第三章 - 家 / 5月13日〜14日
夕食を終えて一時間ほど。
おじいちゃんは居間でほうじ茶を飲みながら夜のニュースを見ていて、私は書斎の畳に座って本を開いていた。
天井まで届く本棚には、古い専門書や辞書、黄色く変色した学会誌がぎっしり詰まり、溢れた本が床のあちこちに歪な塔を築いている。
「ねえ、おじいちゃん」
襖の向こうから、眼鏡を掛け直したおじいちゃんが顔を出した。
「摩利支天が光の矢で阿修羅を切り裂いたって話、聞いたことある?」
「いや、初耳だね。どこで読んだ?」
「この洋書に載っててさ」
ページを開いたまま差し出すと、おじいちゃんはしばらく指先で紙面をなぞり、小さく息をついた。
「……面白いな。この話は初めてだ。少なくとも、私が知る経典には無かったはずだが」
「出典も書いてなくて」
「一般向けの本だからね。地方の伝承が混ざったか、孫引きか、翻訳ミスか……あるいは似た神様との混同か。そういうのは珍しくないよ」
「それは最初に疑った」
おじいちゃんが嬉しそうに目元を緩める。
「はは、さすが文抄記だ。可能性はあらかじめ潰してあるわけだね」
「一応ね」
「でもな、文抄記。長く信じられてきた神様には、いろんな尾ひれがつくものなんだよ。地方の言い伝えとか、お寺の勝手な解釈とか。人は物語を作るのが好きだからな」
私はもう一度、洋書の中のあの一文を見つめる。
《あるインドの伝説によれば、摩利支天は光の矢を放ち、阿修羅王を打ち破ったという》
「……結局、この伝承の出所はどこなんだろう」
「それを一生かけて調べるのが、歴史の面白いところだよ」
そう言って苦笑するおじいちゃんをよそに、私は諦めきれず、書斎中から関係のありそうな本を片っ端から引っ張り出した。
三時間後。
私の周りに出来上がった本の城壁を見て、おじいちゃんが呆れ顔で言った。
「ここまで本を積むのは、さすがにやりすぎじゃないかね」
聞こえないふりをして、ひたすらページをめくっていく。
でも、どの本を何百ページ読み進めても、あの伝承は見つからなかった。
時計は十時半を回っていた。最後の本を閉じ、眼鏡を外して目元をこする。
「……家にあるのは、これで全部かな」
居間を覗くと、おじいちゃんはテレビをつけたまま眠っていた。
私はノートを開き、次の調査事項を書き留める。
« Check
・論文データベース
・博物館の図録
・聖光寺(摩利支天関連) »
ペンを置き、ノートを閉じる。
最初は引用元が気になっただけだった。でも今は違う。
歴史のどこかにポッカリ空いた小さな空白を、偶然見つけてしまった。
そんな不審と好奇心が混ざり合った感覚が、胸の奥で静かにうずいていた。
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木曜日。
四時間目の英語が終わるチャイムが鳴った。
子供の頃をフィリピンで過ごした私にとって、中学の英語の授業はほとんど退屈な復習でしかない。ノートの余白は、授業を聞く代わりに描いた落書きで埋まっていた。
描いていたのは、昨日の夜の本で見た摩利支天の絵。摩利支天堂の石碑と同じ、三つの顔に六本の腕。猪の背に乗った少しおどろおどろしい姿だ。シャーペンの芯で細かい装飾をなぞっていると、不思議と気持ちが落ち着いた。
「文抄記って、本当に摩利支天好きなんだね」
突然、耳元で声がした。
「!?」
手元が滑り、黒い線が摩利支天の腕を斜めに横切る。
「……麻里」
椅子を引く音も、足音も聞こえなかった。
いつの間にか私の机の横に立っていた麻里から隠すように、私はノートを半分閉じた。
「別に好きなわけじゃない。調べたいことがあるだけ」
「どんな?」
「摩利支天に関わる、出典のわからない記述を見つけてね」
「ふーん……。あ、その弓、ちょっと違うよ」
「え?」
思わず顔を上げた。
「どこが?」
「えっと……私なら、もう少しこう描くかな」
麻里は空中に指で弧を描いて見せた。
「三日月みたいな感じ」
「いや、私が見た仏画だとこうだよ。そんな三日月型じゃない」
麻里は一瞬だけ表情を固めた。
「あ、そっか。ごめん、私の勘違い!ははは」
慌てて笑ってみせる麻里。
……ただの勘違いにしては、なぜあんなにも確信に満ちた口調だったのだろう。
教室は次の理科の授業に向けて、一気に騒がしさを増していた。
「だからさ、パイナップルピザは絶対うまいって!」
鈴木陽斗くんが身を乗り出して熱弁し、
「いや、エビマヨこそ至高だろ。なんでピザに果物乗せるんだよ」
と板橋くんが呆れたように返す。
「分かってないな、お前ら。ピザと言えばマルゲリータだろ」
健が横から挟み込むと、
「「「健は普通だな」」」
陽斗くん、板橋くん、そして秋月くんまでが声を揃えてツッコミを入れていた。
健が「はあ? 王道と言えよ!」と不満そうな声を上げる。
その隣では、噂好きの三人組――桜井さんと江南さん、宇井さんが机を寄せ合い、ヒソヒソ話に花を咲かせていた。
「ねえ、聞いた? C組の黒澤くんさあ……」
「え、ほんと?」
「それでね――」
潜めているつもりらしい声は、教室の喧騒をすり抜けて周りに筒抜けだった。
そんな喧騒の中、麻里が私を見つめ、少しもじもじしながら言った。
「……ねえ、文抄記」
「ん?」
