第一章 - 麻里 / 5月13日
ライラ・ムーンストーン『Buddhist Deities and Their Legends(仏教の尊格とその伝承)』(1983年)より
「摩利支天は、夜明けと太陽の光を司る女性の神格である。その名は、日の出に先立って現れる最初の光を意味する。チベットおよび日本において広く信仰されている。(…)
摩利支天については、さまざまな伝承が伝えられている。ある一つのインドの伝説では、阿修羅の王との大いなる戦いで、光の矢でこれを打ち破ったという。」(原文英語)
久古崎市立第三中学校、2年A組。
3時間目と4時間目の間の休み時間。
教室は、今日もあいかわらず騒がしかった。
後ろの方では、鈴木陽斗くん、石井くん、板橋くん、秋月くんが紙切れを机に並べて盛り上がっている。
「効果エグすぎだろ!」
「てか『Ω混沌邪王龍』何だよ」
「攻撃力おかしいって」
男子の間で流行っている手作りゲーム「ペーパーマジックモンスター」らしい。
窓際では、田中さん、風見さん、浅川さんが昨日のテレビ番組の話をしていた。
「昨日の週スマ見た?」
「うん、見た見た。マジやばかったよね」
会話や笑い声が、教室のあちこちから聞こえてくる。
私は、そのどれにも加わらず、本を開いていた。
周囲の話し声は、特に気にならなかった。むしろ、このくらいのざわめきの方が本に集中できる。
開いているのは、『諸仏図像』という古い本。
この前、おじいちゃんと神保町に行った時に見つけた本だ。
«【摩利支天】
梵語 Marīcī(光線・陽炎の意)の音写。(…)インドでは太陽や暁の光と関連する神格として発展する。(…)弓矢を持つ姿が多い。猪に乗る、あるいは猪を伴う姿でも表される。»
「……ふむ」
昨日読んだ英語の入門書を思い出す。仏教の神々を写真付きで紹介する、ごく普通の本だった。
その中に、一文だけ気になる記述があった。
«あるインドの伝説では、摩利支天は光の矢を放ち、阿修羅王を打ち破ったという。»
聞いたことのない伝承だった。気になって昨日の夜も家にある仏教の本をいろいろ調べたけど、どの本にも載っていなかった。
この『諸仏図像』なら…と思って学校に持ってきたが――
「……」
「…ここにも無いか」
思わず小さく呟く。
私はノートの端に書き込んだ。
«マリシ天&阿修羅 - 要確認 後世の伝承?»
「ねえ。何読んでるの?」
顔を上げると、前に志田さんが立っていた。
志田 麻里。
転校してきてまだ三日目なのに、もうずっと前からこのクラスにいたみたいに、誰とでも自然に話している子。
「…仏教の本」
「神話みたいなやつ?」
「まあ、近いかも」
「へえ」
志田さんは身を乗り出して本を覗き込む。
近い。本当に距離が近い。
「ちょっと読ませてよ」
「今読んでるから」
「じゃあ待つ」
そう言って、志田さんはにこっと笑った。
……妙に眩しい。
まるで太陽みたいにキラキラしているというか…
「麻里さん!」
後ろから声が飛んできた。鈴木くんだった。
「今日、放課後ヒマ?」
「うん、ヒマだけど」
「野球部、見学…どうですか?」
すると石井くんがすぐに口を挟む。
「お前、それ勧誘に見せかけたナンパだろ」
「陽斗くん、アプローチ速すぎ!」と田中さんが言う。
「ち、違うって!」
「顔赤いぞ」と秋月くん。
「うるさい!」
板橋くんもニヤニヤしている。
「陽斗、わかりやす」
「いや、入部に興味あるのかなって思っただけだから!野球部、マジで人手足りないんだって!マネージャーとか…」
鈴木くんは慌てて弁解すると、志田さんは楽しそうに笑った。
「わかった!ちょっとだけ見に行くね」
「ほんと?サンキュ!」
鈴木くんはわかりやすく顔を輝かせ、カード遊びに戻っていった。
「紀伊さんってさ」
志田さんがこっちへ向き直る。
「いつもそういう系の本読むの?」
「うん。まあ」
「漫画とかは?」
「読むこともある」
「何読むの?」
「……かなりマイナーなやつだから、たぶん知らないと思う」
「そっかぁ」
志田さんは納得したような、していないような顔した時だった。
「志田さん。そいつ、本読んでる時に話しかけると機嫌悪くなるぞ」
後ろの席の健が呆れ顔で言ってきた。
私は振り返る。
「何。私、不機嫌に見える?」
