお礼?」


健が首をかしげる。


「あ、いや」


麻里は目をぱちくりさせて、ちょっと頬を赤くした。


「その……こういう古い場所を大事にしてくれる人がいるのって、いいなぁと思って! ほら、文化財だし!」


麻里は案内板の方を指差しながら、ちょっと早口で言った。


「そういえば」健が話を戻す。「麻里ってどの辺に住んでんだ? 学校から歩きだよな」


麻里は一瞬だけ間を置いた。


「……えっと、あっち」と、東の方をぼんやり指差す。


「あっちって広すぎるだろ。どの辺?」


「静かなところで……家があって……道もあるところ」


「それ町中どこでもそうだから」


「まだ地名がぜんぜん覚えられなくて」


「まあ、転校してきたばっかりだもんな」


健があっさり納得すると、麻里はほっとしたように笑っ

た。


「そうそう!ここのことはまだ勉強中なの!」


完全に誤魔化された気がしたけど、それ以上は突っ込まなかった。



しばらくして、私たちは丘を下りた。


「じゃあ二人とも、また明日ねー!」


お団子ヘアを揺らしながら、大きく手を振る麻里を見送る。


「……本当にあの辺に住んでるのかな」と健が呟く。


「さあ」


私にもわからない。


「でも、悪いやつじゃないよな」


「……うん」


そう思う。


そう思いたい。


それから私たちは、ほとんど言葉を交わさないまま歩いた。


やがて健の家の前に着く。


「じゃ、俺ここまで」


「うん、また明日」


健は手を振ると、生け垣の向こうへ消えていった。


一人になって歩き出す。


夕日に染まっていく町を見ながら、ふと、フィリピンのラグナにいた頃の景色を思い出した。


(おじさんおばさんたち、元気にしてるかな……)


家に近づくにつれて、昨日読んだあの英語の本の一文が、また頭をよぎる。


«あるインドの伝説では、摩利支天は光の矢を放ち、阿修羅王を打ち破ったという。»


どうしても気になる。今日の『諸仏図像』にも、やっぱりそんな話は載っていなかった。


でも、家に帰ればまだ目を通していない仏教の本がたくさんある。


それに、もしかしたら、おじいちゃんなら何か知っているかもしれない。


そう思いながら、私は少しだけ足を早めて、夕暮れの住宅街を歩いた。

【摩利支天堂(久古崎市鷺浜)】


久古崎市指定文化財 摩利支天堂


この堂宇は、鎌倉時代末期から室町時代初期の創建と伝えられ、鷺浜さぎはま村および周辺地域における摩利支天信仰の拠点として栄えた。江戸時代には摩利支天講も組織され、地域の人々によって大切に守られてきた。

かつては春秋に大祭が行われて賑わいを見せたが、現在は谷戸の聖光寺しょうこうじにてその伝統が受け継がれている。

当堂に伝わる二体の摩利支天像のうち、一体は秘仏として現在もここに安置され、もう一体は明治初期に聖光寺へ移された。

摩利支天は、太陽の光や陽炎を神格化した、除災・勝運の仏である。


久古崎市教育委員会

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