「文抄記の家、遊びに行ってもいいかな?」
「…うちに?」
「うん。ダメ?」
友達を家に呼んだことなんて、勝手に上がり込んでくる健くらいしか思い当たらない。
「……いいよ」
つい、そう答えていた。
「やった!」
麻里は嬉しそうに席へ戻っていく。ちょうど理科の予鈴が鳴った。
「Anak ng pating.(まいったな)」
なんであんなにあっさり承諾してしまったんだろう。断る理由が思いつかなかったと言えばそれまでだけど。
……でも。
おじいちゃんは、きっと喜ぶはず。
「お客さんが来る」なんて聞いたら、一人しか来ないのに五人分くらいのお菓子を用意しちゃうような人だから。
その様子を想像したら、ちょっとだけ口元が緩んだ。
まあ、いいか。
◇
麻里がうちに遊びに来るのは、てっきり明日以降の話だと思っていた。
ところが、終礼が終わるなり麻里は「じゃあ行こ!」と鞄を肩に掛けた。
靴箱へ向かいかけていた健も、麻里が「文抄記の家って、お年寄りがよく持ってるあの甘いおせんべいがあったりするのかな」とわざとらしく大きめの声で呟いたせいで速攻で釣り上げられ、結局三人で帰ることになった。当然、おじいちゃんには何も伝えていない。
玄関の引き戸を開けると、はたきを持ったおじいちゃんが居間から顔を出した。
「あれ、おかえり。おや、お友達かい」
「急に決まって……」
私が説明するより早く、麻里が深くお辞儀をした。
「志田麻里です。急にお邪魔してすみません」
「いやいや、大歓迎だよ。君が文抄記の新しいクラスメイトかい?さあ上がって、すぐお茶を淹れるから」
おじいちゃんに促されて居間へ上がると、麻里は四方を埋める本棚と、あちこちに積み上げられた本の山を見渡して、目をキラキラさせていた。
「わあ、本がいっぱい!まるで図書館みたい!」
「これでもまだ片付いてる方だけどな。普段はもっと足の踏み場ないぞ」
横から健が余計な口を挟む。
十分もしないうちに、座卓の上はおせんべいや梨、温かいお茶でいっぱいになった。
学校の話題から、会話はいつの間にか地域の歴史の話へと移っていった。
「そういえば、志田さん」おじいちゃんが湯飲みを置く。「摩利支天堂に行ったんだって?」
「はい。昨日ちょっと気になって行ってみたら、健くんと文抄記にばったり会って」
「ほう」おじいちゃんは嬉しそうに頷いた。
「信じられないかもしれないが、あそこは昔はもっと賑やかだったんだぞ。春と秋にはお祭りも開かれてな」
「秋祭りの夜に、村の子どもたちが提灯を持って、行列になってお堂に上ってたんですよね。提灯に、猪の絵が描いてあって…」
その瞬間、おじいちゃんが「おや」と目を見張った。
「あっ」
麻里は自分の口を押さえ、小さく目をぱちぱちさせる。
一拍置いてから、照れ隠しのように笑った。
「えっと……どこかで読んだ気がして」
ちら、と私の方を見る。
「……あそこの案内板、だったかな?」
案内板?
……いや、あの文字の掠れた古い木板に、そんな色彩やかな伝承の描写なんて書いてあるはずがない。
おじいちゃんも一瞬、疑問を浮かべるように首を傾げたが、すぐに柔らかい笑顔に戻った。
「まあ、確かにそういった記録は残っているからね。でも、私が子どもの頃にはもうだいぶ規模が小さくなっていてね。その行列もなくなっていたよ。祭り自体も、ほとんどは聖光寺さんの境内で行われるようになっていた」
おじいちゃんはお茶を一口すする。
「あ、そうだ。摩利支天に興味があるなら、東京の徳大寺や京都の禅居庵なんかも面白いよ」
「徳大寺……」
私が呟くと、麻里が「あ、行ったことあるよ」と頷いた。
「東京にいた頃?」
「うん。アメ横のすぐ近くなんだけど、あそこだけ時間の流れが違うみたいで好きなんだ」
「へえ」
「あと禅居庵って、小さい摩利支天像があるところ……ですよね」
麻里はぱっとおじいちゃんの方を向き、目を輝かせた。
「そうそう」おじいちゃんが嬉しそうに頷く。
「清拙正澄という中国から来た禅僧と、小笠原貞宗が開いたお寺だ。あそこの摩利支天像は、清拙正澄が泥で作ったものだという伝説が残っていてね」
「清拙正澄さんは、摩利支天を篤く信仰していたんですよね」麻里が自然に続ける。「日本へ行く前に摩利支天が現れて……それで、その姿を忘れないように、土で像を作った……んですよね」
最後だけ、少しだけ語尾が弱くなる。
「おお、よく知っているね」おじいちゃんが感心する。
「実は古いお寺とかが好きで……」
私は「へえ……」と声を漏らしながら、麻里の横顔をじっと見つめた。
詳しい。本当に詳しい。
……でもまあ、ネットで調べれば詳しい情報なんていくらでも出てくる時代だし、麻里が本当に歴史好きなら、これくらい覚えていても不思議じゃないのかもしれない。
「麻里ってさ、意外と歴史オタクなんだな」健が気にせずおせんべいをかじる。
「ネットでいろいろ調べてるうちにね」麻里は笑ってごまかした。
やっぱり、胸の奥に小さな引っかかりが残った。
案内板のことだってそうだ。私が何か見落としていただけかもしれないけど、あの古びた看板に、あんなに詳しいお祭りの記述があっただろうか。
今度また丘へ行ったら、あの案内板をもう一度最初から読み直してみよう。
そう思いながら、私は少し冷めたお茶に口をつけた。