「いや、どう見ても不機嫌だろ」
「だから違うって」
「不機嫌なやつはだいたいそう言う」
「決めつけないで」
「ほらな」
志田さんは、私と健を交互に見た。
「二人って、前から知り合い?」
「小2から」と健。「文抄記がフィリピンからこっちに来た時」
「えっ、紀伊さんってフィリピンから来たの?」
志田さんは少し目を丸くする。
「父親が日本人で、母親がフィリピン人」と私が答える。
「そうなんだ!日本語すごく上手だから全然わかんなかった」
「ありがとう。よく言われる」
聞き慣れたセリフに、いつものテンプレで返す。
「あ、今のお世辞じゃないからね?本当にそう思ってるよ」
志田さんはまっすぐな目で言ってきた。嘘をついていなさそうな声だった。
「……ありがとう」
今度は、少しだけ素直に言えた気がした。
志田さんの視線が、机の上のノートに落ちる。
表紙に書かれた私の名前。
«紀伊 文抄記»
「これ……下の名前?」
「うん。変な字でしょ」
私は少し苦笑した。
「おじいちゃんがつけてくれたんだけど、正直字があんまり好きじゃなくて」
志田さんは少し首を傾げた。
「ううん」
迷いのない返事だった。
「すごく、いいと思う」
「……え?」
そんなふうに言われたのは初めてだった。
志田さんは穏やかに続ける。
「だって、おじいちゃんがちゃんと考え抜いてつけてくれたんでしょ? 意味がある名前って、すごく素敵じゃん」
言葉が詰まった。
からかいでも慰めでもない。本気でそう思っている顔だった。
「よし、決めた!」
麻里が弾けたみたいな笑顔を見せる。
「これからは『文抄記』って呼ぶね!私のことも『麻里』でいいよ。あ、後ろの健くんもね」
「え、俺も?」突然話を振られた健が戸惑う。
「うん!文抄記の友達は私も友達」
「…あ、うん、わかった」
「じゃあよろしくね、文抄記」
麻里がすっと手を差し出してきた。
一瞬どうしようって思ったけど、その手を握り返した。
「……よろしく、麻里」
温かい手だった。手を離すとちょっと照れくさかったけど、不思議と嫌な感じはしなかった。
麻里の視線が、机の上に開いたままの本に落ちる。
「『摩利支天』……」
呟いた声のトーンが、ほんのちょっとだけ変わった気がした。
「知ってるの?」
「うーん、まあ…」
キーンコーンカーンコーン――。
チャイムが鳴って、みんなが席に戻り始める。
麻里も自分の席に戻ろうとした、その時だった。
二つ前の席の植木さんが、肘で筆箱を机の端から落とした。
「あっ」
麻里はそっちを見てなかったはずなのに、まるで最初から落ちるのが分かってたみたいな無駄のない動きで、すっと手を伸ばした。
床に落ちる寸前、空中で見事に筆箱を受け止める。
「はい、セーフ!」
麻里は何事もなかったみたいに笑って、筆箱を植木さんの机に戻した。
「えっ……あ、ありがとう……」
植木さんがぽかんとしてる。
胸の奥に、ちょっとした違和感が残る。
(……今の反応の速さ、おかしくない……?)
そんなことを考えていると、先生が教室へ入ってきた。
私は本を引き出しにしまう前、もう一度だけ摩利支天の挿絵を見た。
微笑む神様の姿が、一瞬だけ、さっき私に向けられた麻里の笑顔と重なった気がした。
【久古崎市】
千葉県北西部の東京湾沿岸に位置する市。北部には下総台地の住宅街、南部には埋立地の団地・工業地帯が広がる。古寺社や軍都の歴史を残す一方、東京のベッドタウンとして発展した、静かな郊外都市である。
明治21年(1888年)に久古崎・谷戸・鷺浜・藤森・久保新田の五ヶ村が合併して千葉郡久古崎村が成立した。明治36年(1903年)には町制を施行して久古崎町となり、鉄道の開通や久古ヶ原演習場の整備に伴って発展した。戦後は急速な都市化により人口が増加し、昭和29年(1954年)に市制を施行。
「久古崎」という地名は、「クコ」「クゴ」と呼ばれる植物が周辺に生えていたことから名付けられたという伝承が残る。
【久古崎市立第三中学校】
久古崎市鷺浜に所在する公立中学校。昭和43年(1968年)、南部埋立地域の人口増加に伴い、第一中学校(同市久古崎)から分離して開校した。団地地区に位置する比較的新しい学校で、地域に根ざした普通の公立校である。




